第12話 それぞれの誇り(上)
「こっちだ! さぁ!」
クリスティーナは、チャールズが勢いで差し出した手をしっかり握りしめた。
いつもの様に午前中は剣の稽古に励み、午後のわずかに空いた時間には森の水辺で他愛もないおしゃべりをして過ごしていた二人だった。
いつもと異なったのは、急変した天候と土砂降りの雨。
「近くに洞穴がある! そこへ行こう!」
チャールズが叫んで駆け出そうとする。
雨で濡れた草に、クリスティーナが転びそうになると、彼が支えるように手を差し出した。
正直、この森で道に迷っていたことのある彼に付いていくのは、ややためらいも感じたのだが。
今の彼なら。
今の彼なら、信じられる。
まだ剣の稽古で負ける気はしないが。
茂った草むらを掻き分け、小さな崖の脇の下り斜面を降りると、崖壁にぽっかり空いた小さな横穴があった。
幅もそれほどないが、奥行きはそこそこ。膝をつかなければ頭が天井につかえてしまうだろう。かなり狭そうだ。本当に二人も入れるのだろうか?
「入って!」
クリスティーナはチャールズに押され、慌てて横穴に潜り込む。
幸い、奥の方へ向けて昇り傾斜になっていて雨水は流れ込んでいない。
なぜか、床には干し草が敷かれていた。
なるほど、チャールズが幼い頃から隠れ家にしてきたのだろう。
いや、彼だけではない。幾代ものダイモーク卿たちが子供のころに……。
「ごめん、もう少し詰めて」
後から入ってきたチャールズが、彼女の隣に体を割り込ませ、二人は入り口に向かって並んで座る形となった。
といっても、ギリギリ二人分の横幅があるかないか程度。必然、二人の間に距離はなくなった。
濡れて冷たかった体に、密着した面を通して温もりが伝わってくる。
雨を避けたられたことで意識は別の事に向き始めた。
別の事、つまりお互いの存在である。
外では雷鳴が響き始め、雨は一層強くなっている。
二人に続く来客があったのはその時だった。
ただし、人ではない。
まだ子供の野ウサギが、感情のうかがい知れない黒く丸い両目で、二人をじっと見つめたかと思うと、体を震わせて水気を吹き払った。
先ほどまでの緊張した空気が弛緩する。
「おいで」
クリスティーナが目を細めながら手招きする。
子ウサギは愛らしくも少し首をかしげて見せた、が。
次の瞬間、凄まじい勢いで一足飛びに彼女の胸元へと飛び込んできた。
その勢いに驚いた彼女が思わず身を逸らし、押されたチャールズとの間で押し合いへし合い絡み合う。
最初は驚いたが、狭い空間を跳ねまわる子ウサギと二人の戯れ合いとなり、やがて二人は折り重なるように横たわる。
お互いの顔が至近で向き合う様になると、二人は自然に唇を重ねていた。
「もう三日後ね。出発」
「イースター(復活祭)休暇には戻ってくる。たった四か月だ」
裸の胸に頭を載せて彼女が呟き、彼が応える。
チャールズとクリスティーナの逢瀬はその後も続いていた。
常に二人同時に姿を消していると勘付くものもいるだろう。
二人はどちらか一方だけが森の中で過ごす日を作り、二人同時になるのは出鱈目で全く偶然の機会に見えるよう気を使った。
もうすぐ、夏が盛りを過ぎる。
チャールズは大学進学のため、この地を
今日は、出発前の最後の二人きりの機会だった。
「四か月、待っていてくれ」
チャールズの言葉に、クリスティーナは何も応えず、代わりにより強く彼に抱き付いた。
彼はこの時、それを彼女の寂しさの表明と受け取っていたのだが……。
モードリンカレッジの学寮の窓には十二月の冷たい雨が打ちつけている。
チャールズはぼんやりと、朝の市場で見かけた女性のことを考えていた。
このケンブリッジに居るはずのない、彼女によく似たあの女性のことを。
彼から逃れるように雑踏に消えていったあの後ろ姿。
まさか、な。
手紙でも、書いてみるか? そう思いついた時だった。
「ダイモークさま。お手紙が届いております」
学寮付きの小間使いがチャールズを呼んだ。
手紙だと?
差出人はスクリーヴズビー荘の父だった。
内容を一読したチャールズは、外套に袖を通しきらぬまま学寮を飛び出し、雨の中へと駆け出して行った。
父の手紙には、まだ若過ぎる身で異性との関係を持つことを諫める訓戒と、剣士親娘が『それなりの額の補償を得て』スクリーヴズビー荘を退去したことが簡潔に記載されていた。
チャールズにも誤解のしようがない。
彼とクリスティーナとの関係が秘密ではなくなったのだ。
『それなりの額の補償』とは、要するに手切れ金のことだろう。
なぜ(露見した)? 誰が(気が付いた)? そして、なぜ今頃になって?
疑問が次々と湧き出してくる。
だが、今チャールズを突き動かしている衝動はそれら疑念に対してではなかった。
彼女に、会える。
彼女がスクリーヴズビー荘に居る、と思い込んでいたので他人の空似だと考えたのだが、前提自体がひっくり返れば結論も変わる。
彼女に、会いたい。
すでにスクリーヴズビー荘を退去してしまった以上、ここで会えなければもう二度と会えない。
冬の雨に打たれながら夜を徹して、市場周辺の宿の戸を叩いて回った。朝見かけたとき、彼女は冬用の旅装束だったのだ。
成果が無かったのは不思議ではない。
大体、市場で見かけたからといってその周辺に投宿しているとは限らないのだ。
加えて、夜日が落ちてから戸を叩く人間に、誰もが警戒するのは当然だった。
それとも若い学生の愚行に、歴史ある学園都市の市民たちが慣れていたためだろうか。
手がかりを得られないまま夜は明けた。既に雨は上がっている。
最後の
前に見かけたのが朝の市場であれば、また同じ時刻の同じ場所で。
チャールズは建物の陰にうずくまりながら、増え始めた市場に出入りする人々の様子を必死に追っていた。
帽子を深々と被り大きな荷を背負った商人、朝食の材料を仕入れに来た幼い雇われ人の少女。朝食を求めてきた鍛冶屋の徒弟、やがて道中の食料や必需品を求める旅装の人々の姿が混じり始める。
目の色も、髪の色も様々。金髪、黒髪、赤毛、栗毛、銀髪、砂色の……。
突然、起き上がって駆けだした彼を、周囲にいた者たちはぎょっとして見送った。
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