32話  決壊

「おはようございまーす……あれ」


 裏口から事務所に入ると、事務所の電気が消えていた。

 店長もあさみも表に出ているときでも電気をつけっぱなしにする人なので、電気がついていないのは珍しい。

 肩掛けかばんから、持ってきたコンビニ制服を取り出して、手早く着替える。

 壁に貼ってあるシフト表を見ると、店長は夜からの入りで、あさみは出勤しているようだった。

 人通りの多い駅前のコンビニなどではこうは行かないだろうけど、この店は基本的に3人シフトで回すことができる。むしろ3人以上を同じ時間帯のシフトに入れてしまうと黒字がほぼなくなってしまうのだと店長が言っていた。

 つまり今日は一人、初めて会う人と一緒に仕事をすることになるということだ。少し緊張する。

 事務所の電気がついていなかったのはおそらくあさみではないもう一人のバイトの人が消したからだろう。

 シフト表に指を当てて、同じ時間帯に記されている名前を探す。そして、その名前が目に入った。


『矢口恭弥』


 あれ?

 という違和感があった。違和感というか、既視感かもしれない。どこかで聞いたことがある、もしくは見たことがある名前のような気がした。

 有名人と同姓同名?

 考えてみても、思い当たる有名人はいない。でも、何故かこの名前の既視感は胸につかえて消えてくれない。

 そんなもやもやを感じながらシフト表を凝視していると、突然お店側につながるドアが開いてぬっと男性の顔が飛び出して来た。


「うわびっくりした。なんだもう来てたんだ」

「あ、はい。初めまして、新人バイトの……」


 へこへこと何度か頭を下げてから、目の前に立つコンビニ制服を着た男性に目を合わせて、自己紹介をしようとして。

 そしてすぐに言葉が出なくなった。

 そうだ。思い出した。既視感があるはずだ。

 目の前の男性も、数回ぱちくりとまばたきをした後に、「えっ!」と大口を開けた。


「みさきちゃん? みさきちゃんだよね!!」

「いや、あの……」

「なんでこんなところに!? いやぁ久しぶりだね。ちょうど君の事思い出してたとこだったんだよ」

「あの……人違いじゃ」


 人違いなんかじゃない。分かっていながら、私は若干震える声で言った。


「人違いなもんか! 僕は一回抱いた女の子は忘れないよ」

「……!」


 鳥肌が立つ。

 そうだ。矢口恭弥。私が茨城にいたころに数日間家に住ませてもらった人物だ。顔立ちは整っていて、明るめの茶髪が映えている。表情はやわらかく、優しそうな印象を他人に与える容姿だ。

 ただ、私はこの人のことを知っている。

 複数の女性と器用に交際をしていて、それを微塵も悪いと思っていないおかしな人物だ。7人もの女性と同時に付き合っている様子を見ながら、私はただただ驚くしかなかったのを覚えている。


「あれ、でも今日シフトにみさきちゃんの名前なかったよね?」

「いや、だから私は……」


 みさきというのは偽名だ。適当に名乗っただけ。逆に、よく覚えていたものだ。

 しかし一度みさきと名乗ってしまっているのに、本当の名前をここで言い出すことがどうしてもできない。困ってしまって、床と矢口さんに視線を行ったり来たりさせていると、矢口さんの後ろからあさみが現れた。


「矢口いつまで引っ込んでんの。沙優チャソもタイムカードそろそろ切らないと遅刻になるよ…………ってなに、どういう状況これ」


 事務所に顔を出したあさみに、矢口さんはきらきらとした目で言った。


「あさみちゃん! この子僕の知り合いだよ!」

「は? なんで?」

「みさきちゃんって言うんだけど、以前に一緒に住んでたことが……」

「あの!!!」


 私は絶叫に近い声を上げて、矢口さんの声を遮った。あさみも、矢口さんも目を丸くしている。

 身体が震える。鼓動も早い。息も少し浅くなっているのを感じる。


「ひ、人違いですから……私、荻原沙優って言います」


 私が震える声でそう言うと、矢口さんは不思議そうな顔で首をかしげる。


「いや、でも前会った時は確かにみさきちゃんって……痛いッ!!」


 矢口さんの言葉を最後まで聞き終わらないうちに、隣に立っていたあさみが矢口さんの脛を容赦なく蹴った。


「暴力反対! 突然なんだよ!」

「沙優チャソだって言ってんでしょ。馬鹿じゃないの」


 あさみは冷たい口調でそう言い放って、矢口さんの肩を掴んだ。


「つーか引っ込んでる時間長すぎだっつの。そろそろ出ないと店長に矢口がサボッてたってチクるよ」

「おいおい……新人さんとちょっとくらいお話してたっていいじゃないか。どうせ暇なんだし」

「うるっさい! さっさと出る!」


 あさみは強引に矢口さんの肩を掴んでぐいぐいと押して彼を事務所から店内に押し出した。そして扉をバタンと閉めてしまう。

 ため息一つついてから、あさみが私を横目で見た。その眼差しには「一体どういうことなんだ」という意味が含まれているような気がして、私の身はびくりと竦んだ。


「あ、あの……あさみ……その、私……」


 弁解をしようとしているのか、本当のことを言おうとしているのか、自分でも分からない。だというのに、口だけは動いて、どうにか沈黙をかき消そうかとするように言葉を発した。

 心臓がばくばくとなっている。呼吸も、どんどん浅くなる。


「その……」

「いいよ」

「……え?」


 完全に床に落ちてしまっていた視線をあさみに向けると、あさみは私の目をじっと見てから、首を横に振った。


「いいよ、無理に話さなくて」

「……」


 言葉を失う私と目を合わせたまま、あさみはいつになく真面目な顔で、言葉を続けた。


「沙優チャソが今どうしても私に話したいってんなら聞くよ。でもそうは見えない。顔真っ白じゃんね」


 あさみがゆっくりと歩み寄ってくる。そして、私の肩をぽんと叩いて、近くにあったパイプ椅子を指さした。座れということだろう。私は彼女の意図する通りに、パイプ椅子に座った。

 あさみは私の前にかがんで、私の手を握った。


「今言いたくないことを、言いたくない人に言う必要なんてないじゃん。だから、もし沙優チャソが私に言いたくなったら、その時に話してくれればいいから。……ね?」

「……っ! ……うん」


 目の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じた。目尻に涙が溜まる。東京に来てから、私は随分と泣き虫になってしまった。

 私の様子を見て、あさみは呆れたように笑った。そしてもう一度私の肩を叩く。


「じゃ、ちょっと落ち着いたら出てきな。タイムカードはウチが切っとくから。言っとくけど今日だけだかんね」

「うん……ありがと」

「矢口は私がド突きまわしとくから安心して出てきな」


 あさみはニッと歯を見せるように笑って、そして事務所を出て行った。

 あさみが出て行った途端、なんとかこらえていた涙が目尻を決壊して流れ出てくる。完全に緊張が解けてしまった。

 どうして矢口さんがこんなところに。たまたま私が移動してきた先の近くに越してきていたとしても、同じ職場で出くわすなんて、あまりにも低すぎる確率だと思った。誰かが私に嫌がらせでもしているのではないかと思うくらいに、運命的で、そして最悪な再会だ。

 そして、数分前の会話を、あさみに聞かれてしまった。あさみは優しくて察しもいい子だから、ものすごく気を遣ってくれたけれど、おそらく私が思っている以上にいろいろなことをあの会話から察したのではないかと思う。多くのことを察した上で私に気を遣ってくれる彼女の優しさが救いだった。そして同時に、ものすごくつらかった。

 家を出てから初めて、対等な立場で、気を遣いすぎずに話せる友達ができたと思ったのに、これからはきっとあさみに気を遣われるようになってしまう。そんなの、申し訳なさすぎる。

 気付くと、涙は止まっていた。けれど、胃の下のあたりが冷たくなるような、じくじくと痛むような、嫌な感覚がずっと残っている。

 ふと壁にかかった時計を見ると、すでに出勤予定の時刻を10分も回っていた。あさみがタイムカードをすでに切ってくれている。働いていないのに給料をもらってしまうのはさすがに良くない。

 矢口さんについて、これからどうするか。あさみとの関係がこの後どうなるのか。そして……。

 脳内に吉田さんの顔がちらつく。

 このことを吉田さんに言うべきかどうか。

 いろいろなことが脳内で渦巻くけれど、今はまず目の前の仕事をしないといけない。

 息を深く吸って、吐いて、そして両手で自分の頬をぱちんと叩いた。


「……よし」


 気合いを入れなおして、私は扉を開けて、お店に出て行く。





「お疲れ。気を付けて帰りなね」

「うん、お疲れ様。あさみもあと2時間頑張ってね」

「この時間はチョロいからヘーキヘーキ。んじゃね」


 私の勤務時間が終了して、タイムカードを切るのを見届けると、あさみはにこりと笑って手を振ってくれた。私も手を振り返すと、あさみはこくりと頷いて、またコンビニ店内の棚整理に戻っていく。

 事務所に入り、息をついた。

 お店に出て仕事を始めた後、、あさみがどんな念の押し方をしたのかはわからないけれど、矢口さんは一切私との過去の話をしなかった。それどころか、私が仕事で困っていることがあるとさりげなくやってきては「これはこうするんだよ」と教えてくれたりもした。

 あさみも、本当にいつも通りの仕事ぶりと、いつも通りの駄弁りっぷりだった。私の出勤前の様子をすっかり忘れてしまったかのように、一言もそれについて触れなかったし、私に対する話し方も、視線も、完全にいつものあさみだった。

 さすがにあれだけ私が動揺していたのを見て、そしてそれに対して優しい言葉をかけてくれたにもかかわらず、そのことがまったく気にならないということもないだろうに。少しくらいはぎこちない態度になってもいいくらいだというのに。

 あさみの態度はあまりに自然すぎて、逆に不自然に感じてしまうくらいだった。

 とはいえ、出勤前にごたごたとした割には、仕事はすんなりと、ほとんどストレスなく終わってしまった。

 矢口さんもあの様子ではこれからも昔のことには触れないでいてくれるかもしれない。仕事を手伝ってくれる彼は、善良そのものだった。私は彼が家で過ごしている様子しか見たことがなかったものだから、ゆっくりとした動作でありながらもてきぱきと仕事を片付けていく様子を見ていると少し不思議な気分になった。

 あまり、絶望してばかりでいる必要もないのかもしれない。少しくらいは、これから良くなっていく想像をしても良いのではないか。

 そんなことを考えながら私は着替えを済ませて、コンビニの裏口の扉を出た。

 そして、扉を出てすぐに、近くの電信柱に寄りかかっていた人物が目に飛び込んできた。


「あ、お疲れ様」

「……お疲れ様です」


 柱の前でスマートフォンをいじっていたのは、矢口さんだった。


「待ってたんだぁ」

「……何か用ですか」


 つい数秒前まで前向きになっていた気持ちは、綺麗に反転した。

 矢口さんが出勤時刻を終えて上がって行ったのは3時間も前だ。3時間もここで待っていたのか、それとも、私が上がる時間を見計らって戻ってきたのか。

 どちらにしても、あまり良い予感のしないシチュエーションだった。

 私の警戒した様子を見て、矢口さんはへらへらと笑った。


「やだなぁそんな怖い顔しなくたっていいじゃないか。僕たち身体を重ねた仲だろ?」

「そういう言い方やめてください」

「……変だな、みさきちゃん、そういうのまったく抵抗ない子だった気がするんだけど」

「……」


 そう言われて、胸がずきりと痛んだ。

 そうだ。矢口さんの家に転がり込んだ頃には、私はもう“そういうこと”に慣れきっていた。行為の途中にも少し余裕があって、気持ちが良さそうな演技をしてみよう、などと思って実践をしていたこともあるくらいの時期だ。

 矢口さんは容姿は悪くなかった。むしろ、かなり整った顔と、体型をしていると思う。だからあの時の私は、『生理的に受け付けない人じゃなくて良かったなぁ』などと思っていたのを、覚えている。


「びっくりしちゃったよ。こんなところで会うんだもん」


 矢口さんはにこにこと笑顔を浮かべながら言う。


「今も……誰かの家に転がり込んでるのかな?」

「…………」


 何も答えない私を見て、矢口さんは苦笑してから頷いた。


「なるほどね。未だに家出中か。根性あるねぇ」

「あの……帰ってもいいですか」

「ひどいな。積もる話があるじゃない」

「私は特に話したいことはないです」


 簡潔にそう言って、矢口さんの横をすりぬけようと歩みを進める。一刻も早くここから、いや、矢口さんから逃げ出したかった。


「ちょちょちょ」


 しかし、矢口さんに腕をぐいと掴まれる。ひょろひょろと細身の割には、腕の力は強かった。


「な、なんですか……」

「今のお家、気になるなぁ」

「はい……?」


 訊き返すと、矢口さんはふわふわとした笑みを浮かべたまま、もう一度言った。


「だから、今みさきちゃんが住んでる家に行ってみたいなって。どうせ男の家なんだから今は誰もいないんでしょ?」

「……来てどうするんですか」

「行くだけ行くだけ! ゆっくり話そうよ。せっかく再会したんだからさ」


 そう言ってにこにこと子供みたいに笑う矢口さんは、私の目には不気味に映った。どう考えても、連れて行くのは得策じゃない。


「嫌です。宿主に無断で人なんて呼べません」

「じゃあ許可取れば? 別にやましいことなんてないからさぁ。連絡先くらいは知ってるでしょ」


 矢口さんの返しに、私は戸惑う。

 ほんとうに、何もやましい気持ちがなく、家に来たいなどと言っているのだろうか。そうだとしたら余計に意図が分からない。そんなに私と思い出話をしたがるほど、私と彼の間に絆などなかったように思う。

 私は頭を振る。ペースを乱されてはいけない。


「とにかく嫌です。今日は帰ります。……失礼します」


 矢口さんの手を振り払って、踵を返す。つかつかと早足で彼から離れる。

 すると、背後から少し大き目の矢口さんの声が聞こえてきた。


「じゃあさ、こうしよう」


 そのまま歩き去れば良かったというのに、私は立ち止まってしまった。振り返って、矢口さんの方を見る。

 矢口さんはにこにこと笑って、言った。


「家に連れて行ってくれたら、みさきちゃんとの昔の話は、あさみちゃんにも、店長にも黙っておいてあげるよ」


 ぞくりとした。

 明らかな脅しだった。あまりにも古典的な手段で、まともに取り合う必要なんてないと頭では分かっている。でも、矢口さんの言葉は私の心情をざわつかせるには十分すぎた。


「連れて行かなかったら……どうするんですか」


 私が訊くと、矢口さんは苦笑して、肩をすくめた。


「それって訊かないと分からないかな」


 彼の返答に、私は言葉を失った。

 あさみに、そして店長に、私と彼のことを話される。それは、ようやく手に入れた心安らげる場所が崩壊することを意味しているように思えた。

 あさみも、私がよく知りもしない男性に身体を許し続けてこんなところまでやってきたなどと知れば私を軽蔑するかもしれない。

 そして、店長にそんなことが知られれば、きっと身元をはっきりとさせられて、最悪の場合警察に引き渡されてしまうことだってあるかもしれないのだ。

 警察沙汰になれば、確実に、吉田さんに迷惑がかかる。それだけは絶対に嫌だった。すでに私では返しきれないくらいの恩を与えてもらっているのに、それを仇で返すことになるなんて許されることじゃない。

 私は拳を握って、胃のあたりのざわつきを抑えようと息を大きく吸った。


「……本当に来るだけなんですよね」


 私が言うと、矢口さんは子供のようにわかりやすく顔を輝かせて、首を縦にぶんぶんと振った。


「ほんとほんと! ゆっくり話せればそれでいいからさ」

「宿主には連絡していいんですよね」

「もちろんだよ。心配させたらいけないしね。その人が帰ってくる前くらいにはお暇するよ。社員ならまだまだ帰ってこないでしょ」


 そう言いながら矢口さんは自分のスマートフォンの画面に目を落とした。時刻を確認しているのだと思う。


「……そういうことなら、少しくらいなら」

「本当に! 嬉しいよ!」

「でも! ……約束はちゃんと守ってくださいね」

「もちろん! もちろんだよぉ」


 矢口さんは心から嬉しそうににこにことしている。こういう無邪気な笑顔は一般的には可愛らしく見えるのかもしれないけれど、今の状況だと私の目には狂気じみたものに見えてしまって、愛想笑いすら浮かべられない。

 スマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開く。

 吉田さんとのチャットを開き、メッセージを打ち始めてすぐに、文面に困った。

 どう伝えるのが一番心配させずに済むのだろうか。

 すぐに思い浮かんだのは「あさみを家に連れていくから」だったけれど、それは明確な嘘だ。わざわざ嘘をつくくらいなら、連絡なんてしなくてもいい。

 バイトの先輩、とでも書いておけば当たり障りがないだろうか。

 うんうんと悩みながら文面を打ってゆき。


『今から、バイト先の先輩を家に呼ぶね。吉田さんが帰ってくる前には帰るみたい。一応連絡しておくけど、あんまり心配しないでね』


 最終的に、この文面で送信した。

 わざわざ連絡してくるというのはどういうことなのだ、と心配し始めかねない吉田さんだ。最大限に心配させないような文章を打ったつもりだ。

 深呼吸をして、スマートフォンを肩掛けバッグの中にしまって、矢口さんの方を振り返る。


「……連絡し終わったので、行きましょう」

「お、早いね。楽しみだなぁ」


 矢口さんは寄りかかっていた電信柱から「よっ」と言いながら立ち上がって、小走りで近付いてきたあとに、私の横に並んだ。


「手でもつなぐ?」

「……嫌です」


 上機嫌そうに横を歩く矢口さんに私はひたすらにもやもやとした気持ちを抱えたまま、家へと向かった。



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