《悪魔の紋章》
「ちっちっちっ違うでしょううううっ!! 何を馬鹿なこと言ってるんですかっ!!」
「ふむ」
さすがのザフエルも、衝撃の事実を目の当たりにして、少々顔を引きつらせていた。窓の外へ、ちらちらと視線をやる。どうやら焦っているらしい。
「大変なことをしてしまいました」
「してませんよ! 何言ってるんですか勝手に変な想像してないではやく何とかしてください!」
「何とかせよと言われましてもな」
ザフエルは、片手で目と額を一緒に押さえた。むうう、と唸る。
「一夜をともにしてしまった以上、私も男です。責任をとって閣下と結婚するしか」
「し、し、し、してませんってばわざわざ勘違いするなあーーーーっ!!」
どうやら二人とも、ソファで仮眠を取るつもりがそのまま朝まで熟睡してしまったと、そういうことらしかった。
驚きと衝撃の嵐が過ぎ去ると、解決すべき問題だけが、ずーんと重く双肩にのしかかる。
「とにかく、これだけははっきりしてます。今から正午の発令なんてぜったい間に合いません」
ニコルは、半泣きでサインし続けながら主張した。
「言い争っている場合ではありません。事は急を要します」
冷静な顔のザフエルに諭される。一緒に寝落ちしておきながら何を堂々と開き直ってくれちゃっているのか。
誰のせいで、こんなせっぱ詰まった状況に追い込まれたのか。考えただけで、胸がせつなくなる。
言うまでもない。
うたたねしてしまった自分のせいである。
よくある話だ。翌日が提出期限の書類を仕上げようとして、あるいは翌日提出のレポートを仕上げようとして、つい、うとうとしてしまう。そうだ、ちょっとだけ横になろう。五分後に起きてやれば頭もスッキリ。それからまた仕事再開。と思って目が覚めると朝でした。ぎゃああああ。
何というあるある事象だ。
だが、ここで負けては男(?)がすたる。
ニコルは半ばヤケになって、とにかく目の前にあった報告書を
中身を見て、ふと真面目な顔にもどり、眉をひそめる。
使える。使えるぞ。
誰が考えても魔が差したとしか言いようのない無謀なたくらみが、むくむくと湧いてくる。
ニコルは、ひそかに、にんまりと笑った。
さっそく、腕を組み、ザフエルの万年筆を耳に挿した。椅子の背中をゆらゆらさせ、書類を前に考え込む。
「旧態の重騎兵、竜騎兵から
「新たな軍馬を徴用するだけでも、少なくはない時間がかかりますな」
ザフエルは表情を変えない。先ほどのどたばたなど、すっかりどこかへ飛んでいってしまったかのようだ。ニコルは続けた。
「機動性、即応性、一撃離脱を重視する、と。ゾディアック帝国と僕らティセニア公国とでは、やっぱり軍制の近代化において、かなりの思想差がありますね」
ザフエルも、その点は同感らしかった。声に出しこそしないが、首肯する。
ニコルは、メガネを指先で押し上げては落とし、持ち上げては落とした。書類の数値を、右、左と何度も見比べる。
「いつまでも守勢でいられるとは限らない。軍制研究の資料が欲しいな。いろいろ勉強したいです。チェシーさんに聞いてもいいけど、あのひとは基本、斬った張ったぶっ飛ばしたの人だからな。よし、決めた」
デスク上の書類をぱん、と平手でたたく。
「ディー主計監に、修正をお願いしてください。配備はできるだけ前倒しの方向でいきたいです。これだけ急ぎで差し戻し。必要であれば軍債の発行も考慮してかまいません。私募債ならすぐ手当てできます」
えいやとばかりに、数字の五桁目を二から三へ書き換える。
「この件は、あとで僕からバラルデス護国卿とアーテュラス内務卿に陳情書を出しておきます。それから」
伏せた顔の下で、表情を秘め隠すメガネが不穏に光った。
「ついでに万年筆も欲しいです」
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、こそっと付け加える。
「却下」
電光石火の早業で否決される。
さっきまで、眼を開けたまま堂々と寝ぼけていたくせに。と、ニコルは、やや見当違いの怒りで、デスク下の握りこぶしをプルプルわななかせる。
が、こんなところでボロを出しては元も子もない。陽動作戦を、それと感づかれては、何もかもが水の泡だ。何せ、敵は百戦錬磨の老獪な将軍。事は慎重に運ばねばならない。
「ところで、昨日言ってた、内々の話のことですけど」
水面下の悪巧みを悟られないよう、ニコルはザフエルに背を向けた。せっせと仕事に
ザフエルは、重い口を開いた。
「先日の査問会で、サリスヴァールが行った供述によりますと、ゾディアック帝国は既に《悪魔の石板》を解読し、召喚術士の実戦配備をすすめている、とのこと。早急に対処されたしとの通達が幕僚本部よりございました」
ニコルは、ザフエルがしゃべっている間に、書類の隙間へすばやく紙切れを紛れ込ませた。
「《悪魔の紋章》」
「はい」
泥水を含んだような不安が、胸にひたひたと滲み出してくる。
《紋章》を所持するものは、盟約を結んだ悪魔の力を行使することができる。
チェシーは自らの亡命許可を取る代わり、代償として《紋章》の話を持ち出したのだろう。だが、その条件は諸刃の剣だ。《紋章》の使い手だと明かすことは、すなわち、聖ローゼンクロイツに対して、異端の表明をするに等しい。
左腕につけた《封殺のナウシズ》が、視界の隅で薄青く輝いている。慈母のまなざしにも似た、おだやかな光。
ニコルは、ルーンをてのひらで包んだ。握りしめる。温かみが伝わった。
「それってつまるところ、異端審問せず生かしてやる代わりに、《紋章》の力をよこせってことですよね」
突き放すようなニコルの言葉に、ザフエルは、なおのこといっそう表情を秘め隠した。
「現在、サリスヴァールは《悪魔の紋章》を所持しておりません」
「持ってない? 何で?」
すっとんきょうに聞き返す。
「《紋章の使い手》だってはっきり言ってたのに。ザフエルさん知ってたんですか」
ザフエルは答えない。だが、その無言の意図がどこにあるのか、ニコルは長年の付き合いでよく知っていた。
「何だ、持ってないんだ、そっか。だったら、
自分の言葉に、自分でも胸がざわつく。ニコルは、ザフエルを見やった。ゆるぎない信仰を秘めた漆黒の瞳が、ひたとニコルを見つめている。
今は、持っていない。ザフエルはそう言ったのだ。
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