34話  激突


「……ああ、ようやくひと段落だな」

「いやぁ……今回は骨が折れたねこれは」


 日が傾き始めた頃に、ようやく依頼されたプログラムの納品を終えた俺は、隣の席の橋本と二人で完全に脱力していた。


「打ち合わせのたびに発注書に書かれてない注文してくるんだもんなぁ……」

「これだけ後から追加したのに料金は一緒ってんだからつらいよねぇ……そろそろ料金もふっかけていかないとナメられそうなものだと思うんだけどな」


 あまり仕事の愚痴を言わない橋本も、今回ばかりは答えたようでぶつぶつと文句を垂れている。


「まあ何はともあれ、どうにかなったな。お疲れ様」

「お疲れ様」


 俺が買ってきた缶コーヒーを二人で軽く持ち上げて、同時にプルタブを開けた。

 今日は納品日だったこともあり、朝から気分が張り詰めていたが、ようやく落ち着くことができた。

 そんなことを思いながら気を緩めていると、ポケットのスマートフォンが振動した。


「ん?」


 こんな時間に誰からだろうか。ポケットからスマートフォンと取り出して、画面を見ると、沙優からのメッセージだった。


『今から、バイト先の先輩を家に呼ぶね。吉田さんが帰ってくる前には帰るみたい。一応連絡しておくけど、あんまり心配しないでね』


 と、書かれている。


「バイト先の、先輩……」


 文面に、違和感を覚えた。

 あさみのことか? いや、あさみのことだとすれば、それはそのまま『あさみ』と書けば済むことであって、わざわざこんな書き方はしないだろう。

 そうなると、あさみではない先輩ということなのだろうが、後ろのほうの『あんまり心配しないでね』という文章も妙に気になる。

 別に仲良くなった人を家に呼ぶくらい構わない。実際にあさみは勝手に上がり込んでいるし、最近はそれについて沙優がわざわざ連絡してくることもなくなった。

 そこまで考えていると、数日前にあさみに言われたことを思い出した。


『なんかイヤーな雰囲気出してる先輩がいるんだよね』

『なんていうのかなぁ……まあ端的に言うとヤリチンって感じなんだけど』


 その瞬間、俺は思わず机から立ち上がってしまった。

 隣の橋本が驚いたようにこちらを見た。そして、遠くのデスクに座っている後藤さんもびくりと肩を揺らしてこちらに視線を寄越してくる。

 俺は慌てて椅子に座り直すが、数秒前の悪い予感が胸の中に渦巻いていた。


「吉田、どうしたの?」


 隣の橋本が心配げに声をかけてきた。

 ぐるぐると思考が回っていた。

 納品は済んだ。あとは報告書と、事後処理の引継ぎだけ。俺にしか分からない内容は残っていない。

 高速で思考が回って、俺は椅子にかけたジャケットを羽織りながら橋本に言った。


「すまん、早退する。この後任せていいか?」

「え、どうしたの急に」

「今度説明する」

「……まあいいや、分かった。どうにかしとく」


 橋本は苦笑して、手をひらひらと振った。


「なんだかよく分からないけど急いだほうがいい」

「すまん。ありがとう」


 俺は乱雑にノートPCをビジネスバッグにつっこみ、財布と携帯を持っているかどうかだけ確認して、すぐさまオフィスを飛び出した。

 背後から「吉田君どうしたの!?」という後藤さんの声と、「なんか産まれそうなくらい腹痛いって言ってました!!」という橋本の声が聞こえた。





 いくら急いでも電車は速くならない。

 そわそわとした気持ちで電車に揺られて、途中居ても立ってもいられず沙優に『大丈夫か?』というメッセージを送ったが、返事がなかった。

 余計に不安が加速して、最寄り駅に降り立ってすぐ俺は全力で走った。走れば大した距離ではない。

 あっという間に家に着いて、乱雑にドアのキーを回して、ドアを開けた。

 まず目に飛び込んできたのは、ぽかんとした表情でこちらを見ている、知らない男。そして、視線を移すと、壁際に逃げるように寄りかかっている沙優の姿。


「……沙優!」


 整わない息で名前を呼ぶと、沙優は驚いたように口を開けたまま、脱力したように吐息を漏らした。

 見ると、沙優の髪の毛はかなり乱れている。衣服も、はだけてはいないものの、シワになっていた。

 そして、部屋の中には俺の知らない男。

 体温が急上昇するのを感じた。カッとなるというのはきっとこのことだ。

 しかし、俺の中にあった少しばかりの理性が、男に即座にとびかかりそうになるのを止めた。


「……沙優」


 沙優を見ると、沙優は茫然とした様子で俺と目を合わせた。


「……こいつは、お前の彼氏か?」


 答えは分かりきっているが、訊いた。

 ここは、俺と沙優の家だ。沙優が招いた人間を、俺の一存だけで追い出すのは道理に反していると思った。

 沙優の目が明らかに潤むのが、遠目でもわかった。沙優は声が出ないながらも、首を横にふるふると振った。

 俺は頷いて、もう一つだけ、沙優に問うた。


「……つまみ出していいか?」


 俺がそう言うと、沙優はついに目尻からぼろぼろと涙を流して、首を縦に振った。


「よし」


 それを見た瞬間に、俺の身体はバネのように動いた。


「え、ちょ、ちょちょちょちょ」

「来い、てめぇ!」

「暴力はやめてください、暴力は!!」

「いいから、来いッ!!」


 男の襟首を掴み、外に連れ出す。幸い線の細い男であったおかげで、めちゃくちゃに鍛えているわけでもない俺でも難なく家の外に引っ張り出すことができた。

 ドアを閉め、鍵をかけてから、思い切り男を睨みつける。


「お前誰だ」


 訊くと、男は俺が手を離したことで少し余裕ができたのか、へらへらと笑って答えた。


「矢口。矢口恭弥」

「沙優のバイトの先輩か?」

「はは、あんたにはそう名乗ってるんだ。僕には『みさき』って名乗ってたけどね、あの子」

「みさき……?」

「あの子、数か月前に僕の家にいたことがあるんだよ。数日間だけだったけどね」


 それを聞いて、俺は事の重大性を悟った。

 随分前に家を借りていた、そしておそらく……身体も許していた男と、どういうわけかここで再会したということだ。

 だからわざわざ、『心配しないで』などと書かれていたのか。


「ともかく、あの子の先輩っていうのはそうだよ。家に入れてくれっていったらいいよって言うから来たんだけども」

「それは知ってるよ。メッセージも来てたからな」

「それで慌ててすっ飛んで来たってわけ。随分と心配性だこと」


 矢口は俺に対する敵意がむき出しだった。まあ、俺も彼に対して敵意をむき出しにしているわけだから、当然ともいえる。


「何してた」


 直球で訊ねると、矢口は驚いたようにぽかんとした表情をしてから、失笑した。


「見て分からなかったの? セックスしようとしてたんだよ」


 俺は体内で何かが爆発するような感覚を覚える。手が出そうになるのを堪えて。廊下の地面をダンと踏み鳴らした。


「ふざけんなよ」

「ふざけてないよ。大真面目。その様子だとほんとにあんたあの子に手出してないんだな」

「当たり前だろうが! 高校生だぞ!!」

「いやいや、どこが当たり前なんだよ……」


 矢口はへらへらと笑って俺を指さした。


「2か月も女子高生匿っといて何もしないって方が異常だよ。そんなのただの社会的なリスクを家に抱え込んでるだけじゃないか。あんたにどんなメリットがあるんだよ」

「メリットとかそういう問題じゃ……」

「いやいやいやいや」


 俺の言葉を矢口が遮った。


「メリットもなくデメリットを受け入れる人間なんていないいない! 綺麗ごと言うのは構わないけど、それでひとのことだけ責めるのはやめてよね」

「ふざ……ふざけんなよ! 大人が……大人がそんなふうに子供のこと利用するのが正しいわけねぇだろ!」


 俺が怒鳴りつけると、矢口はぱちくりと瞬きをしてから、わざとらしいため息をついた。


「ダメだ、話が通じないなこの人は」

「どういうことだよ」

「言っておくけど、あんただって一緒だ」

「あ? 誰とだよ」

「僕と」


 矢口の言葉に、俺は二の句が継げなくなった。俺とこいつが同じ? 何を言っているのかさっぱり理解ができない。


「女子高生が『助けてくださーい』って家に転がり込んできて、それを匿った時点で僕もあんたも一緒だ。本人が合意していようが、保護者の合意がない子供を勝手に家に置いてる時点で、犯罪者なんだよ」

「だからなんだよ。すでに犯罪者だからヤッちまっても大差ないってことか?」

「レイプはさらに犯罪になるから同じじゃないけどもね。家に住む対価として身体を差し出すって本人が言ってるんだから、それを享受することの何が悪いって言うんだよ」

「……お前、おかしいよ」

「おかしいのはあんただね」


 矢口はまくしたてるように言った。


「家事をやらせるだのなんだので家に住まわせてるそうだけど、新婚さんごっこのつもりかい? どういう趣味だか知らないけど、2か月も無償で定住させて、さらにバイトもさせるなんて正気の沙汰じゃない」

「帰りたくないって言ってるやつを無理に帰すわけにもいかないだろ」

「あっはっは、ほんとに話通じないなあんた」


 矢口は再びおかしそうに笑った後に、すっと、冷え切った眼差しを俺に向けてきた。つかみどころのない笑顔が急に消えて、俺も臓器を素手で掴まれたような気分になる。


「じゃあ、あんたは一生あの子の面倒見るのか?」


 その問いに、俺は息を詰まらせた。


「あんたが一生あの子育てるのか? 大学はどうするの? 就職は?」


 矢口がまくしたててくる。言い返してやりたいが、何も言葉が出てこない。

 彼は一度言葉を止めて、小さく息を吐いた。


「ほら、無責任じゃないか」


 そう言ってから、矢口は鼻で息をすんと吐く。


「一緒だよ、一緒。セックスしようがしまいが、結局あんたの今やりたいことを、あの子を利用してやってるだけじゃないか。あんたはあの子のことを救ってやった気になって気持ちよくなってるのかもしれないが、あの子があんたにとって不都合な存在になったらどうせ追い出すしか選択肢がなくなるよ。あんたが今どう思ってるかは、関係なく。だって……」


 早口でそう言った後に、矢口は俺をキッとにらみつけたまま、ゆっくりと言った。


「あんたはあの子の親でもなんでもないからだ」


 矢口の言葉が、俺の胃をぎゅうぎゅうと握りつぶしてくるような感覚に陥った。

 分かっていた。そんなことは。

 それでも……救ってやりたかった。その気持ちは、間違っているのだろうか。


「でも」


 俺は、ぎりぎりと拳を握ったまま、言う。


「それでも」


 目の前の矢口を睨みつけた。


「あいつにおかしな価値観を埋め込んでいく大人の一人に、俺は絶対になりたくない」


 矢口の言うことはおそらく正論だ。言い返すことができない。

 ただ、だからと言って彼のやっていることが正当化されるとも思わない。

 混沌とした胸の中から出てきた言葉だったが、これは確実に、俺の正直な気持ちだった。

 矢口は、宇宙人でも見るような怪訝そうな目で俺と数秒目を合わせた後に、スッと目を逸らして、ぽりぽりと頭を掻いた。


「……可哀想な人だな。なんか萎えた」


 そう言って、脱力したように踵を返して、とぼとぼと廊下を歩き始める。


「おい!」


 呼び止めると、矢口は面倒くさそうに振り向いた。


「なんすか」

「もう沙優にちょっかい出すな。絶対に」


 俺が言うと、矢口はさらに面倒くさそうに大きなため息をついてみせる。


「いちいちあんたみたいな正義感オナニー野郎に絡まれるんだと思うと下半身も萎えますよ。もう手は出さない。約束するよ」


 そう言って、もう一度歩き始めた矢口が、廊下の途中で急に立ち止まって、こちらを振り向いた。


「そんなに言っといて、すぐに放り出したら、超ダサいっすよ。言っとくけど」


 矢口は馬鹿にしたような口調で、そう言った。


「そんなことする気ねぇよ」

「まあ、そう言うんだろうけど……。みさきちゃんがバイトやめたら、あんたの負けだと思って笑っておくんで、よろしく」


 矢口はそれだけ吐き捨てるように言って、廊下を歩いて行った。姿が消えるところまで見届けてから、俺は廊下の壁に寄りかかった。

 矢口の言葉が脳内でぐるぐると回る。


『あんたはあの子のことを救ってやった気になって気持ちよくなってるのかもしれないが』


 救おうとして、何が悪いんだ。

 自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、分からない。ものすごく熱を持った感情が、胸の中から出て行けずに、ぐるぐると渦巻いて、さらに温度を上げていた。

 傷付いた子供を助けようとして何が悪い。


「ふざけんな……」


 言葉が喉の奥から漏れ出た。息が、熱い。

 メリットだのデメリットだの、そんなことを言って。

 子供を守ってやるはずの大人が。

 誰も。


「くそ……」


 誰もあいつを救ってやらなかったんじゃないか。

 優しく手を差し伸べることもしなかったんじゃないか。

 どうして俺がそれをしてやったらいけないんだ。


「お前らがやらなかったんだろ……」


 すでに傷を負った女の子供に、さらに取り返しのつかない傷をどんどん負わせて。

 責任は負わずに、捨ててきたんだろうが。


「俺にやるなっていうなら……お前らがやれば良かったんだろッ!!!!」


 胸の中の感情が、ついに形を成して爆発するように、喉を通って、口から放出された。

 息が荒くなる。なぜか、視界が揺らいだ。涙が出ているのだと気付くのに、数秒かかった。

 廊下の壁にずるずると座り込んで、息を整えていると、急に隣の家の扉が開いた。

 隣に住んでいる、人の好さそうな女性だ。


「あの……ちょっとうるさいんですけど……だ、大丈夫ですか?」


 越してきてから日に挨拶をした以外に一度も会話をしたことがなかった隣人に、明らかに困惑した表情で見つめられて、俺は顔が赤くなるのを感じた。


「すみません……騒がしくして。すぐ家入りますね」

「ああ、いえ……解決したなら良かったです」

「はい……」


 よそよそしい会話をして、隣人さんは扉をぱたんと閉めた。

 ため息が出る。

 少し、落ち着いた。

 落ち着いたところで、家の中に沙優がいることを思い出す。そうだ、今は俺の怒りだのなんだのよりも、彼女のことだ。

 慌ててドアノブを引くと、ドンという鈍い音がして、ドアが開かない。そういえば、自分で鍵をしめたのだった。

 ため息一つついてから、鍵を挿し回して、ドアを開ける。



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