「ぱんつ、死守、了解」

 気付いたとたん、冷たい感覚が背中を流れくだった。河の向こう岸からノーラス城砦を射すくめる気だ。

 ニコルは、もどかしい手振りを交えてしゃべり始めた。

「方角は北北東。川沿いに三角の岩が見えます。橋頭堡が建設されています。未確認の新型攻城砲、おそらく重加濃カノン砲を確認。あれが投入されたら、砦へ直の弾着もあり得ます」

「距離は」

「正確には分かりません。測距しないと」

 ニコルは、真っ直ぐにザフエルを見返した。

 ザフエルは黒い眼を冷ややかに細めた。ゆっくりと促すように言う。

「見えるのは機甲部隊のみですか」

「今のところは」

「突撃騎兵であるサリスヴァールが混成部隊の思想を語るほど徹底された混合軍制を布くゾディアック軍が、防御力皆無な砲兵のみを動かして攻城作戦を行うとは考えられませんな」

「つまり、敵陣地からの砲撃は、ノーラスを出て迎撃に向かう部隊を個別に刈り取るための陽動の可能性があると」

「十中八九。このままでは迂闊に城外へ兵を出せません」

 質問から答えを導き出すのに、それ以上の時間はかからない。

 ニコルは、唇を引き締めた。まさしく前門のぱんつ、後門の怪物スライム。ついでに外からゾディアック軍の攻撃。

 ザフエルはおもむろに膝を立てた。冷静に、ざぶりと身を起こす。腰にほんの僅か残ったモザイク模様だけがせめてもの救いか。

 ニコルは、真っ赤に茹だったくしゃくしゃの顔を、ぱっと両手で覆い隠した。

「モザイクとか見てないですから」

「見てないと言われましても。全部見られた私の立場は」

 たじろぐニコルに、ザフエルは厳格な口振りで言い放った。

「閣下、戦闘配置命令を」

 ぱんついっちょだろうがもじゃもじゃふんどしだろうが、まるで泰然自若。

「戦闘配置の前にお願いが」

「何でしょう」

「せめて、その」

 ニコルは、ほそく開けた指の合間から、おどおどとザフエルの顔を見上げた。もじゃもじゃのふんどしからチラチラはみ出すモザイク模様に、耳の先までかぁっと朱に染める。

「ぱ、ぱ、……ぱんつだけは絶対に死守願います」

 震える声で付け加えた。

「ぱんつ、死守、了解」

 ザフエルは何も持たぬ手で悠然と敬礼した。

 そのまま、モザイク柄のぱんつに葉っぱのふんどし、黒の乗馬ブーツという、最高レベルの変態紳士姿で会議室を歩み出てゆこうとする。ニコルは焦ってザフエルの背中を追いかけた。

「さすがにその格好は師団参謀としてどうかと」

「敵が攻めてこようという時に、呑気に身をやつす暇などありません」

「むしろ全員モザイクにやられてしまいまうっぷ」

 ザフエルが唐突に足を止めた。いきなり振り返る。

 もちろん、全力で後を追っていたニコルがどうなったかは言をたない。当然のことながら、思い切り、ぶっちゅうとザフエルのお腹に突撃した。顔ごとめり込む。

 ニコルは真っ赤になった鼻と口とを押さえ、くらくらと後ずさった。

「な、何っ何で止まっ」

 涙目で唇を押さえる。ザフエルのお腹に、メガネのかたちが、くっきりとした赤い跡になって残っていた。

「はて」

 ザフエルは、当惑の仕草で腰まわりをごそごそとまさぐっている。

 おそらく何かを探しているのだろう。が、まさぐるも何も、そもそもモザイク柄のぱんつ一枚しか身につけていない。捜し物の行方など推して知るべしである。

「どうかしたんですか」

 ニコルが尋ねる。ザフエルは、ニコルの顔が当たった腹を撫でた。ちらりと顔をあげる。

「《黒炎射こくえんしゃ》を紛失したようです」

 ニコルは、思わずザフエルの手に見入る。ザフエルは、ぱんつのゴムを上に横に引っ張って、中をのぞいていた。

「ふむ、ここにもありませんな。どこぞで見かけませんでしたか」

「絶対見ませんから。まったく油断も隙もない」

 ニコルはそむけた顔を朱に染めて言い返す。

 遠雷を思わせる砲撃が鳴り響いた。床が振動する。岩が転がるような鈍い音が聞こえた。

 ついに砲撃が始まったようだ。ニコルは、ザフエルと顔を見合わせた。

「あと数発、弾着修正を食らったら、被害が出る可能性も十分あり得ます」

 右手に嵌めた《先制のエフワズ》が、警告のきらめきを繰り返す。

「了解。さすがに対策を急がねば。とにかく外へ」

 ザフエルは無表情にひとりごちると、戸口へと向かった。廊下へと続く、半壊した扉を蹴り破る。

 かろうじてちょうつがい一枚でぶらさがっていただけの戸板は、脆くもちぎれた。横転しつつ、吹っ飛ぶ。

 向かい側の壁に跳ね返ったのを平然と踏みつけ、廊下に出る。

 互い違いにもつれあったピンクと紫のサイケデリック市松模様のツタが、廊下の端から端まで、ぎっちりと埋め尽くしていた。

 完全に行く手がふさがっている。

 錯視のだまし絵を見ているようだった。異様な色彩感覚に遠近感が狂う。目がぐるぐるした。

「うわ、何だこりゃ。ツタがいっぱいで出られないじゃないか」

 ニコルは、天井から何本も垂れ下がった蔓を、何気なく払いのけた。《先制のエフワズ》が赤くまたたく。

「ザフエルさん、これ、どうします? めまいがしそうなんですけど」

 直後。

「ハニャーー!」

 巨大な深紅の花が落下してきた。真っ赤な花びら一枚一枚に、爬虫類のような牙がずらりと生え揃っている。牙どうしが噛み合わさって、カスタネットのような音を軋り鳴らした。

 ところが、である。当のニコルは、まるで頭上より迫る危機に気づいていなかった。

 食虫植物が、赤と黄色のまだらになった狂暴なあぎとを開いた。雄しべだか雌しべだか、粘液を垂らす無数の触手めいたしべが、ねろねろと汚らわしくよじれる。

「あっ」

 と、声を上げて、ニコルは身をかがめた。スライムに濡れて溶けかけた上衣ポケットに穴が空いて、そこから、小瓶がいくつかばらけて床に落ちたのだ。ころころと足元に転がる。

「何か落ちましたぞ」

 ザフエルは、表情ひとつ変えないまま、ニコルの頭を食いちぎりに来た花を裏拳でぶん殴った。

「ハニャーー!」

 食虫植物は、花血はなぢを吹いてバネのようにちぢんだ。天井へと戻ってゆく。再び反動で落ちてくる。殴る。ちぢむ。落ちてくる。殴る。まるで逆モグラ叩きだ。

 さすがに懲りたのか、それ以上は降ってこない。ニコルは、瓶を追いかけて、ザフエルの足元までちょこまかと走った。

「何ですかな、これは」

 ザフエルは、空の瓶ひとつと、その他を拾い上げた。

「愛用の調味料セットです。塩とコショウととんがらし粉」

「なぜこんなものがポケットに」

「食堂で使おうと思って」

「こんなもの振りまいたところで、閣下をヒィヒィ泣かすぐらいにしか役に立ちませんな」

 言うなり、ツタの隙間から、ぽいと窓の外へ放り投げる。窓の下から「痛っ」という誰かの声がした。

 ニコルは笑って、ザフエルを振り返った。

「誰が泣くもんですか。勝負します?」

「受けてたちましょう」

「後で泣いても知りませんよ。で、どうします? まったく進めないみたいですけど」

 怪物スライムがまき散らしたのであろう、べたべたした粘液が、そこらじゅうに白くこびりついている。

 城砦内のどこかから、悲鳴が折り重なって聞こえた。

「ふむ」

 ザフエルは拳を撫でた。仏頂面で考え込む。

 と、いきなり。ニコルの腰を片手で抱き寄せた。吊り橋のようになったツタの端に飛び乗る。

「ほぎええええ!?」

 ニコルは、頭のてっぺんから変な声を上げた。

「変な声を出さない」

「ひゃぁぁぁあ!?」

 たしなめられても、出ちゃうものは仕方ない。

「そのまま動かないように。さもないと、枝に引っかかりますぞ」

 不安定きわまりないツタの上を、平地と変わらぬ足取りですたすたと歩き始める。

「はぎゃあああ!?」

 腰にぐいと手を回され、直に肌と肌が触れあうほど押しつけられて。歩くたびに、触れ合った(モザイク模様)部分の熱と振動とが、お腹のあたりに直接伝わってくる。

「あ、あ、あのっ、じ、じ、じぶ、自分で歩けますから……!」

 悲鳴のような声をあげ、ニコルはじたばたもがいた。

「お掴まり下さい。揺れますぞ」

 ザフエルは前方を見つめたまま、一瞥もしない。

 二人分の体重がかかるせいか、歩くたびに、足下のツタが音を立てて軋んだ。今にも踏み折ってしまいそうなほど揺れ動く。

 振り回されるのに堪えきれず、ニコルは、ザフエルの首根っこにぶら下がった。腕を回し、ぎゅっとしがみつく。目の前にあの傷が迫った。ザフエルの過去そのものと言っていい、謎の創痕きずあと

 押し当てた耳に、ザフエルの心音が聞こえてきた。わずかに速い。息が詰まる。ニコルは喉をごくりと動かした。動悸だけがザフエルを追いかけて、絡み合う早鐘を打っている。

 ザフエルは、ときにツタのトンネルをくぐり、ときに反動をつけて飛び移りながら、平然と進んでゆく。

「あと少しです」

 ぐらぐらと視界が揺れた。ゆすぶられ、眼が回りそうになる。振り落とされないよう、ザフエルにすべてを預けるしかできない。

 ようやく――

 ザフエルは、不安定なツタの橋を悠然と渡り切った。天井近い高さから、事もなげに飛び降りる。靴音ひとつ聞こえなかった。

 風にたなびく燭火のような身のこなし。ゆらりと身を起こす。闇色の霧にも似ていた。たかが参謀軍師の所作ではない。

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