第2話

「トリンティ? おい、トリンティどうした? 返事をしておくれ」


 接続成功を報せる表示の向こうに僕の父さん――、モーフィアスの顔が大きく映し出された。

 メールでのやり取りはこれまでにも時々あったけれど、差し向かいになって声を聞くのはおよそ二十年ぶりだ。

 一目見るなり、あまりの痛ましさに胸が詰まった。すっかり白くなった髪、皺だらけの弛んだ皮膚、あちこち浮いた老班。

 それら顕著な老化のサインにも増して、厳格が服を着たようだった父さんとも思えないその無防備さ、心細くて仕方がないといった様子の、今にも泣き出しそうな頼りない表情が僕には堪えた。


『父さん、トリンティを揺さぶっちゃいけないよ』


 優しく呼びかけると、父さんは弾かれたように手を引いた。

 丸い目を何度か瞬いて、お前トルマスか、と眉間にきつく皺を寄せた。


「何だ突然。何の真似だ。ハッキングか? トリンティのコントロールを返せ!」

『すぐには無理だよ。彼女の人工知能は凍結中。ボディの主導権は僕にある。これは特別措置なんだ』

「特別措置?」

『近親者に対してよう強く促す義務が、僕に発生したんだよ。今回の場合、父さんの言動に看過できない認知症の兆候が見つかったことでね』

「に……! ば、馬鹿を言え! 私は」


 父さんは真っ青になった。ゆるゆると首を振った。


「私はボケてなんかいない」

『トリンティがコアテック社に送る定時レポートには、父さんが身の回りを散らかしがちになったことや、判断力の低下が見られ始めたことなんかが列記されてる』

「個人情報を社外に漏らしたのか! アンドロイドサービスのハイエンドを謳う企業が!」

『法律に則った行為だよ。対象となる高齢利用者が地上生活者である場合のね』


 地上生活者の海底移住に関する法令第六条三項。責任能力喪失が危ぶまれる場合の特別措置、というものだった。

 ボケつつあることを指摘されて父さんは愕然としているけれど、ある意味それは自業自得だ。地上なんかで暮らしているからだ、と僕は思う。

 もしも既に父さんが僕たちと同じ『現実』の住人であったなら、『人格維持』のために施設内で常時施され続ける脳へのケアによって、認知症の発現は可能な限り遅らせられていたに違いない。


『そういうわけだから、本当に気の毒だけれど、父さんが説得に応じてくれるまでトリンティのコントロールは返せない』

「そんな法律知ったことか。私には、む、無関係だ」

『無関係なはずないよ。さあ父さん、一緒に海に還ろう』

「黙れ! お前の話なんぞ聞きたくない。さっさと失せろ!」


 青筋を立てて怒鳴った父さんは、しばらくその場で逡巡しゅんじゅんした後、ほとんど逃げるように書斎から出て行った。

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