第7話

 日曜日のスーパーは、なかなかに賑わっていたので、男性もけっこうな人数がいた。

 普段なら、みおもなんとか我慢できる人数だったが、今朝の仕打ちがあったため、買い物をするのも一苦労だった。


 やっとのことで買い物を終えてスーパーを出たみおは、買い物袋を落としそうになった。


 左腕が痛む、というのもあるが、目の前に関わらないと決めた同級生がいたからだ。


「あら。奇遇ねえ。お買い物?」


 アタシはお散歩なんだけど、と裏声で言う彼(彼女)は、ふわりと微笑んだ。


 彼(彼女)――れいは、お散歩というのに相応しい、動きやすくシンプルな服装だ。しかし、みおの目には、彼(彼女)の服の生地は高価そうに見えた。


 さらに言えば、彼が普段から、今現在も着けているアクセサリーも、高校生の持ち物としては高価なものである。

 アクセサリーについて、みおは詳しくないので、その価値には気付いていない。


 高価な服であれば、みおの父がよく着ているので、なんとなくだがわかるのだ。ちなみに兄もたまに良い服を着ている。

 その彼らがアクセサリーを好まないので、みおも詳しくないのだ。


 そして、みおの私服はいつも安物だ。これももう慣れているので、彼女はなんとも思わない。


 みおは微笑んだままのれいの顔を恐る恐る見上げる。その顔は、平均以上に整っているので、「大抵の女性は惹かれるのだろう」と、どこか他人事のように考えながら、みおは軽く会釈した。


「こ、こんにちは……桜井君……」

「はあい、こんにちは。」


 笑顔のれいに対し、みおは顔面蒼白である。


 今朝、父から暴力を受けたばかりで、今はどんな男性に会っても体が言うことをきかなくなる。

 スーパー内での買い物ですら苦労したというのに、男子と話すのはつらいものがあるのだ。


 それでも、声を掛けられたのに無視するわけにもいかず、みおは挨拶だけでも、と頑張って口を開く。


「えっと……その、さようなら。」


 会釈したまま顔は上げず、さっさと立ち去ろうとしたら、方向転換したところで誰かにぶつかってしまう。


 みおは咄嗟に謝ったが、次の瞬間、怒号が飛んできた。


「どこ見て歩いてんだ!」


 どうやら、男性にぶつかってしまったらしい。

 そして、その男性はなかなか沸点の低い人物だったらしい。


 それは、スイッチみたいなものだ。

 みおの体はすくみ、完全に動かなくなってしまう。


 こういう場合は再度謝るべきだとは思うが、声が上手く出なくなる。逃げ出したいのに、足が動かない。


 みおの頭に父や兄たちの顔が浮かび、男性の怒声と重なっていく。


 急に左腕の痛みが増した気がして、力が入らなくなり、みおは買い物袋を落としてしまう。

 体が動かないので、それを拾うことすらままならない。


「おい、謝ったらどうだ?」


 男性がさらに声を荒げる。周囲の人間は、何事かと足を止め、みお達を遠巻きに見始める。


 そのとき、れいが男性の前に立ち塞がった。


「ちょっと、この子はちゃんと謝りましたよ。いい大人が女の子相手に恥ずかしくないんですか?」


 みおも数回しか彼(彼女)の声を聞いたことがないが、今回は今までと違い、裏声ではなかった。

 そのため、みおには一瞬誰が喋っているのか判断がつかなかった。


 彼(彼女)の言葉で周りの視線に気付いた男性は、罰が悪そうにその場を去っていく。


 高校生に咎められてすぐ去るほどのことなら、そんなに怒る必要はなかっただろうに、とれいは呆れてため息を吐く。


 男性の背中が見えなくなるのを見届けたあと、れいは振り返り、みおの荷物を一つ一つ丁寧に拾い始める。


 それを見て、周囲の人々はまるで何事もなかったかのように元の行動に戻っていく。


 れいはそれを横目に見ながら荷物を拾い終え、立ち上がる。


「中身は大丈夫みたいね。あなたは大丈夫?ひどい男よねえ、ちょっとぶつかったくらいであんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。はい、これ……」


 れいは声を裏声に戻し、みおに買い物袋を差し出すが、彼女は全く反応しない。


 れいも彼女が「男が苦手」と言っていたのを忘れているわけではない。それでも、これはおかしい。

 少し震えているではないか。

 いくら男が苦手だからといって、2回ほど怒鳴られたくらいで、こんなに怯えることがあるとは思えない。


 れいはもう一度、みおに声をかける。


「大丈夫?ねえ……」


 そこで、彼女の名前を呼ぼうとして、れいはそれを知らないことに気付いた。彼女の方は、いつの間にか自分の名前を知っていたが。


 れいは少し屈んで、みおの顔をのぞきこむ。

 彼女の顔はひきつっていたが、それでも目はれいを捉えている。それを確認して、れいはにっこりと微笑んだ。


「ねえ、あなたのお名前は?」

「え……?」


 予想外だったのだろう。みおはきょとんと目を丸くした。


 しばらくにこにこと微笑んでいるれいを見た後、みおは目を横に逸らし、ゆっくりと口を開いた。


「梅林……みお……」

「みおちゃんね!知ってるみたいだけどアタシは桜井れいよ。『さくらちゃん』か『れいちゃん』って呼んでちょうだいね。」

「え、えと……え?」


 きょとんとしたかと思えば、目を泳がせるみおを見て、れいはくすくすと笑う。


 彼女の体は動くようになったらしい。

 れいは改めて、買い物袋を差し出した。


「はい、これ。どうぞ。」

「ありがとう……」


 みおがそれを受け取ろうと両腕を差し出す。


 その袖からのぞいた赤い肌に、れいは思わず買い物袋を引っ込める。


「どうしたの、これ!火傷じゃない!病院は?行ったの?」


 2、3回しか話したことがないのに、ものすごく心配されてしまい、みおは困惑する。


 そして、先ほどから驚きや困惑続きだったせいだろうか、口を滑らせる。


「これは、お父さんが怒って……」

「え?」


 驚いた表情のれいを見て、みおはハッとする。父親が怒って味噌汁かけてきました、など言ってはいけないことだ。


 家庭の事情をれいに話す必要はないし、話してしまえばどんな仕打ちが待っているか、想像もしたくない。


 みおは慌てて早口で捲し立てる。


「お父さんが珍しく怒っててね!びっくりしたら持ってたお味噌汁がかかっちゃって!今日は病院開いてないから、明日でいいかなって!」


 男子相手に、はっきりと大きな声が出たことに、みおは自分でも驚いた。

 女子相手だって、沙紀以外とは、まともに会話することすらないのに。


 みおの説明を聞いたれいはというと、少し考える素振りを見せた後、みおの買い物袋を自分の肩にかけた。


「うち病院だから、いらっしゃい。医者は父だけど、母も姉も看護師だから、多分怖くないわよ。」


 そう言ってまた微笑んだれいを、みおは怖いと感じなかった。


――男子なのに。こんなに怖い見た目なのに。


 そのまま歩いていってしまうれいを、みおは雛鳥のようにひょこひょこと追いかけていく。


 そのときのみおの頭からは、昼食の準備のことも、聖斗の呼び出しのことも、不思議と抜け落ちていた。


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