ととさまとヒコ
第六話:ととさまとヒコ 前編
前編
それからまた一週間のあいだ、ラファエロは地獄を見た。何せ自分も治療中の身だと言うのに、退院したガブリエイラとそもそも怪我の概念がないレミーを除く4人の治癒を一手に引き受けさせられたのである。
「・・・」
ラファエロは不機嫌を顔に丸出しにして、最後の患者、サリエルの傷に手を翳していた。
「悪いな、新人くん」
申し訳なさそうにサリエルが言っても、ラファエロは頷きもしない。ただ黙って、手を翳し続ける。
その時、一足先に退院の許しが出たミーシャが、ペットボトルのお茶を持ってやってきた。ニコと害意のない笑みを見せて、ラファエロの向かい側の椅子に腰掛けた。
「差し入れ持ってきましたよ。俺は明日退院だそうです」
「そうか・・・しかしラファエロ君の治癒能力は凄いな。十日足らずでここまで回復できるとは脱帽だ」
「・・・別に・・・昔からそうでしたし」
喉笛を完全に治療できてないラファエロは、そう呟くのが精一杯の様子。ミーシャは何か言いたそうな顔で、ラファエロに、
「済まないラファエロ、少佐に少し話があるんだ。席を外してくれないか。お前も疲れてるだろ」
何かを察したラファエロは、すっくと立ち上がると、霊力の使いすぎか少々ふらついた足で病室から出て行った。サリエルも大方ミーシャの言いたい事が分かっているのか、黙ってミーシャが口を開くのを待っていた。ミーシャはどこか緊張した面持ちで、暫し間を置き、口を開いた。
「・・・明後日、本部に戻ろうと思います」
「戻ってどうする」
「問いただします、老師に。俺を通さずにラファエロに密命を持たせた事、そして人質などという手段に出た事。最近の老師の命は度が過ぎています」
「・・・アーレフはどうする?」
ミーシャは黙った。老師に反抗する、イコール、アーレフを取り上げられてしまうかもしれない事。小さな頃の惨劇から自分の殻に閉じこもってしまった幼いミーシャと辛抱強く向き合い、彼の心のくびきを取り去ってくれたアーレフ。
あの日人手が足りないからといって、訓練兵の立場なのに駆り出された初めての戦場。槍術は学んでいたものの、まだ契約も済ませていなかったあの日。
エルサレムの外れ、忘れ去られていた遺跡での戦闘中、ミーシャは向かってきた悪魔が崩した建物の中に居た。瓦礫の下敷きになり、声も出せず助けも呼べない。そんな中聞こえた声。
『ミーシャ、叫べ!』
瓦礫の上から聞こえてきた、聞き覚えのある声。いつも傍に居てくれた声、そうしてこれからもずっと傍に居て欲しい声。あ、ああ、と、喉を振り絞ったが、声は矢張り出ない。死の恐怖が、彼の声をより一層封じていた。
『叫ぶんだ、ミーシャ!私の名を!』
怖い、助けてほしい、一緒に居たい、ずっと友達だから、ああ、あ、あああああ、
「・・・ぁアーレフううう!!」
その瞬間、アーレフを覆っていた聖布がばさと光明に解かされ、白銀の甲冑姿が露わになった。ミーシャの身体から緑色の衝撃波が生じ、瓦礫を吹き飛ばした。
そして立ち上がった彼の目は、今までの何かに怯えていた彼の目とは違う光を湛えていた。
『ミーシャ、契約は完了した。命じろ、私に』
ロンギヌスを悪魔に向かって構え、ミーシャは今まで発せなかった分の声を思い切り張り上げた。
「アーレフ!・・・行けええええ!!」
「アーレフは俺と契約した天使です。第七小隊も、今は俺が隊長です。それに人質を取る等といった卑劣な行為を命じ、少佐達第十三小隊を壊滅させた。無謀な作戦で隊員の身を危険に晒した老師に問いただしたいのです。これからどうする心算かを」
ミーシャの目に迷いはなかった。ミーシャがこうなったらもう止める事はできない。ミーシャは今、自分と同じ「小隊長」の立場に居る。無理矢理止める訳にもいかない。
サリエルはふうと肺に溜まった息を吐いて、・・・堅く微笑んだ。
「分かった。何かお前に不都合な事があったら、俺からも言おう」
そしてここにも溜息を吐いたひとがひとり。
工房で最後の人工皮膚縫合を終えたマティーナが、頭に巻いていたタオルを解いて額に浮いた汗を拭った。自身の怪我をものともせず、あの戦闘でぼろぼろに破壊されたエミリオの修理が終わったのだ。以前から気になっていた左目を貫く様にはしっていた顔の傷もこの際なので綺麗に消した。バキバキに崩れた顔の骨格を組み直すのは非力なマティーナには骨が折れる作業だったが、皮膚の縫合は大学院時代から得意な分野だったので特に苦労はいらなかった。むしろ自分の手でもう一度愛しい兄の、なめらかな皮膚に針を通す度、ぞくぞくと快感染みたものが背筋を這った。
キィ、と音を立て、マティーナはエミリオの寝台の傍らに設置されているPCに向かって、何をか難解なコードを打ち込んだ。キュイーン、と蚊の飛ぶ様な微かな起動音が響く。
「・・・Démarrer」
フランス語で何やら独り言を呟きながら、マティーナは祈る様な気持ちでディスプレイを見つめた。何せコアチップの入った頭部を激しく損壊してしまっていたのだ。今までのプログラムが消えている可能性もあった。そうなればまたバックアップからデータを復旧させる仕事が始まる。
コマンドプロンプトの黒い画面上を白い文字が奔る様に覆い尽くした。
「Tres bien!Voila!」
どうやらシステムに問題はなかったらしい。データの破損も見当たらない。うまくいったようだ。
司はこの数日、特に第十三小隊との戦闘後、もやもやしたものを抱えて過ごしていた。
ヒコに「ととさまのこと」を聞きたかったのだ。あの日、すずが祟り神になるのを何とか阻止できたと知った時流した涙、それにその三日前、血塗れの光景の中で流していた涙。理由を、由来を知りたかった。だから夕飯が終わって狩りに出かけようとしたヒコを、玄関先で呼び止めた。
「ヒコ。・・・話があるんだ」
ヒコは司の心情を察したらしく、遂にこの日が来たか、といった表情で俯いて、
「わかっておるのだ。・・・取り敢えず部屋に戻るか」
ヒコが語り、デュファイやセルジュが注釈を入れてくれたこのときの会話を、僕は生涯忘れないだろう。それはあんまりにも長く、暖かく、そして悲しい話だった。目の前のヒコの印象が、内心只の魔物だとしか認識していなかったヒコの印象が、がらりと、重みを増して僕の眼前に広がった。
話は結局、日付が変わるまで続いた。五百年前何が起こったのか、僕はここで語る術を知らない。ただ聞いたとおり、ありのままを、ここに記そうと思う。
アスフォデルは新緑の季節、昼間の日光を避ける様にして山の中の荒ら屋に休んでいた。薊を鞘に仕舞い、枕元に置いて埃っぽい軋んだ木の床に横になっていると、不意に人の気配を感じ、セルジュを使いにやって気配の元、荒ら屋の裏手へと送った。
そこには裸足の足を草切れや木の枝で疵だらけにした、齢五歳になろうかという子供が倒れていた。脚の怪我はひどく、着ている服も所々泥だらけで、恐らく数日は山の中を彷徨っていたのだろうという事は容易に察せられた。そういえば先日、この山の近くの武家屋敷が敵勢に襲撃されたとの話をアスフォデルは思い出した。丁度その混乱に乗じて、数人の血を頂いたばかりだったのだ。
「主上、如何致しましょう?」
セルジュが抱きかかえてきた子供をそっと受け取り、膝の上に載せた。
「食べても不味そうですわねぇ」
デュファイが人型に戻り、興味津々といった様子で子供の顔を覗き込んで言った。数日何も食べてないのか手足は痩せ細り血の気もなく、今にも死んでしまいそうな子供だった。
アスフォデルは暫く何をか考えた後、使い魔二匹を驚かせる一言をぼそりと言った。
「・・・確か寺で貰った米があったな。粥を炊いてくれ」
手持ちの鍋でお粥を炊いて、アスフォデルは匙でそっと掬うと、丁寧に熱を冷ましてやって、そっと抱きかかえてやっていた子供の口元に匙をもっていった。極限まで弱っているのか、子供は口を開いてくれない。
「こうしたらどうかしら、主上」
デュファイは子供の小さな鼻をちょいと抓んだ。息苦しいのか血の気のない唇を柔く開いた子供の口に、小鳥の雛に餌をやる様に優しく匙を押し込んだ。まだものを飲み込む体力は残っていたのか、こくんと喉が鳴って、子供は粥を飲み込んだ。要領を覚えたアスフォデルはゆっくりと子供が無理しない程度の量を掬って子供に粥を食べさせる。それを5、6回繰り返したところで、いきなり沢山の量を食べさせるのも負担がかかると判断したのか、アスフォデルは藁敷きの上に子供を寝かせてやった。
「成る程、食べ頃になるまで太らせるのですな」
セルジュの一言に何を返す事もなく、アスフォデルは黙って子供の寝顔を見つめていた。結局その晩は狩りに出かける事なく、ずっと子供の動向を看ていた。
翌日、アスフォデルがうとうとしていると、視線を感じてはたと目を覚ました。見ると、子供がうっすらと目を開いてこちらを見て居た。そこに驚きの表情はなかった。まだ驚いて逃げる体力もない。
子供はゆっくりと口を開いて、ぽつんと呟いた。
「・・・ちちうえ?・・・ははうえ?」
アスフォデルは子供の傍に座り、手短にあったきれいな布を水筒の水で濡らし、まだ泥だらけだった子供の額を拭ってやりながら、
「私はお前の両親ではない」
この子供が例の武家屋敷から逃げ出してきたのだとしたら、もう両親は恐らくこの世にはいまい。しかしアスフォデルはそれを告げる事なく、子供の身体中の泥や傷の血の跡を優しく拭ってやっていた。
「・・・いたい!」
見ると、影腹に大きな傷があった。襲撃から逃げる際にやったものだろう。泥が入ったのか傷が深いのか傷口は膿んで赤く腫れ上がっていた。この子供の今の体力では、三日と命が持たないと思われる程の傷であった。
「デュファイ。薊に」
命じられたデュファイは戸惑いながらも、命ぜられるまま薊へと変化した。普段のレイピアになろうとすると、アスフォデルはゆっくり首を横に振り、
「ナイフでいい」
意味がわからず、再び人型に戻る。しかし主上の命令は命令、小刀へと変化した。アスフォデルは薊を取り、見守っていたセルジュがあっと叫ぶ暇も無い早さで、己の左手を深く切った。かと思うと、ぼたぼたと垂れる血を、子供の影腹へと流してゆく。
「主上!何を・・・!」
「これでいい。これで」
アスフォデルの血は子供の傷に吸い込まれてゆく。暫し経ってアスフォデルの血が止まり傷口が塞がると、再び布で子供の傷口の膿を拭ってやった。影腹の大きな傷は、完全に塞がっていた。子供の目にも、若干の光が戻った。完全ではないが、ヴァンパイアの血で体力も回復したらしい。
「・・・ははうえは?」
子供は弱々しい声で呟くと、ゆっくりと辺りを見回した。自分の親が居ない事に気付いたらしい。栗色の瞳が、不安に滲んでくる。
「ははうえ、・・・ははうえぇ、」
そして、ふええ、と自由の利かない両の掌で目を擦り泣き始めた。自分の置かれた身の上がようやく理解できた様だ。アスフォデルは子供を抱きかかえ、頭を撫でてやった。子供は自分には警戒心を抱いていないらしく、怖がる様子もなく、ただ自分の親が死んでしまった事を悲しんで泣きじゃくっていた。
泣いている子供のあやし方などわからない使い魔二匹を尻目に、アスフォデルは驚きの一言を放った。
「大丈夫だ。・・・私がお前の父上になってやる」
子供の名前は、子供自身がよくわかっていなかった。無理もない、まだ五歳の身の上である。親から呼ばれていた愛称しか知らなかった。体力こそやや戻ってはきていたものの、覚束ない手で粥を食べながら、子供は「ヒコ」と名乗った。幼名の愛称だろうが、元の名を知るものはもうこの世には居ないだろう。
そして矢張りヒコは武家屋敷の子供だった。乱世の中、敵勢に襲撃され、母親に連れられ裏山に逃げ込んだ所を追いかけられ、唯々夢中で走り回り、気付けば母親とはぐれ、ひとりきり数日間山の中で追っ手に怯えながら彷徨っていたところを、この荒ら屋に辿り着いて意識を失った、という。
使い魔二匹は、アスフォデルはこの子供を太らせ食べ頃になった所で血を頂くつもりなのだろうと思っていた。が、当の主にそんな気配はなく、ただこのヒコを我が子の様に可愛がった。馬の鞍の前に乗せてやり、昼は神社や寺、旅籠や、時には荒ら屋で休み、夜移動するという生活を送った。ヒコはアスフォデルの日本人とはかけ離れた異様な姿に怯える事もなく、ととさま、ととさまと呼んでアスフォデルによく懐いた。当初は夜型の生活に慣れず、馬の鞍の上でうとうとしている事も多かったが、段々とヴァンパイアの活動時間に馴染んできた様子で、デュファイやセルジュとも仲良く話す機会が増えた。しかし使い魔二匹はまさか本当にアスフォデルがヒコを子供として引き取ろうという気でいることが信じられず、どう接していいかわからなかった。
アスフォデルの本心はと言えば、本当ならば今すぐにでもヒコの血を食らいたい一心でたまらなかったに違いない。処女と幼子ほど、ヴァンパイアの吸血欲求をかき立てるものはない。だがアスフォデルは決してヒコの血を吸おうとはしなかった。それが何故なのかは、アスフォデルの最期まで誰も分からなかった。アスフォデル自身も、誰にも目的を語ろうとはしなかった。
魔物と人間の子供。その組み合わせは、行く村々で大きな話題を浴びた。金色の髪をした舶来人と、日本人の普通の子供が大きな手と小さな手を合わせて夜の村を歩いてくる様は、奇異の目を誘い、時には珍しいものと歓迎され、時には悪鬼とその子供と恐れられ追い出される事もあった。ヒコを引き取って育てたいという人間も居ないではなかったが、ヒコはそれでもととさまがいい、とアスフォデルの傍を離れる事はなかった。
アスフォデルの退魔の力もまた、悪霊や妖怪に悩まされている人々の注目の的であった。アスフォデルの行く先で猛威をふるっていた妖怪が次々と姿を消す様を見て、村の人々は畏れの念を抱いた喜びの声を挙げた。そしていつしかアスフォデルの名は「金色の退魔師」として広がっていった。これにはデュファイも笑って、
「主上がエクソシストだなんて、勘違いも良いところですわね」
言っても、アスフォデルは顔色ひとつ変えようとしなかった。
年月は経ち、いつしかヒコも五歳の弱々しい幼子から、刀の使い方も様になってきた少年へと育った。対してアスフォデルがいつまでも歳を取らない事を不審にも思わず、ただととさま、ととさまとアスフォデルを慕い、ててと自分よりずっと背の高いアスフォデルの背中について回っていた。流石に狩りに連れて行く事はなかったが、剣術を教えたのもアスフォデルであった。思えばこの時、アスフォデルは既に自分の運命を幾ばくか察していたのかもしれない。
いつしかアスフォデルは、放浪を止め、呉倉という地に居着く様になった。その地の寺の住職がとても親切で、ヒコをよく可愛がってくれるようになったからであった。またこの地は霊も多く、吸血頻度を減らしても生きていけるだけのモルクワァラが採れるからでもあった。村の人々も「金髪様」とアスフォデルを警戒しなくなり、ヒコが昼間ひとりで出かけても親しく接してくれる様になった。
だが村の意見も一枚岩ではない。「あんな化生の者を置いておくと何れ何か祟りが起きるぞ」と影でひそひそ噂されていた。ヒコもその人達に言わせれば「悪鬼の使い」とされ、はぐれ者の彼等から陰湿ないじめも受けた。だがそれでも、ヒコはととさまから離れる事はしなかった。ととさまに泣きつく事もしなかった。ととさまが悲しむと思ったからだ。やっと放浪の旅の辛さから解放されたととさまを悲しませ、もう一度旅に出させるなんて事はしたくなかった。呉倉はそれ程居心地がよかったのだ。
ある年、台風と激しい干ばつで村に飢饉が訪れた。百何年に一度かという大飢饉である。人々は餓え、空腹の所為で気が立っていた。
そして遂に人々の噂に、アスフォデルの名が取りざたされる様になった。2年前この村に居着いたあの金髪様が、この異常気象、飢饉の原因ではないか、と。アスフォデルが退治した悪霊が、恨みをもって引き起こしたのではないか、と。噂は伝染病の様に村々に広がってゆき、遂にアスフォデル本人の耳にも入る様になった。ヒコも町をさんぽすることをしなくなった。恨みを募らせた村の人々に、襲われる可能性だってあるかもしれない。そう思ってアスフォデルがヒコに、出来るだけ寺から出るな、と言い聞かせたのだ。寺の住職だけはこのヴァンパイアをいつまでも擁護していた。村の集まりに呼ばれ、あの悪鬼を追いだそうという人々の激しい意見と真っ向から対峙し、粘り強く今回の飢饉はアスフォデルの所為ではない事、むしろそうやって何かにつけ原因を他所から来た者に押しつける態度そのものが仏様の怒りを買っているのだ、と。
アスフォデルはそれでも落ち着いて、狩りに出かけていた。だが今まで喜んで血を分けてくれていた人々は段々とアスフォデルと距離を置く様になった。アスフォデルも餓え、モルクワァラで腹を誤魔化すには限界がきていた。満月の日、遂に耐えられなくなったアスフォデルは、ヒコが眠った後住職にヒコの世話を頼んで、出来るだけ呉倉から遠くまでセルジュの羽で出かけ、満月の狂気の赴くまま、8年分の空腹を本能のまま満たす様に人を襲ってしまった。一日掛かりで小さな辺境の村を壊滅させてしまったのである。アスフォデルの洋風の衣服は血塗れになった。
寺に帰ると、寂しさでぐずって眠っていたヒコがととさまの気配で目を覚ました。寺の表でぼうっと突っ立っていたアスフォデルを見つけ、喜んで抱きつこうとした。が、
「ととさま?・・・なんで血塗れなのだ?」
恐怖に顔を痙攣らせ、後退るヒコ。ああ、遂にこの時がやってきてしまった。ヒコはこんなに血塗れのアスフォデルなど見た事がなかった。ととさまが何処かで人を殺してきた。ヒコは恐怖のあまり、わあわあと泣いた。ととさまがととさまでない気がした。アスフォデルは唯々悲しそうに、ヒコを紅い瞳で見つめていた。
それからというもの、住職以外の村の人々の態度は一変した。悪鬼が遂に本性を現した。干ばつもこの悪鬼の存在を許していた自分たちに仏様が罰を与えたのだ。そう言って時折悪鬼を出せと各々の農具や刀を持ち寄って、寺に押し入ろうとした事が頻繁に起こる様になった。それを住職が何とか宥めて場を収める、といった光景も、ヒコはよく見るようになった。
悪い事は続くものである。アスフォデルは風の噂で、もう一人舶来人が来たと聞いて血の気を無くした。ここにアスフォデルが居て、その存在が見つかるのも時間の問題であった。チャーチ。数百年の時を経ても、まだヴァンパイア狩りと秘宝の奪取を諦めてはいなかったのだ。アスフォデルの旅路をつぶさに調べ上げ、ようやくここ日本の呉倉という村に居着いている、との情報を彼等は掴んだ。アスフォデルは、村を去る決意を固めた。自分だけなら兎も角、相手は手段を選ばないチャーチである。この村が焼かれてしまうかもしれない。
そしてその杞憂は、現実の物となってしまった。西洋からはるばるやってきたチャーチの一員、名はマスティマと言った。マスティマは人工的に作られた「天使」を使い、村の人々の憎悪がアスフォデルひとりに傾く様に仕向けた。天使が普通の人間に見えないのを良いことに、天使の手で呉倉の村を焼き払ったのだ。
家を失い、飢饉でどうにもならなくなった村の人々の辛さが、アスフォデルの存在否定に繋がるのは遅い話ではなかった。兎に角チャーチを止めないと、という事で、アスフォデルは珍しく憤怒の表情を浮かべてマスティマを探しに出かけていった、その夜。
大人数が寺に押し寄せ、「悪鬼を出せ」と叫んだ。ヒコは怖がって住職に縋り付いていたが、ある一人の村人が、こう言い放った。
「悪鬼の子供も殺してしまえ!」
アスフォデルは遂にマスティマを見つけた。否、向こうから出向いてきたのだ。マスティマはアスフォデルの姿を見ると、光る聖槍を構えてこちらに突撃してきた。アスフォデルも黙って薊を構え、一気に突き殺そうとした。が、マスティマの姿がふっと眼前で消えた。空間転移能力、それに違いなかった。気付けばマスティマの姿は、アスフォデルの死角、頭上に居た。聖槍を構え、アスフォデルの胸元を一気に串刺しにした!
『・・・それで終わりか?チャーチ』
アスフォデルは一瞬にしてレイピアの薊をサーベルに変え、聖槍が効かない事に狼狽えているマスティマの首を、躊躇う事無く刎ねた。戦い自体は、呆気なく終わった。
だがアスフォデルの傷は、心臓に近い部分であった。どくどくと呪われた血が流れ出て、地面に吸い込まれてゆく。思わず膝をつき、その場に頽れた。
「主上!」
デュファイの悲鳴にも似た叫びが辺りに響く。アスフォデルの傷はなかなか塞がらなかった。無理もない、チャーチで最強の武器、聖槍ロンギヌスで胸を突かれたのだ。アスフォデルは倒れたまま動かない。
しかしその瞬間、ヒコの悲鳴が微かに耳に届いた。
「殺せ!殺せ!悪鬼の子供など殺してしまえ!」
集団ヒステリー状態に陥ってしまった数十人の武装した集団には、最早住職の説得など効果もくそもなかった。ダダと寺の中になだれ込んできて、恐怖に震えて住職に縋り付いているヒコの手を引っ張り、遂に住職からヒコを引き離した。
「嫌だ!ととさま、ととさま助けて!」
泣き叫んでじたばたと暴れるヒコを羽交い締めにして、村の人々は、村から少し離れた森の中、小高い丘にヒコを連れていった。
「お前の所為で俺の子供は死んだんだぞ!」
「お前の父親がいなけりゃこんなことにはならなかったんだ!」
「死ね!死んで俺達の家族に償え!」
ぎゃあぎゃあと叫ぶ村の民に囲まれて、ヒコはただただととさまの助けを呼んだ。
アスフォデルは余力を振り絞り、よろよろと寺へと向かった。ヒコに何かあったのかもしれない。胸の傷口を押さえてようやく辿り着いた寺の住職は、アスフォデルの姿を見ると、ぽろぽろと泣き詫び始めた。
「すまなんだ、すまなんだ・・・ヒコが村の衆に連れていかれてしまった・・・」
住職のお詫びを最後まで聞かず、ただヒコの匂いだけを頼りに、アスフォデルは満身創痍の身体を引き摺って森の中へと入っていった。
磔にされたヒコの小さな身体は、大人用の磔台にきつく括り付けられた所為か、尚のこと小さく見えた。村の衆が幾本もの槍を持ってくる。そして仏様に、どうか怒りを沈めて下さいと祈った。
死の恐怖に泣きじゃくるヒコの耳に、キィーンと高い耳鳴りが響く。ああ、自分はこれから殺されるんだ、自分に向かって構えられた槍の穂先を見て、その実感を嫌という程味わった。
そしてそのうちの一本、やせ衰えてはいるもののがたいの良い若者の槍が、泣き叫ぶヒコの心臓を一突きにした。甲高い悲鳴が、村の者達の怒号や罵声と混じって丘の上を響き渡る。槍は次々とヒコの小さな身体を突き上げる。その度にヒコの口から悲鳴と血糊が溢れ出た。
そして、悲鳴は途絶え、ヒコはがっくりと力を無くして項垂れた。
アスフォデルが丘の上に辿り着いた頃には、村の人々はもう居なかった。そして、十字架の様な磔台に括り付けられて絶命しているヒコを見て・・・アスフォデルは、悲嘆に暮れて叫んだ。
「ヒコ・・・ヒコ!」
デュファイに命令して磔台からヒコを下ろし、血塗れのヒコの身体をひしと抱きしめ、声を挙げて泣いた。自分の所為だ。チャーチが諦めたものと油断したのがいけなかった。ヒコを失ってしまった。
思えばアスフォデルは一人きりが辛かったのだ。旅の途中途中で孤独にうち拉がれて、誰でも良い、自分を慕ってくれるひとが欲しかったのだ。だがその願いは、たったの数年で終わってしまった。幸せだったヒコとの旅が眼前を過ぎる。
その時、アスフォデルは気付いた。己の胸からの出血が多量な事に。もう自分も、命が長くない事に。決意は早かった。泣いている使い魔二匹に、こう命じた。
「・・・儀式を行う。手伝え」
「ぎっ、儀式とは・・・正気でございますか、主上!」
アスフォデルは愛しそうにヒコの屍の髪を撫でてやりながら、狼狽する使い魔二匹に呟いた。
「私はヒコの中で生き続ける・・・ヒコはここで死んで良い存在ではない」
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