第7話

 おびえ混じりの表情で僕を見ていた父さんが、ふいに引きつった笑みを浮かべた。

 テーブルの上に首を突き出してきた。

 上目遣いのその瞳には、実の息子に向けるにしてはあまりにも残忍な光が宿って見えた。


「嫁さんはミサオといったな。アジア系だ。どう綴る? MISAOか」

『MISAOだよ。日系二世。だったら何?』

「ミサオは確かにいると、今のお前には言えるのか?」

『何だって?』

「実在を信じられるのかと聞いてる」

『どういう意味さ』

国際I海底A移住O支援M機関Sのアナグラムじゃないか」


 トリンティの握り拳で思い切り叩いたテーブルは凄まじい音を立てて真っ二つに割れた。

 悲鳴を上げてソファから転げ落ちた父さんは尻で床をって逃げながら、それでもにやにやと笑っていた。


「怒ったのか。はは。自信が無いらしい」

『ミサオが疑似人格だとでも? そんなわけないだろう!』


 未曾有の大災害に襲われた僕たち人類は持続的繁栄を実現するべく海底に肉体を固定した。

 僕らの生体電流をかてに休み無く働き続ける機械たちが、その見返りとして『現実』を提供してくれる。

 心と体は不可分だ。肉体あってこその精神。精神あってこその肉体。『現実』を生きる者は誰もがみな海底施設の管理下にある。そのように法律で定められているからには必ずそうでなければならない。施設の管理下にあって例外は許されない。

 禁忌タブーは多い。例えば肉体を持たない疑似人格を用いて個人の意志を誘導することなどもってのほかだ。

 またすべての子供は『現実』で出会った夫婦の肉体から採取された精子と卵子の受精によって誕生せねばならない。

 僕とミサオの息子、ネヲもそのように生まれ、施設のどこかで生体電流を提供しながら成長していくことだろう。

『現実』での子供の授かり方は自由自在だ。ミサオ本人が望むならば彼女は分娩ぶんべんを経験することができる。比喩ではなくコウノトリに運んで来てもらった夫婦もいる。

 僕らはネヲを『現実』で抱きしめる。そこに現実との違いは無い。『現実』の遺伝子調整は現実のそれよりも遙かに自由度が高いから、僕らの選択次第では、『現実』のネヲは生体維持装置の中の彼とは似ても似つかない姿になるかもしれないけれど。

 しかしそこにどんな問題があるだろう? 僕たちが『現実』以外でネヲの姿を見ることはない。もはや自分自身の肉体を目にする機会が二度とないのと同じように。

 見えず触れ得ず、それでいて不可欠なもの。生体維持装置の中に浮かぶ肉の塊は、言うなれば僕たちの魂だ。魂の形などあれこれ気にしても仕方がない。

 つらつらとそんなことを考えて、僕は昂ぶった感情をひたすら宥めた。

 しばらく時間がかかった。

 ようやく落ち着いた僕は内心で溜息を一つ、まだ床に尻餅をついたままでいる父さんの前に片膝をついた。


『お願いだから息子の頼みを聞いてくれ父さん。主義主張はもうどうでもいいよ。一緒に海に還ろう。じゃないと僕とミサオは子供を授けてもらえない。孫の顔を見たくないのかい?』

「……授けてもらえない? どういう意味だ」

『僕たちが暮らしているのはとにかくシビアな管理社会なんだ。二親等内に一人でも地上生活者がいると新しい家族を持たせてもらえない。早くミサオにネヲを抱かせてやりたいのに』

「ネヲ」

『僕たちの息子の名前さ。姿形も性格も、もう決めてある』

「は! もう決めてある。まだいない息子の姿形も性格も、もう決めてある!」


 目をいた父さんはお腹を抱えて笑い出した。

 どうやら説得にはまだまだ時間がかかりそうだ。  了

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『海に還る』 夕辺歩 @ayumu_yube

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