『海に還る』

夕辺歩

第1話

 わずらわしい行政手続きがすべて終わった。

 僕は指定された専用ポッドに身体からだあずけた。

 これでようやくトリンティに――、地上にいる父さんが使用中のアンドロイドにアクセスできる。

『現実』を離れることへの不安はもちろんあった。けれど、義務感から来る興奮の方がずっと強かった。

 必ず成し遂げなければならない。ただ一人の肉親のために。愛する妻のために。そしてまだ見ぬ息子のために。

 決意を固めた僕は制御室の担当技官に合図を送った。

 ただちに感覚遮断と対象アンドロイドへの接続が開始された。移行はいたってシームレスだ、と説明を受けていた。

 ところが違った。イメージからのフィードバックだろうか、僕はその瞬間、深い海の底からゆっくりと浮上していく自分自身を知覚した。

 仰向けの僕をすくい上げる海神ポセイドンの巨大なてのひら。肌をくすぐる気泡たち。濃紺からマリンブルーへと周囲の明度は次第に高まり、まぶしく光る海面がみるみる近付いてくる。

 予想外の事態だった。落ち着け、と僕は自分に言い聞かせた。何もかも錯覚だ。幻だ。気にしなくていい。物事の移り変わりに多少の混乱は付き物だということくらい、経験的に知っているはずだろう?


『トルマス聞こえる? どうかしら、接続は無事に済んだ?』


 突然、ミサオの声が海中にくぐもって響いた。嬉しいサプライズに、よく聞こえるよ、と僕は明るく返した。


「君の声が届くってことは、ひょっとするともう接続済みなのかな。自分の印象ではまだなんだけれど。意識とのタイムラグがあるのかもしれないね。君は今? コアテック本社からかい?」

国際I海底A移住O支援M機関Sの支部からよ。友達が勤めているの』

「友達が国際機関に? それは知らなかった。ぜひ紹介してほしいな」

『私たち夫婦の暮らしがもう少し落ち着いたらね』


 僕とミサオは結婚して間もない。交際期間もそれほど長くはなかったから、毎日がこうした新しい発見の連続だ。

 トルマス、と改めて僕を呼ぶ彼女の声にはたっぷりと愛情がもって聞こえた。


『今朝も言ったけれど、どうか頑張って頂戴ちょうだい。私たち家族の未来は貴方にかかっているのよ』

「ああ。任せてくれ。きっと父さんを説得してみせるよ」

『期待しているわ。御義父様おとうさまによろしくね』


 青く光る海面がいよいよ間近に迫って、ついに僕の視界はホワイトアウトした。

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