35話  肯定 

「沙優……」


 部屋に入ると、先ほどとまったく変わらない位置で、沙優が体育座りでうずくまっていた。肩は定間隔で縦に揺れている。

 泣いているのだ。


「沙優、あいつは帰らせたぞ」

「……吉田さん」


 沙優はゆっくりと顔を上げて、ぼんやりとした様子で俺を見た。顔は、涙でぐしゃぐしゃになっている。


「私……どうしちゃったんだろ」


 沙優は言いながら、また頬に涙を伝わせた。俺は居ても立ってもいられず、沙優の目の前まで歩いて行って、座った。そして、沙優の手を握る。

 そうすると、沙優は俺の手を見下ろして、そして両手で俺の手を握り返してくる。


「わたしね、前に、あの人と……したの」


 胸がズキリと痛んだ。一瞬、それを想像しそうになり、すぐに脳内で打ち消す。


「特になんの違和感もなく、当たり前のように」

「沙優」

「いっぱい、いっぱいしたの」

「沙優、もういいんだ」

「したはずなのに……」


 沙優はそう言って、声を震わせた。俺の手を握る手にぎゅうと力が籠もる。


「今またされそうになった時に…………私、怖くって」


 鼻をすすって、身体を震わせながら、沙優は頭を垂れた。


「吉田さん……私おかしくなっちゃったのかな」


 その言葉に、俺は息が詰まってしまう。


「前できてたことが、もうできないの……私、自分が、ど、どうなっちゃってるのか、もう分からなくて……」

「沙優……ッ」


 気付けば、沙優を抱きしめていた。


「いいんだ。それが普通なんだ……!」

「でも、でも私、ずっとこうやってここまで来て、それなのに、こんな急に……」

「いいんだよ。怖いものは怖いでいいんだ。お前は間違ってない」

「うう……ッ」


 力いっぱい抱きしめると、沙優は言葉にならない声を上げて、胸の中で泣きじゃくった。

 どうして。

 どうしてこんなことになってるんだ。

 沙優を抱きしめながら、俺の胸の中は無力感でいっぱいだった。

 ようやく、彼女の中に植え付けられたあまりにも自己犠牲に過ぎる価値観がましになってきたかもしれないと思っていた頃だったのに。

 そんなことはまったくなかったのだ。

 いや、少なくとも彼女は変わっていた。

 好意のない男に抱かれることを拒むことができるようになっていたのだ。それは絶対に間違った感覚ではないはずだ。

 だというのに、その感情を自分で肯定してやれないなんて。

 ……これほど、やるせないことはない。

 唇をかみしめると、少しだけ鉄のような味がした。


「大丈夫だ、沙優。よく拒んだよ。えらいよ」


 俺がそう言うと、沙優は俺の背中に手を回して、身体を震わせながら、言った。


「でも……私が拒んじゃったから……もしかしたらいろんな人に昔のこと言われるかもしれなくて……そしたら店長にもばれて、警察呼ばれて、吉田さんに迷惑かかるかもしれなくて……ッ」

「そんなのはいいんだ。それはお前をここに置いてる俺の責任なんだ」

「そんなの!」


 ぐちゃぐちゃな顔を上げて、沙優が俺を見た。

 何を言うつもりなのかは分からなかったが、俺はどうしてもその言葉の続きを聞きたくなかった。


「頼むからッ!!」


 俺は彼女の言葉を遮って、叫ぶように言っていた。


「お前はもっと自分のことだけ考えてくれよ……!」


 沙優は何度もしゃくり上げながら、茫然としたように俺を見ていた。


「なんでそんなに自分のことばっかり傷つけようとするんだ。どいつもこいつもお前のこと傷つけたって悪いとも思ってやしねぇ。なのに、お前自身が自分のこと大切にしなかったら……誰もお前のこと守れないだろ……!」


 涙が出そうになるのを、必死でこらえた。

 自分の声で、部屋がびりびりと振動したような気がする。その後の静寂が、妙に長く感じた。沙優が鼻をすする音と、つけっぱなしになっている換気扇の音だけがしている。

 沙優は俺の顔を凝視したまま、頬に涙を伝わせて、ぽつりと言った。


「なんで吉田さんは……そんなに、私のこと守ってくれようとするの?」


 訊かれて、俺は茫然としながら沙優を見た。

『あの子があんたにとって不都合な存在になったらどうせ追い出すしか選択肢がなくなるよ』

 矢口の言葉が、頭に浮かんで、思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。


「分かんねぇよ……」


 気付くと、そう口にしていた。


「俺にも、分かんねぇんだよ……」


 そう言って、うつむいてしまう。

 沙優を家に置いておくこと。

 それは俺の寂しさを埋め合わせることと、沙優の逃げ道を作ってやることのギブアンドテイクだと、俺は思っていた。

 でも、俺は沙優が傷付くところを見るのが本当に嫌なようだった。

 理由は分からない。

 この同居生活が、自分のためのものなのか、沙優のためのものなのか、分からなくなってしまった。

 曖昧にしていた『現実』が、急に首を絞めて来て、もう俺にもわけがわからないのだ。

 俺がうつむいたままでいると、急に体が温かいものに包まれたような感覚がした。

 沙優に抱き着かれているのだと気が付く。


「吉田さん……」


 沙優が鼻声で、言った。


「……ごめんね」

「……謝るなよ」

「…………ありがとう」

「…………お前、やっぱり変わったよ」


 涙をこらえているところを見られたくなくて、俺はさらにうつむいてしまう。

 そうしたら、さらにぎゅうと、沙優が力強く抱き着いてきた。沙優の胸が、思い切り顔に当たっている。柔らかいんだな、と思った。


「……変えてくれたのは吉田さんだよ」


 沙優が、そう言った。

 特に言葉を選ぶこともなく、自然と、俺も言葉を返していた。


「俺は、お前に、普通の女子高生になってほしい」

「……うん」

「普通に学校に行って、普通に友達を作って、いろんなことを学んで、それで大人になるんだよ」

「……うん」

「それができてないお前を見てるのが……たまらなくつらいんだ。勝手だけど」

「…………うん」


 俺が沙優の肩をぐいと押すと、沙優も腕の力を弱めて、俺を解放した。


「もう、これが俺のためのなのか、お前のためなのか分かんないんだけどさ」


 俺は沙優の目を見て、言った。


「沙優自身が、沙優のことをもっと大事にできるようになってほしいって……本気で思ってる」


 沙優は俺の言葉を聞いて、少し瞳を潤ませた後に、何度も、何度も首を縦に振った。


「……うん、うん。分かった」


 沙優は涙でくしゃくしゃになった顔のまま、それでも、用意したようなそれではなく、にへらと柔和な笑顔を浮かべた。


「頑張るよ、私」


 彼女が今まで歩いてきた道のりを、俺は知っているようで、おそらく全然知らないのだろう。

 ただ、それでも。

 彼女が何も飾らずに浮かべる笑顔は、本当に美しいと思った。

 沙優はずびっ、と思い切り鼻をすすった。そして、涙をごしごしと服の袖で拭いて、「はー!」と思い切り息を吐いた。


「味噌汁作るね!」

「え?」

「いっぱい泣いたからちょっとしょっぱくしよう!」

「お、おう……」


 そう言って、沙優は立ち上がって、台所へと向かった。

 まだ鼻がつまったままなのか、すんすんと鼻を鳴らしながら鍋に水を汲み始める沙優を見ながら、俺は少しだけ安堵した。

 もう少し俺の到着が遅れていたら、もしかしたら彼女はもっとどうしようもない絶望の淵に今頃立っていたのかもしれない。

 少なくとも、そこからは救ってやることができた。

 それだけで、俺が沙優と出会った意味はあったのだと、そう思うことができた。

 ただ。

 俺に突き付けられた『現実』を思い出す。

 俺は沙優の親ではない。

 いつかは、あいつを帰さなければならない。

 漠然としていた現実が、みしみしと音を立てて差し迫っているのを感じた。

 何も、解決してはいないのだと。

 少なくとも俺だけは、それを忘れてはいけないと思った。


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