33話 嫌悪
「へえ! すごい綺麗じゃない。僕の家よりずっと整理されてるなぁ」
家に入ってすぐ、矢口さんは驚いたように口を開いた。
「随分マメな男の人なんだねぇ」
矢口さんがそう言うので、私は淡白に答える。
「家事は私がやってるので」
「……家事? みさきちゃんが?」
「そうです」
矢口さんはきょとんとした様子で数回まばたきをしてから、急に噴き出した。
「女子高生に家事やらせるって! こりゃまた変なやつもいたもんだ!」
そう言った後に、矢口さんは可笑しそうにけらけらと笑った。
「……別に変じゃなくないですか」
「いやぁ、変でしょう。家事なんて自分でやればいいじゃん」
そう言って、矢口さんは許可もとらずに吉田さんのベッドに座った。そんなことを言いながら、矢口さんだって自分の家事は随分と適当にやっていたはずだ。会社勤めしながら家事までしっかりやれるというならやってみろ、と何故か怒りのような気持ちが湧いてきた。
「全部やってるわけ? 料理洗濯掃除その他諸々」
「そうですけど」
「あはは、おもしろ」
矢口さんは肩を揺らしてひとしきり笑ってから、自分の横のスペースをぽんぽんと手でたたいた。
「そんなところで立ってないでさ、みさきちゃんも座れば」
自分の横に座れ、ということなのだと分かって、私は頷いてその場で床に体育座りした。それを見て矢口さんは不満げに唇を尖らせたが、しつこく座る位置を変えるようには言ってこなかった。
「……ふぅん、ここが今のみさきちゃんの棲み処なんだねぇ」
「……」
矢口さんは、改めて部屋の中をぐるりと、首を動かして見渡した。
「狭いねぇ」
「……二人住む用の部屋じゃないですからね」
「分かってるのに住んでるんだ。みさきちゃんも肝が据わってるなぁ」
矢口さんはそう言ってにこにこと笑った。おそらく、本人は皮肉を言ったつもりはないのだと思う。
「ここに来てからどれくらいなの?」
「大体、2か月くらいです」
「2か月!?」
矢口さんが大声を上げた。今日彼と会ってから初めて、彼が笑顔以外の表情を浮かべたのを見たかもしれない。
「え、2か月もここに住まわせてもらってるの?」
「そうですけど……」
「で、みさきちゃんは家事をやって?」
「そうです、家事をやってます」
「他には?」
「なにも」
「何も!?」
再び矢口さんは大声を上げる。口をぽかんと開けたまま数秒停止して、「はぁ……」と息を吐いた。
ぽりぽりと頭を掻いてから、矢口さんは独り言のように言った。
「それはそれである種の変態だな……」
「え?」
「いや、なんでも」
訊き返すと矢口さんはにこりと笑って、そして首を傾げた。
「はっきり訊くけどさ、その人とはセックスしてないの?」
「……ゲホッ!」
あまりに急な話題すぎて、息を吸い込むのに唾が混ざってしまった。気管に唾が入り、しばらくむせてしまう。
「だ、大丈夫? そんなびっくりすることだったかな」
「そりゃ……」
咳がおさまって、顔を上げると、本当に不思議そうな顔をした矢口さんと目が合った。
「だって女子高生を拾って、2か月も住ませてるんでしょ?」
「……まあ」
「そこまでしといて、セックスしないってのも変な話じゃない? 男としてさ。みさきちゃんがどうしようもないブスだったらまあ分からなくもないけど、どちらかと言わなくても美少女なわけじゃない」
とんでもないことをスラスラとよどみなく語る矢口さんに絶句する。
ただ、言っていることは分からないでもなかった。私も、最初はそう思っていたのだから。
「……そうかぁ」
矢口さんは再び頭を掻いて、鼻からスウと息を吐いた。
そして、私の目を見て、あっけらかんとした様子で言った。
「じゃあ、お互いご無沙汰なわけだ」
「へっ?」
「セックスしてないんでしょ」
「え、あの」
「僕もなんだよねぇ。恋人全員と別れてこっちに来ちゃったからさぁ」
矢口さんはそう言いながらベッドから立ち上がって、私の横に当たり前のように座り直した。咄嗟に距離を取ろうとしたけれど、すぐに肩をぐいと掴まれた。
「あ、あの……話すだけだって」
「いやぁ、そのつもりだったけどさ、やっぱ可愛い子と一つ屋根の下はさぁ、いろいろと我慢できないよ」
「そんなの……ッ」
拒もうと腕に力を入れても、矢口さんの肩を掴む力の方がはるかに強かった。私は身動きがとれなくなる。避難の眼差しで矢口さんを睨みつけるけれど、思った以上に彼の顔が私の近くにあって、逆に私がひるんでしまった。
やぐちさんは柔和な笑顔を浮かべたままだ。
「嫌だなぁ、そんな怖い顔しないでよ。うちにいた時は、毎日したじゃないか。嫌いじゃないんでしょ? セックス」
「そういう問題じゃ……」
私の言葉を最後まで聞かずに、矢口さんの顔が私に近づいた。キスされる、と直感で分かった途端、全身にぞわぞわと鳥肌が立つのが分かった。
「……ッ!!」
彼の唇が私に触れそうになる直前に、私は思い切り頭を振った。
ごつんと鈍い音がして、私の額と矢口さんの額が激しくぶつかった。
「痛っっ」
矢口さんの右手の力が弱まり、私は彼の拘束から逃げ出して、壁際へと後ずさりした。
矢口さんは頭をさすりながら、驚いたような顔で私を見た。
「ひどいな……そんなに僕とするのが嫌なわけ?」
「……はぁ、はぁ」
何か言い返そうとしても、荒い息に肩が上下するだけで、何も言い返せない。怒りなのか恐怖なのか分からない感情が胸でぐつぐつと煮えたぎっていて、唇が震えた。
「生理的に無理とかなら分かるけどさ、僕そんなにやばい見た目してないよね。前は普通にすんなりヤッてたじゃない。何がそんなに嫌なんだろう」
言いながら、矢口さんが再び近づいてくるので、私は本能的に壁に背中を押し付けて、もうこれ以上後ろに下がれないというのに、足で地面をずりずりと蹴った。
「いいじゃない。別にお互い別に減るもんじゃないし」
「……いや」
「痛くしないから。大丈夫だって」
「……来ないで!!」
考えるよりも先に大声を出していた。喉がびりびりと鳴って、身体が熱くなる。肌が粟立つような感覚を覚えた。全身が彼を拒絶していた。
私はこの人に抱かれたことがあるはずなのに、今はその行為が嫌で、嫌でしょうがなかった。
ああ、なんで私はこんな人を家に入れてしまったのだろう。
あさみとの仲が壊れないようにするため、店長に本当のことがばれないようにするため……。
そこまで考えて、脳内に、吉田さんの姿が浮かんだ。
そうだ。吉田さんだ。
彼に迷惑をかけたくないから、だから彼をここに連れてきたんじゃないか。
すっと、鳥肌が引いてゆく感覚がした。
今、彼を受け入れて、穏便に事を済ませれば、吉田さんには迷惑をかけずに済む。もしこのまま彼を返せば、彼の怒りに触れてこの後どうなるかは分からない。
そう思ったら、急に体の力が抜けた。
壁に身体を押し付けて丸めていた身体を、脱力させて、矢口さんを見た。口の中が、からからに乾いている。
「…………ですよ」
「え?」
喉から絞り出したような私の声が矢口さんに聞こえるはずもなく、矢口さんは首を傾げた。
私は大きく息を吸って、じくじくと痛む胃を無視して、もういちど口を開いた。
「だから……いいですよって、言っ」
私の言葉を遮るように、玄関の方からガチャガチャという音が鳴った。
私も矢口さんも、自然と音のした方に視線を向ける。
乱暴に扉が開いて、中に入ってきたのは……。
「ああ……」
喉の奥から、嗚咽のような、かすれた息が漏れた。
「……沙優!」
吉田さんが、息を荒げて、玄関に立っていた。
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