第六話:ととさまとヒコ 中編
儀式の内容は、デュファイもセルジュも僕には教えてくれなかった。ただ血で魔方陣を描き、そこに魔力を秘めた宝石を鏤める、それだけ。詳しい事は、ヴァンパイアしか知ってはいけないものらしい。実際デュファイとセルジュも、その宝石がなんなのか、どういう配置なのか、詳しくは分かっていなかった。ただ主上の命ぜられるまま、紅い石や青い石、黄色い石を魔方陣の各所に置いていっただけらしい。
「儀式の方法はこの本の中にあるのだ」
そう言ってヒコは、鞄の中から一冊の赤い手帳を持ち出した。それはヴァンパイアの魔力と血を以てしか開けられないものだそうだ。じっと手帳を見ていて、僕は気がついてぞっとした。
それは元から赤かった訳じゃない。幾人ものヴァンパイアの血を吸って、赤黒く変色した茶色い革の表紙なのだと気付いたからだった。
魔方陣の真ん中にヒコの亡骸を寝かせ、その傍らに座り、何か呪文の様なものをアスフォデルは唱え始めた。それは時折血を吐いて咳き込んだり、ぜえぜえと苦しい息で途切れたりしていたが、どうやら効果は出ている様だ。アスフォデルの胸から止めどなく溢れ出る血で描かれた魔方陣が、紫色の光を放ちはじめる。使い魔二匹は円の外から、それを見守っているしかなかった。
「・・・」
呪文の詠唱を終え、アスフォデルは力を無くした様にがっくりと地面に手をつき項垂れた。しかし儀式はまだ終わりではない。地面についていない左手で、ヒコの閉じた小さな唇をそっとこじ開けると、何を思ったか己の胸の傷に右手を突っ込んだ!
「主上!」
激痛に痙攣る主上の表情を見てはいられず、泣きそうな声でデュファイは叫んだ。しかしアスフォデルは己の使い魔には見向きもせず、そのまま右手で掴んだ心臓を、力一杯、ぎゅうと握りつぶした。傷口からまた大量の血液が飛び散る。アスフォデルの色味を無くした唇からも、げほと血糊が溢れた。そして心臓の血を夥しく塗りつけた右手を傷口から取り出して、震える指先で、ヒコの唇をそろりとなぞった。口紅を施したかの様に真っ赤に染まった唇を見て、・・・アスフォデルは呟いた。
「ヒコ・・・おめざの時間だぞ」
そう言って、最後の仕上げ・・・ヒコの額を血塗れの右手でそっと撫で、真っ赤に染まった額に、心から愛おしそうにくちづけた。
その瞬間、ビィーンともヴィーンとも聞き取れない、光の束の発せられる音が、丘の上に響いた。魔方陣の外から中の様子は窺うことができない。それほど眩しい、厚い光であった。それが暫く続いて、・・・魔方陣の光が収まった。儀式が収束したのだ。
使い魔二匹は、あっと声を挙げた。むくりと上半身を起こして呆然と、己の傍らに倒れ込んでいるアスフォデルを見て居るヒコが居たからであった。耳はととさまの様に尖り、栗色だった瞳は真っ赤なルビーの色に染まっていた。そしてぽかんと開いた唇からは、大きな犬歯が見えた。
「・・・ととさま?」
光の中でヒコとアスフォデルがどういう儀式を執り行い、会話を交わしたのかは永遠にわからない。ただ、ヒコは、倒れたととさまに縋り付いて、アスフォデルの肩を揺さぶり始めた。
「ととさま・・・嫌なのだ、ととさまが死ぬなんて嫌なのだ!」
はたと気がついて、ヒコは使い魔二匹に助けを求めた。
「セルジュ!デュファイ!ととさまが死にそうなのだ!助けてほしいのだ!」
しかし使い魔二匹には、どうする事もできない。セルジュはゆっくり首を横に振って、もう主が助からない事を示唆した。デュファイは泣きそうな顔で、下唇を噛みしめ、俯いていた。
その時、ヒコの手に、そっと、アスフォデルの左手が触れた。ヒコははっとしてととさまの顔を見た。
アスフォデルは笑っていた。もう思い残す事は無い、そんな充実した笑みであった。
「・・・ヒコ、今度はお前の目で、ととさまの分の世界を見て来てくれ」
気付けばアスフォデルの身体がさらさらと風に吹かれて砂と化し、飛ばされてゆく。消えてゆく。ヒコは思わず身を乗り出し、ととさまの身体の欠片・・・砂を掴もうとした。だがそれは地面に流れたととさまの血に幾分かへばりついただけで、掴むという程のものにはならなかった。
ヒコは泣いた。わあわあと天を仰いで泣いた。ととさまが居なくなった。ヒコの前から居なくなった。それが悲しくて、否、況してやヒコの所為でととさまが死んでしまうなんて。悲しすぎて涙は後から後から止めどなく流れ出た。
ふと見ると、セルジュとデュファイが神妙な顔で、ヒコの前に跪いていた。何のことやら分からず、呆然としているヒコを見て、デュファイが口を開いた。
「若、これからは貴方が私たちの主上です」
「え・・・?」
「たった今お隠れになられたヴァンパイア、アスフォデル様の血を受け継いだ坊ちゃまが我々の主上となられるのでございますじゃ」
ヒコはうまく状況が飲み込めなかった。使い魔になる・・・即ち、ととさまがやっていた様にセルジュの羽で空を飛んだり、デュファイの剣で戦うという事なのだろうか。
「契約は一言でいいのです。『許す』と、一言私たちに仰って下さいまし」
だがヒコにはひとつ、許せない事があった。
「そのままではヒコは嫌なのだ」
「若!」
「何を仰いますか、坊ちゃま!」
ヒコはしゃんと姿勢を正し、ヴァンパイアの威厳の片鱗を見せる凛々しさを漂わせ、はっきりと言った。
「その敬語はやめるのだ。今までみたく、主上と呼ばないで若と坊ちゃまでいいのだ」
「・・・わかりました、いや・・・わかったわ、若」
ヒコは無意識に、自分に傅くデュファイに右手を翳し、呟く様に言った。
「『許す』」
その瞬間、デュファイの身体がぱあっと明るく光り、ヒコは思わず目を瞑った。瞼を焼く光がじわじわと消えてゆき、ようやく目を開けられるくらいの光になると、ヒコの眼前にデュファイの姿はなく、一振りの刀が落ちていた。
「これが若の望んだ、あたしの姿。妖を斬る刀、薊」
「成る程、じゃあこれからデュファイは「薊丸」なのだ」
ヒコは徐に立ち上がり、薊丸の鞘を取ると、腰に差した。続いてこちらに向いて契約を待っているセルジュにも同じ様に手を翳し、
「セルジュ。・・・『許す』」
そしてまたあの光がヒコの目を刺した。左手で目を押さえ、光が消えてゆくのを待つ。目を開けると、そこにはととさまが指に嵌めていたものより若干小ぶりな紅い宝石の指輪があった。
「これで坊ちゃまは先代と同じ様に飛べますじゃ。日光の下も平気で歩けますわい」
ヒコは頷いて、自分の右中指にセルジュの指輪を嵌めた。
丘の上を、朝日が照らし始めていた。
ヒコはそこまで語って、ふぅと息を吐いた。
「・・・これがヒコがばんぱいやになった経緯なのだ」
僕も釣られて溜息を漏らした。ヒコがあれほどまでにととさまの死に拘っていた理由。それが明らかになって、僕はずーんと眼前が暗くなるのを感じた。
でも疑問は残る。
「でもヒコ・・・責任を感じた当時の住職が、ヒコの縁起書を書いたとしてもさ・・・俺達上城家とヒコはどういう繋がりがあるんだ?」
ヒコはやや俯いて、暫く押し黙った。そして、息を吐き、言った。
「貴様には辛い縁になるかも知れんが、それでも訊くか」
ここまで来れば僕に迷いなどなかった。僕とヒコの繋がり、それを知りたくて仕方なかった。例えそれが、これからヒコが話す様な呪われた縁だとしても。
それから一ヶ月後、使い魔の使い方を修行したヒコが山を下り薊丸を携えて村にやってきた時、人々は復讐を恐れ戦いて蜘蛛の子を散らす様に逃げ惑った。ヒコの瞳には憎悪の光が赤々と燃え、恐怖極まり帰って武器を取り向かってきた村の男衆を撫で斬りにしていった。逃げるものは敢えて追わなかった。魔物の王としての立ち振る舞いを一から使い魔二匹に教えられたヒコは、風格も一ヶ月前の弱々しい普通の子供とは違っていた。
ヒコの足は当時のこの村の地主・・・上城家に向かっていた。上城家の前には、夥しい数の村の女子供達が震えて固まっていた。その屋敷の奥から、凜とした声がふと響いた。
「恐れ戦いてはいけません、皆さん。・・・ヒコ、ここに居るのは罪のないものばかりです」
先刻刀を持って向かってきてヒコに斬り倒された亡き上城家の当主の妻、よねであった。淡い藤色の着物に身を包み、三十路過ぎの妖艶な、しかし清純な百合の花の様な気品を湛えた、こんな小さな村に押し込むには勿体ないほどの美貌を持っていた。
「では貴様はととさまの無念にどうやって報いる心算なのだ?」
返答次第では、ヒコはよねを斬る心算でいた。よねは着物の帯から小太刀を取り出し、すうと胸の前に挙げた。ヒコも薊丸を何時でも抜ける様、束に手を添えた。
しかし、次の瞬間、一瞬決意が鈍った。屋敷の奥から小さな女の子が飛び出してきて、よねの着物の裾にひしとしがみついた。よねの娘、まつであった。
「おかあさま!いや!いかないで!」
泣き喚く様にして叫んだまつの姿が、アスフォデルに拾われた頃の自分とダブって見えた。否、自分は復讐を果たさねばならない。このヒコを磔にし殺した首謀者である上城家の人間を許す訳にはいかない。
「子供を退かせ。でなければ子供ごと貴様を斬るのだ」
よねはヒコの唸る様な一言にも臆することなく、まつを見ずに頭を撫でて言った。
「今後上城家は、ヒコ、貴方の為に尽くしましょうぞ。
・・・まつや、よくお聞き。まつは良い子だから、ばんぱいやに血を吸われても痛くても我慢するね?」
よねの優しい声色に、意味が判っているのか居ないのか、よくは分からないが、まつは涙でぐしゃぐしゃにした顔をぶんぶん縦に振った。
「お聞きになりましたか、ヒコ。今後上城家は、貴方に無条件で宿と血を提供します。如月寺も我が家の手で建立しなおしましょう。それでこのまつを、そして今ここに居る無辜の人間を許してもらえませぬか」
ヒコはただ黙ってじっとよねの表情を睨んでいた。否、と答えたら、あの小太刀で襲ってくるだろうか。
しかしよねは、次の瞬間、意外な行動に出た。
小太刀を逆さに持つと、己の胸を、一気に刺したのである。まつの悲鳴と周囲のざわめきが辺りに響く。ヒコもその行動に目を見張り、前のめりに倒れ込んだよねの元に思わず駆け寄った。
「馬鹿者!子の前で自害するとは何事か!!」
「・・・これが・・・上城家の、貴方の父上を奪った上城家のけじめの取り方で御座います・・・貴方と同じ苦しみを、まつにも課します。それでどうか、村の者を、まつを、どうか・・・」
そう弱々しい声で訴えて、よねはしずかに息を引き取った。まつの泣き喚く声のみが、辺りに木霊した。ヒコは苦々しく思った。こんな事をしに来た訳じゃない。子供には何の罪もないのに、自分と同じ様な、目の前で自害し息絶えるという、ヒコと同じ目に遭わせたよねを、肝の座った女だと関心する反面、心底憎らしく思った。
ふと、まつと目が合った。まつはびくりと肩を震わせ、いやいやをしながら後退った。ヒコが思わず差し出した手も、怖いものを見るかの様に見て居た。
「・・・大丈夫なのだ。貴様は悪い様にはせんのだ。ただ、必要な時には宿を借りるし、貴様から血を貰うかも知れん。それだけなのだ」
「それから上城家は、女方が家を継ぐという決まりになった。貴様も嫁を貰う時は、ヒコに血を差し出しても構わん人間を選ぶのだ」
そこまで語って、ヒコは僕の顔をじっと見た。こんなちっぽけな、大きな蔵があるだけのごく平凡な家だと思っていた上城家が、そんな因縁をもっていたなんて。お袋はこんな話、知っているのだろうか。
「・・・だがもういいだろう。貴様等上城家の人間は、それからヒコによく尽くしてくれた。ヒコが此処には居られないと思って、またととさまの遺言通りに日本を見て回った放浪の旅の果てに帰り着いた時にも、契りを忘れず、終戦直後に蔵の中にヒコを隠してくれた。
もう充分なのだ」
なんだかヒコの目には、涙が溜まっているかの様に見えた。また、ヒコの「もう充分」という言葉は、僕の耳にはお別れの言葉の様に聞こえた。思わず僕は叫んでいた。
「・・・ヒコの馬鹿!!」
面食らったらしいヒコは身を竦めて、目をまん丸にして僕を見て居た。僕は俯き、思わず目から涙がぼろぼろ、鼻から鼻水がずるずる止まらなくなって、遂には感情の赴くまま叫んでいた。
「もしかしてこっから、呉倉から出てくつもりじゃないだろな!そんな事、もし、ヒコが、チャーチの事で責任感じて出てこうってんなら、俺が、その死んだよねさんが許さないからな!
ヒコはここに居ていいんだよ!まだチャーチとの戦いは終わってないんだろ!俺もヒコから夕凪さんに頼んで華炎作ってもらったんだ、協力させないとは言わせないからな!!
これからは何でも俺に言えよ!分かったか、この馬鹿ヒコ!!」
最後の方にはヒコの方が慌てふためいて、落ち着け、落ち着けと繰り返して僕を宥めようとしていた。その夜、ずっと僕は泣き通しだった。いつの間にか泣き疲れて眠って・・・気がついたら普段着のままベッドに寝かされていた。今日が日曜なのが、本当に嬉しく思った。
時刻は朝の十時。ヒコは下の階に朝食を取りにいったらしい。薊丸が部屋に置きっぱなしになっていたから、出て行った訳じゃないというのはわかった。
「おはよ、司ちゃん。何かぶつぶつ言い始めたと思ったら、いつの間にか寝ちゃってるんだもの。器用な事するわね」
明るいデュファイの声に、少し救われた気がした。
その二日後、ミーシャはまたあの緞帳の前に立っていた。
緞帳の向こう側に居るであろう老師は、何も言わず、ミーシャの発言を待っている。
「・・・何故私を通さず、ラファエロに密命を持たせたのですか」
ミーシャの声は落ち着いてはいたが、その内面にはありありと怒りの感情が籠もっていた。第七小隊老師は押し黙り、・・・暫し間を置いて答えた。
「貴様ひとりではヴァンパイアを倒せないと判断したからに決まっておろう」
その頃、日本に残って教会の留守番をしていたウルは、ベッドに寝転がって天井に向けて掲げた己の左手を見つめていた。左手の甲には、古いものだろうか、刺し傷の様なものがあった。
ウルの家庭はごく平凡な只の中流層であった。しかしその平凡を、ウル自身の能力がぶち壊した。五歳か六歳になってからだろうか、ウルの周辺で物が勝手に動いたり、酷いときには宙に浮いて壁に当たって砕けたりする謎の現象が起こり始めた。それは大抵夜中で、そろそろ一人で寝れる様にならないと、と自分の部屋を与えられた矢先の事であった。
ウルの両親は、これは噂に聞くポルターガイストに違いない、と、家の除霊を数々の霊媒師に頼んだ。しかしそのどれもが外れで、謎の現象は一向に収まる所を知らず、否、どんどん酷くなっていくばかりであった。ウルは毎夜の様に自分の部屋で行われる儀式に、不安を覚えていたのだ。そしてある霊媒師はこう両親に告げた。「この子供が霊現象を引き起こしているのかも知れません」と。
退魔の儀式の対象が、家からウル本人に変わった。或る者は「守護霊がこの子供にはいる」と言い、また或る者は「悪魔が憑いている」と言った。悪魔憑きと判断した霊媒師は、ウルをベッドに縛り付けて何やらそれぞれの流派の儀式を行おうとするものの、ウルの不安から引き起こされた空間制御能力で吹っ飛ばされたり物をぶつけられたりして、退散していった。ウルの本能的な自衛行為は、ウルを悪魔憑きと両親に判断させるには充分すぎた。
ある日やってきた霊媒師は、「キリストの名において除霊を行う」と言い、また「最後の手段」と言って、鞄の中から五寸釘を四本取りだした。恐る恐るそれを見つめている両親と、ベッドに縛り付けられて身動きできず、恐怖に震えるウル。
『聖痕を作って悪魔を追い出します』
その霊媒師の言葉の意味を母親が理解したとき、母親は泣き崩れた。木槌と五寸釘を持って、ベッドの上で動けないウルに霊媒師は近づいてくる。聖痕。
このひとは、ぼくのてにくぎをうつつもりだ。
それを理解した時、ウルの頭は真っ白になった。次の瞬間にやってくるであろう激痛、そしてそれを止めもせず息を呑んで見つめているだけの両親に対する怒り、不安、全てが、
そうしてウルの小さな左手に、五寸釘がぶすりと打ち込まれた、瞬間。
ウルは叫んでいた。暴風の様に家具が部屋の中を乱れ飛び、箪笥の角が霊媒師の頭を打ち砕いた。バキバキと音を立てて崩れたベッドの破片が父親の胸を貫いた。母親は家具と同じ様に部屋の壁に何度も打ち付けられ、血塗れになってどさりと床に落ちた。
泣き疲れ、痛みに馴れて来た頃、遠くからサイレンの音が聞こえた。隣家が通報したものらしい。
それからウルは、親殺しの枷を引き摺って生きていく事になった。自分の中の恐怖感があの悪夢をもたらした事も、ウルは理解していた。だから、出来るだけ笑って生きていこう、自分の人生における喜怒哀楽を起こさせる様な現象をコントロールしようと考えた。
彼は「割り切る」ことにした。自分に襲いかかってくる恐怖、悲しみを出来るだけ少なくしよう、自分に関係のない事はすっぱり関係ないと割り切る事にしよう、そしてできるだけ明るく、健やかに、楽しく生きていこうと決意した。
だが今回のミーシャの件だけは、割り切る訳にはいかなかった。あの日、いじめられっ子だったミーシャを助けて以来、ミーシャは暇さえあればてくてくと自分の後をついてきた。そうしている内に情が移ってしまって、こいつだけは守ってやろうと考える様になっていた。彼は自分の退院が昨日でなければ、ミーシャについていって老師に一言文句を言ってやろうとさえ考えるまでに思い込んでいた。
「病み上がりだからって寝てないで、ちょっとは掃除くらい手伝ったらどう?」
不意に聞こえた声が、ウルの回想を断ち切った。シスター服の似合わないガブリエイラを憎らしく思う反面悪夢を断ち切ってくれた彼女をありがたくも思った。だから常時もの様に笑ってベッドから起き上がり、
「はいよはいよ。どこを手伝やァいいんだ」
緞帳の奥から、また別の老師の声が聞こえた。
「それに、どうせ儂の第十三小隊のやり方に不満を持ってきたんじゃろう?」
言い出してもいないのに、ぴしゃりと頬を叩かれる様に言い当てられたものだから、ミーシャは一瞬身を竦めた。
「・・・はい。曲がりなりにも人ではないとはいえ、人質を取るという手段はチャーチの摂理に反していると思います」
「上城家に手を出さぬだけ有り難いと思ってもらえればよかったんじゃがのう」
この発言には、流石のミーシャも苛立ちを隠せなかった。
「人質を取る事自体がいけないと、何故おわかりになって頂けないのですか!それに山神がもし祟り神にでもなったりした場合、呉倉は人の住めぬ地になってしまいます!
ヴァンパイアを討ち、秘宝を奪うという本来の目的はどうなってしまったのですか!」
一瞬の沈黙の後、第十三小隊老師はゆっくりと諭す様に答えた。
「あれはあわよくば儂等が使えればいいのうと思って頼んだものじゃよ。破壊されてしまうならそれもまた運命」
ミーシャは違和感を覚えた。そもそもあの秘宝は、ヴァンパイアの間に伝えられていたものの筈。それを手にする為にミーシャ達隊員は躍起になっていた。
だが考えればおかしい話である。「何故ヴァンパイアにしか使えない秘宝を、老師がほしがるのか」。
「・・・お尋ねします。老師はヴァンパイアの秘宝を手に入れて、何をなさるお心算なのですか?」
冷静に考えれば、・・・老師もまた、秘宝を使える能力を有しているという事になる。それはつまり・・・。
「ミーシャ!これ以上の質問は許さん!頭を冷やして・・・」
珍しく声を荒げた第七小隊老師の激怒を、第十三小隊老師の声が遮った。
「落ち着かんかい。・・・仕方ない、これも儂等に課せられた運命。己の手を汚さずしてただの霊力を持っただけの人間に任せたのが悪かった、という事かも知れんのう」
クスクスと笑う声が、緞帳の向こうからボイスチェンジャーを通して聞こえてきた。
「ミーシャよ。最早貴様等兵隊に手の負える存在でないことはよくわかった。失望じゃ。
第七小隊老師として命ずる。儂等をヴァンパイアの元まで連れてゆけ」
「え・・・!」
狼狽するミーシャの前の緞帳が、ゆっくりと開き始める。緞帳の向こう側を初めて見たミーシャは、その異様な老師の姿に、あっと思わず声を挙げた。
コロは苛々していた。うずうずしていた。結局司がばんぱいやの話に夢中になってしまった所為で、さんぽに連れて行って貰えなかったからである。一応昨日はさんぽに連れて行って貰えたものの、そもそも相当の運動量を必要とする狼としては、普段の司のさんぽではちょっとつまらなくなってきていた。ヒコにやったみたくずるずる「もの」を引っ張って走る程の運動もたまにはしたくなる。
さんぽをサボったのだから、たまには反抗しても悪くはあるまい。コロは人型に変身すると、肉球の手で器用に鎖を外し、また狼型に戻って、昼間の由川を走りだした。
初めてひとりきりで大通りに出たコロは、わくわくするものを感じていた。車の往来するところでは、白線の交互に敷かれた所でまって、赤と緑の光るやつが緑になったら渡ればいい。その位の「こうつうるーる」は分かってるもんね、へへん。そしてお座りで、信号が緑になるのを待っている。
「あー、おっきなわんわんだー!」
向こうから幼稚園のお散歩の帰り道だろうか、黄色い帽子に青いポンチョの幼稚園児の集団がやってきて、一瞬でコロに群がってきた。逃げようかとも思ったが幼稚園児達のテンションとポテンシャルは意外に高く、あっという間に囲まれてしまった。先生の「野良犬に触るのはやめなさーい!」という一言がちょっとかちんと来たが、ここで吠えて追い返したら幼稚園児達が怖がって逃げて車道に出てしまうかもしれない。四方八方から繰り出されるなでくりと掴みと引っ張りに耐え、コロはじっとするしかない。
「わんわんふかふかー!」
「ねえねえ、せんせー、くびわついてるからのらいぬじゃないよ!」
「どこのわんわんかなー?」
きゃあきゃあ言いながら、子供達は北斗百烈拳の様な手を休める事は無い。なんとかしばらくして先生に子供達をまとめてもらって、さんぽの続きを楽しんでもらう。コロはほうと溜息をつき、なでくりまわされてぐしゃぐしゃになった毛並みを整えようとぶるんぶるんと身震いした。さて、後は自由だ。オレは自由の身だ。鼻歌・・・は控えて、しっぽふりふり往来をゆく。
と、いきなり後ろからきゃんと吠えられた。振り向くと、ちわわとかいうちみっこい犬がこちらに向かって威嚇の様に唸って吠え立ててくる。どうやら「この辺は俺の界隈だぞ」とアピールしているらしい。なんだそんなもん、オレがどこ歩こうが自由じゃねえか。しかもこんな虫みたいにちみっこいやつに威嚇されちゃあ筋が通らない。しかもその犬を連れたおばちゃんが、化け物を見る目でこっちを見て吠えまくるちわわを抱き上げた。ひとつびびらせてやるか。コロはぐるる、と小さく(したつもりだけどそうでもなかったみたい)唸ってやった。ざまあねえや、しょんべんちびってら。腕の中でちびられたおばちゃんの悲鳴が聞こえる。知らん振りして先を急ごう。
「コロちゃん!」
聞こえた声にびくりとコロは肩を震わせた。やばい。
こわごわと振り返ると、そこにはリードを持ってぷんすか怒っている顔のママが立っていた。
「ほんっとにもうコロちゃんは!勝手にどっか行っちゃだめって何度も言ったでしょ!」
脱走したコロを見つけるなんて、ママの嗅覚の方が下手な犬よりいいんじゃないか、とコロは思った。しぶしぶリードに繋がれて、家路をゆく。
「罰として今日はおやつのささみジャーキーなしですからね!さんぽは司とじゃないと行っちゃだめってあれほど言ったじゃないの!」
コロは肩を落としてとぼとぼ歩く。
「全く、司も司よ。ヒコちゃんの話に夢中になってお散歩忘れるなんて・・・来年受験だっていうのに、どうしようもないわねあの子ったら!」
ママは独り言の様にぶーたれている。そんなこんなで家路についたコロであった。
「さて、案内はミーシャ、お前さんに頼もうかのう。儂等も久々の外の世界じゃて」
「・・・全く、この役立たずめが。貴様等に頼っておった儂等が馬鹿じゃった。貴様の処分は儂等の案内をもってしてもらうからな」
遂に姿を現した老師二人の姿に言葉を失ったミーシャは、今までの思い込みががらがらと崩れる感覚を覚えていた。
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