第5話

 四月も終わりがけの日曜日。


 日曜日でも、みおの気が休まることはない。いや、日曜日は、特に気を抜くことが許されない。

 休日といえば、基本的に父親が家に居るのだ。用事がなければ兄二人もいる。


 彼女は、父兄三人よりも早く起き、朝食を作ったり、その他の家事をこなさなければいけないのだ。


 何故娘のみおが一人でそんなことをしなければいけないのかというと、父兄曰く、「みおの家には母親がいないから」だそうだ。


 彼女の母親、梅林聖美さとみは五年前に事故で他界した。

 その母親の死を、父や兄はみおのせいだと責め立て、彼女に家事全般を押し付けている。そういう家族なのだ。


 そして、みおも少なからず母の死に責任を感じており、文句を言わずに家事をこなす。




 以前、親戚や沙紀から「みおだけがそんな目に遭うのはおかしい」と言われたが、みおはそれに曖昧な笑みを返すしかなかった。


 親戚や沙紀の心遣いは確かに嬉しいしありがたい。


 しかし、みおだってどうにかできるなら、この家から逃げ出せるのなら、とっくの昔にそうしている。


 数年前に、親戚がみおを連れ出そうとしたことがあった。

 だが、すぐに父や兄に見つかり、「帰ってこなければ親戚が怪我をすることになる」と脅され、みおは自ら家に帰った。


 それ以来、みおは誰にも助けを求めなくなった。

 沙紀との交流だけを心の支えにして、つらい日々を生きている。





 みおは今日も早起きして、朝食を一人で作る。

 メニューは、味噌汁に焼き魚、父兄それぞれ好みの漬物だ。典型的な朝食といった感じだが、日曜日の朝はこれと決まっている。何せ和食や魚は父の好物だからだ。


 父の好みの薄味に仕上がるよう、分量に注意しつつ朝食を作り、食卓に並べる頃、兄二人が起きてくる。

 今日は用事もバイトもなかったらしい。


 父親が厳しいので、寝巻きのままということはない。

 それでも寝癖はついているし、あくびをしながらで、若干のだらしなさは否めない。


 兄二人はみおに挨拶もせず、食卓に座る。

 みおもさして気にしない。これが当たり前の朝だから。


 兄二人は食卓で同じ顔を並べ、雑談を始める。


 大学の話、近所にできた病院の話、テレビの話、バイトの話。

 その話にみおが参加することも、やはりない。


 みおの兄は双子で、みおより5つ年上の大学生。


 兄の聖斗まさとは少し長めの茶髪、まるでモデルのような細身の体だ。意地の悪そうな顔をしており、家では笑っても爽やかさなど微塵も無い。それが、外に出ると爽やかな笑みで優しさを振りまくのだから、詐欺もいいところだ。


 弟の英斗ひでとは黒髪短髪で 、聖斗とは違いスポーツをしており、屈強な体型だ。顔は聖斗と同じだが、常に柔らかい表情をしており、それが家でも崩れることはない。ただし、この屈強な体型で殴られるのはたまったものではない。


 二人とも普段はバイトにサークルにと忙しいご身分だが、今日は二人とも何も用事がないらしい。




 少しして、父親がダイニングに入ってくる。

 その瞬間、空気が張りつめる。父親はみおだけでなく、兄二人にも厳しいのだ。


「おはよう、父さん」

「おはよう、親父」


 兄二人が同じタイミングで、父親に挨拶をする。

 ちなみに、「父さん」と呼んだのは英斗で、「親父」と呼んだのは聖斗だ。

 父親は、父親扱いされれば、呼び方にはこだわらないらしい。


「ああ。」


 返ってきたのは短い返事のみ。

 父親はさっさと座り、食事を始める。


 父親が食事を始めたのを見て、聖斗と英斗も朝食に手をつける。


 誰も「いただきます」すら言わない。


 三人はそれぞれ黙々と食事を続ける。

 父親の厳しさのおかげで、食事中にお喋りをすることすら許されない。


 三人が食事をしている間、みおは冷蔵庫の中身を確認する。昼食は何にするか考え、足りないものがあれば午前中のうちに買いに行く予定だ。


 味噌汁の具に使ったので、豆腐がない。キャベツも昨日使いきった。あとは何がいるだろうか。


 みおは冷蔵庫を閉め、少し悩む。


 父親は厳しいが、稼ぎはいい。お金に関しては苦労することがない。そのため、1ヶ月の食費は四人家族にしては多くもらっている。


 それでも兄二人はよく食べるので、満足させるためには少しだけ節約する必要がある。


 昼は多めに肉を使って兄二人のご機嫌でもとろうか、とみおが考えていると、彼女の視界が暗くなる。

 それにみおが振り返ると、父親が立っていた。


みお……お前……」


 みおはスッと胸が冷えるのを感じる。

 同時に、体はすくみ動かなくなる。


「なんだこれは!」


 父親の怒鳴り声がキッチンに響いた。

 彼は味噌汁のお椀を持っており、その手を振りかぶる。


 体が動かないので、避けることすら叶わなかった。


 味噌汁のお椀がみおの左手に当たり、中身が飛び散る。


 ついさっきまで沸騰していたものだ。

 直撃した左手はすぐ真っ赤になり、服に染みた分はゆっくりとみおの肌を浸食する。


「……っ…………!」

「濃いじゃないか!また分量を間違えやがって!なんで聖美のようにできないんだ!聖美はお前のせいで死んだんだぞ!!」


 みおが左手を冷やすことも許さず、ただ「味噌汁の味が濃い」というだけで、娘を怒鳴り付ける父親。


 しばらく怒鳴ったかと思うと、今度は手をあげる。

 顔や手足は殴らない。服で隠れないから。腹や背中を殴られ、みおが倒れると今度は蹴り始める。


 みおは動かない体で、縮こまることすらできない。ただただ蹴られ続けるだけだ。


 端から見れば、異様な光景だが、聖斗と英斗は気に止めず食事を続けている。


 別にこの家では珍しくないからである。

 もっと言えば、兄二人もみおに暴行を加えることに抵抗はない。


 ひとしきり殴る蹴るを繰り返したあと、「片付けておけ」と吐き捨て、父親はダイニングを出ていく。


 みおはゆるゆると起き上がるが、痛みのせいであまり動きたくなくなる。それでも、なんとか雑巾を取り、床を拭き始める。


 兄二人も食事を終えると、ダイニングを後にする。


 みおは誰もいなくなったのを確認し、またゆるゆると立ち上がり、シンクの蛇口を捻った。それからしばらく自分の左腕を冷やす。肘辺りまで味噌汁がかかっていたので、袖の下も熱を持っているようだった。


 しばらく冷やしていると、聖斗がダイニングに戻ってきた。


 みおは慌てて蛇口を閉める。

 片付けをまだしていないと父親に告げ口されたら、また殴られてしまう。


 袖を軽く絞り、片付けを再開したみおを聖斗は少し眺め、彼女の後ろを通って冷蔵庫を開ける。

 そこから保冷剤を取りだし、みおの前にしゃがみこむ。


 みおは一瞬固まるが、目の前に差し出された保冷剤を震える手で受け取る。これが兄の優しさから来る行動ではないことをわかっているのだ。


「お前さ、火傷はやめろよ。萎えっから。」

「ご、ごめんなさい……」

「あー、味噌汁くせー。さっさと冷やして片せよな。親父にはなんか弁当とか買って来てやっから。」

「え……いや……自分で行……」


 自分で行くから大丈夫、と言いかけたところで、聖斗がみおの髪を掴んだ。みおの体は動かなくなり、もはや悲鳴も上げることすらない。


「お前が行ったら誰がここ片すんだよ。親父の機嫌は俺が取ってやっから、片付け終わったら俺の部屋に来い。わかったな?」


 嫌だとは言えなかった。

 みおが小さくうなずくと、聖斗は満足気にダイニングを出ていった。


 まだ熱を持つ左腕に、ジンジンと痛む体。床に飛び散った味噌汁。


 この後、兄から受ける行為。


 痛みはもう何年も続いているので慣れたものだ。きっと体が自由に動いたとしても、悲鳴もあげずに耐えることができるだろう。

 それでも痛みは感じているので、やはり暴行の度に体はすくんでしまうのだが。


 しかし、兄から受ける行為はここ数ヶ月で始まり、徐々にエスカレートしてきている。どうしても慣れず、吐き気がするほど気持ちが悪い。


 それでも、はじめのに従わないと、後で捕まったときがひどいのだ。


 聖斗も昼食の時間が遅れると父親がどうなるかや、みおが買い物に行けないと昼食が遅れることはわかっている。


 兄に捕らわれる時間を少しでも減らそうと、みおはゆっくり掃除をすることにした。


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