チェシー・エルドレイ・サリスヴァール

「ふぎゃっ」

 当然、体格的にはまったくかなわない。ニコルは思い切り横殴りに吹っ飛ばされた。廊下をゴロゴロ転がる。メガネがどこかへ飛んでいった。

「痛ったあああー!」


「ああっアーテュラス司令、申し訳ございません。お怪我は、お怪我はありませんかっ」

「メガネメガネメガネっ」

「メガネでしたらこちらに」


 メガネを拾ってくれた伝令が、その瓶底っぷりにくらくらしているのを後目に、ニコルは顔を半分隠しながら慌ててメガネをかっぱらった。

「ごめん。急いでたものだから、ありがと。じゃあねっ」


「お待ち下さい」

 泡を食った伝令が追いかけてくる。

「何です? 僕急いでるんで。早くしないと廊下にまで地雷を仕掛けられちゃうんだよ」

 見事な前傾姿勢で廊下を走りぬけながら、器用に振り返って尋ねる。戦場でも逃げ足だけは早いという噂は、どうやら本当らしい。


「あのっ」

 伝令は必死でニコルに追いすがった。

「そのことです。先ほどの敵襲は誤報でしたと副司令官から」


「ん?」


 ニコルは、階段の手前で急に立ち止まった。しかし伝令は止まりきれず、「うわあああ」とか叫びながら階段をごろごろと転がり落ちていった。ニコルは青くなって手すりから身を乗り出した。階下に向かって、心配の声を掛ける。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

 さすがはティセニアの聖騎士。頑丈である。


 よろよろと起きあがりながら、伝令は上着の裾を引っ張り、皺を伸ばして、どうにかこうにか居住まいを正した。


「その代わりに、捕虜を一名捕らえました」


「……一名だけ? それっぽっち?」

 ニコルは思わず笑った。

「それなのに、あんな大騒ぎをしてたんですか?」


「ええ、ですが、あの」

 どうやら伝令は、実際に捕り物の場に居合わせていたらしかった。

「その一名を取り抑えるのに、我々一個中隊が束になって掛かってもまるで歯が立ちませんでしたので」


 それを聞いて、ニコルはぐりぐりメガネをきらりと何気なく光らせた。

「ふぅん……?」



 男は――捕虜でありながら、不遜だった。


 全身血まみれ、ゾディアック帝国の軍服を酷い有り様にしていながら、危険な魅力はまるで失われていない。

 牢獄の壁にもたれ、荒々しい息を弾ませながら、煩わしげな態度で何度も手を振って繰り返す。


「だから先ほどから何度も言ってる。亡命(エグザイル)だ。亡命。この場で手続きを申請する。君らのような下っ端には用がない。司令官に直接話をしたいとチェシー・エルドレイ・サリスヴァールが言っている。そう伝えろ」


 男を捕らえたティセニアの国境警備兵たちはとまどうばかりだった。男の行動は以下の通り。

 敵襲と見紛うほどの大立ち回りをこれでもかと繰り広げた挙げ句、強引に城砦の門を押し通る。そこでなぜかいきなり投降すると言って座り込む。そして一旦座り込んでしまえばもう、テコでも動かない。


 数十人がかりで何とか武装を解除し、独房へと押し込んだは良いものの、今度はいつ鎖を切って暴れ出すやら分からない。


 その男が、あろうことか亡命を申請すると言い出した。


 敵国ゾディアック十二宮師団の中でも精強で知られる第四師団、又の名を『天空の悪魔』。その精鋭部隊を率いる将校、チェシー・エルドレイ・サリスヴァールの名を騙って。


 いったい、なぜ。


「ちょっと、ごめん」

 男を捕らえた独房の前に、身をかがめたティセニアの将校がやって来る。壁に燃える蝋燭の火を、顔半分を覆う巨大なぐりぐりメガネがぴかりと反射した。そのせいで表情は定かにならない。ニコル・ディス・アーテュラスだ。


 ニコルは傍らの看守に声をかけた。

「ザフエルさんはまだ後始末中かな。呼んできて」

「はっ、ただいま」

 くるりんヒゲをたくわえた看守が槍の石突きを鳴らし、直立不動の姿勢をとる。別の看守が駆け出して行った。足音が遠ざかる。



 牢の中の男が、ようやくといった様子で薄目を開けた。

「あんた、ここの司令官か」


 ニコルは小首を傾げた。

「ありゃ、そう見えます? えっへん。だとしたら僕もけっこう威厳があるんだな」

「そんなものはない」

 男は傲然と言った。ニコルは背後に控える看守を見やった。看守は直立不動のまま、必死に顔だけを別の方向へとねじ曲げて、何も聞かなかった振りをしている。


「ぅっ……断言されてしまいました」

「だが、ルーンの波動を感じる。ルーンに選ばれるような人間には見えないがね」


 男は壁から身を起こした。檻の外のニコルを、上から下までじろじろと検分する。これではどちらが捕虜か分からない。

 ニコルは苦笑いし、男の能弁を遮った。


「僕が尋問してるんです。なんで捕虜である貴方に、そんなこと問いただされなくちゃならないんですか」

「然もありなん。自粛しよう」

「それより貴官の名を伺いましょうか。ゾディアックでの所属と階級をどうぞ」


 男は鎖の巻きついた手首を、いかにも大儀そうに持ち上げてみせた。金色に縫い取られた袖章のかたちを見せつける。しかるのち、いかにも尊大に名乗った。

「チェシー・エルドレイ・サリスヴァール。第四巨蟹宮きょかいきゅう師団指揮、上級大将だ。……かつては」


「サリスヴァール」


 ニコルは、男の名乗った名を注意深く繰り返した。敵に回せば、間違いなくぞっとする名前の一つだ。

「はて、聞いたことがあるような無いような」


 サリスヴァールを名乗った男は、がくりと肩を落として笑った。

「無いのか。こう見えて、さんざん君らの軍を撃ち破ってきたはずだがね」

 ニコルは首を傾げ、とぼけてみせた。

「そんなこと言われましても。僕はあんまり前線に出して貰えないので」

「何だそれ。とにかく亡命を許可してもらいたい」

 ニコルはうなずいた。

「そうですね。ちょっと上層部に尋ねてみましょうか」


 サリスヴァールは奇妙な顔つきをした。

「疑わないのか」


「あっ」

 ニコルは眼をぱちくりとさせた。

「それもそうでした」


「普通はもうちょっと疑うだろう。諜報員じゃないのか、とか。いったいどんな頭してるんだお前」

「お前だなんて失礼な。いくらなんでも、どんな頭はないでしょう」

 むきになって言い返す。

「ティセニアには『来る者は拒まず去る者は追わず』という教えがあるんです」

「そんな脳天気な宗教、俺は信じたくない」

「信じて戴かなくて結構です」

「ところが信じてもらわなくちゃならない理由がある」

「……だから別に信じてないわけじゃないって最初から言ってるじゃないです……あれっ?」


「分かったから落ち着け、な? 司令官殿?」

 こともあろうに亡命者チェシー・エルドレイ・サリスヴァール本人に諭されて、ニコルは悲しげなため息をついた。

「……分かりましたから、さっさと理由を述べて下さい」


「ここじゃ言えないな」

 チェシーは含みありげにニヤリと笑う。



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