第四話:ぜんいんしゅうごう 後編
「ヒコ、そこの十字架男を頼むよ。こっちは狙撃女を狙う。僕の結界も銀製には弱いんでね」
言うが早く、エミリオが外二階の通路に続く登り階段を走って上がっていく。ミシリ、と金属のきしむ音が耳に入ったが、問題ないと判断し、先刻ガブリエイラが使って居た銃眼を右腕で勢いよくぶち抜いて、外二階を覗き込んだ。が、居ない。既に別の銃眼へと移動した様だ。
一方ミーシャとウルを同時に相手する事になったヒコは、セルジュの羽で一気にウルとの間合いを詰めると、十字架を大ぶりに振りかぶり、ガードががら空きになったウルの脇腹に重い斬撃を食らわせた。瞬間、それまでふわりと地表五センチの所を漂っていた瓦礫の破片が、制御を失ってガシャガシャと音を立てタイルの床に落ちた。
「ってーなこいつ!」
ウルは振りかぶっていた十字架を横薙ぎに構え直し、ヒコの横面を思い切りぶん殴った。防御こそしていたものの、その衝撃は凄まじく、ヒコの軽い身が宙を飛んでどさと落ちた。
「若!」
焦燥を含んだデュファイの声が、廃墟内に木霊する。しかしヒコも歴戦のばんぱいやである、すぐに軽く頭を振って、立ち上がり、もう一度薊丸を構え直し、
「マティーナ!まだ終わらんか!」
ガブリエイラはチャーチで鍛えられ、腕力も普通の女性より優れているとはいえ、エミリオの腕力に捉えられてはたまらないと判断したのか、外二階の廊下を走り銃眼から銃眼へと逃げ回って居る為、銃撃がないのが有り難かった。しかし銃撃がなくなったものの、ウルとミーシャを同時に相手にするのはヒコにとっても苦しい状態である。さっさとガブリエイラを片付け、エミリオと共闘する形に持って行きたい所だ。
「そんなに早く終わる訳ないだろ。もうちょっと待ってよ。兄さんのカメラだけですばしっこいUne sourisを追うのは苦労がいるんだから」
マティーナの脳に直接埋め込んだチップから、二階廊下の映像が送られてくるものの、人間の目ほど精巧に画像が把握できるわけではない。緑色のグリッドで複雑に構成された景観を頼りに、小さな銃眼を見つけ次第ぶち抜いていくのである。時間はまだかかりそうだ。
と、ヒコの背後へと再びミーシャがロンギヌスを構えて走ってくる姿を、セルジュが察知した。機転を利かせて羽を広げ、バサとひとつ羽ばたき、ヒコの身をロンギヌスの穂先から逸らした。勢いがつきすぎたのかつんのめって前に倒れそうになったのを、アーレフがミーシャの襟元をぐいと引っ張る事で回避した。その隙に、薊丸がミーシャの肩口をザバと斬り上げた!
「くそっ!」
ミーシャの舌打ちが聞こえた。どうやら薊丸の斬撃は、ミーシャの肌まで到達していたらしい。分厚い黒い軍服、そして暗闇でよくわからないが、多少の血の匂いをヒコの鼻が嗅ぎとった。身体を切れれば、遅い速度ではあるが、薊丸の妖力がじわじわと血管を通して浸食していき、痺れの様なものを伴って自由を奪う筈・・・、
「隊長!動かないで下さい!」
壁の裏にいたラファエロが、姿を現し、あろう事かミーシャに向かって魔銃の銃砲を向けて構えている。魔銃の使い方をよく知らないミーシャが振り返ると、
「ミーシャ!言う通り動くな!」
ウルの助言と同時に、ぱぁん、と銃声が鳴った。銃弾は真っ直ぐミーシャに向かって飛んできて、薊丸に斬られた傷口に寸分違わず命中した。痛みでミーシャはうめき声を上げた・・・が、不思議な事にすぐに痛みが引いてゆき、伝搬し始めていた薊丸の妖力も肌を通して蒸発していくように消えてゆく。
「魔銃は相手にダメージを与えるだけが能じゃないんです」
冷静なラファエロの声が、呆気にとられているヒコの鼓膜に響く。つまりは先刻ラファエロが銃弾に込めていたのは治癒能力・・・傷を癒やす、彼本来の「能力」であった。そしてラファエロは緑色に光る銃弾を再び魔銃のリボルバーに籠めた。
「僕がフォローします。隊長とウルさんは思う存分!」
本来ならばラファエロの能力は、近づいて直接傷口に手をかざし治癒能力を放つのが最も効果が早いのだが、まだチャーチの訓練を受け始めて日も浅く、ヴァンパイアの身体能力の高さについていけないと判断した老師は、実戦に突入した際「魔銃での銃撃」という形で味方の援護を担う様ラファエロに命じていた。
「そ、そんなのってアリぃ!?」
慌てたデュファイの声。純粋に二人なら兎も角、回復係まで居たとあってはたまったものではない。
「結構荒療治だが・・・悪い能力じゃないな」
ミーシャは苦笑して、再びロンギヌスを振り、薊丸をこちらに向けているヒコを睨んで構える。だがヒコは、それに対抗する様ににやりと笑って、
「・・・ならば若造、貴様の首から掻っきってやるのだ」
白兎の様な赤い目を、血に飢えた狂気の瞳に変え、ヒコは駆けだした。ラファエロを潰さなければ、埒があかないと判断しての事だった、が・・・そう簡単に遠くのラファエロの首までたどり着ける訳が無い。思うより早く、ウルとミーシャがヒコの進撃を塞ぐ様に立ちはだかり、各の凶器を振り下ろした。セルジュの羽で巧く急停止し、薊丸をウルの左腕に振り下ろす。が、飛び退きながらの一撃に堅い軍服を破る威力もなく、かすっただけでその斬撃は虚しく終わった。
一方その頃、司は家の縁側に座って、コロの犬小屋の真っ赤な屋根をぼんやりと眺めていた。よもやなかろうが、いつでもヒコのピンチの知らせを受けて家を飛び出せる様に、脇には華炎、そしてコート着用とスニーカーを履き、ポケットの中の携帯電話にやんわりと手をかけていた。
それを見て居たコロ、おすわりの状態で、ふと晴れ渡った夜空、満月を見て、ぐるる、と喉を鳴らした。こういう月を見ると、人間に変身して訳も無く町中を駆け回りたくなる。そうでなくても、思い切り遠吠えしたくなる。が、ママに遠吠えはやめなさいと言われている為我慢して、どうにかして漏らしたのが、先刻のぐるる、である。
「なぁ、司。かなだの満月は、もっと大きくて明るいぞ。何でにほんの満月は、こんなにちっちゃいんだ?」
「さぁ・・・俺にはわかんないな」
美紀ちゃんの家やブリーダーの繁殖所では室内飼いだった為、コロはまともに夜空を見上げたことはなかった。ましてや、こんな綺麗な満月など。
「星ももっとビカビカしてて、いっぱいあるぞ。なんでにほんの星はこんなに少ないんだ?」
「それぁ、もっと明るい光が日本にはいっぱいあるからだよ。街灯とか、家の灯りとか」
意味も無い会話。しかしコロの目は、明らかに魔性のものの光を帯びていた。上城家で飼われてから完全にわんことして扱われている為野生の狼の眼光は滅多に見せないものの、矢張り人狼という魔物である以上、満月の狂気からは逃れられない。それが、本性なのだ。
そして満月に中てられ、だが正気と冷静さを何とか保とうとしているこのばんぱいやの目にも、明らかに普段とは違う光が灯っていた。もし五百年生きてきた自制力がなければ、満月の下のヒコには人間の事など只の血の詰まった革袋にしか見えないのであろう。先刻ミーシャを斬った際、僅かに付着した薊丸の刀身の血をつつと指で拭い、ぺろと舐めた。そして嗤う。
タタタ、と微細な、何者かが駆ける音が壁の向こうから聞こえてくる。いくら消音靴を履いているとはいえ、このまこと緻密なるオートマータを騙す事などできない。そして、それを敏感に察知する錬金術師にも。
「・・・Je l'ai trouvé!」
マティーナが呟いた途端、ばぁん、がらがらがらと音を立て古ぼけた煉瓦の壁をエミリオの腕が貫いた。その後、ひっ、と小さな音声がマティーナの脳に届く。エミリオの右手が、正確にガブリエイラの豊かな髪を引っ掴んでいた。
「もう逃げられないよ、お姫様!」
力加減など一切なしに、壁ごとエミリオはガブリエイラを引っ張って自分の立つ廊下へと投げ飛ばした。金属の床に身を擲ったガブリエイラが、苦し紛れにアサルトライフルをエミリオの顔面に向けて乱射するも、口径の大きな銃弾にも関わらず、エミリオには背後によろめき、顔面の人工皮膚を破くだけのダメージしかなかった。よろよろと立ち上がってもう一度、今度はエミリオの右腕をもごうとアサルトライフルを構えたガブリエイラに、頬の部分の金属の骨格があらわになったエミリオは大きな腕をアッパーの形で振り上げ、ガブリエイラの鳩尾を強打した。うぇ、と、げほ、とが一緒になった様な奇妙な咳を挙げて膝をつこうとした彼女に追撃の手を緩めず、彼女の腕を引っ掴むと、
「ガブリエイラあああ!!」
危機に気付いて悲鳴の様な声を挙げたミーシャを尻目に、エミリオは廊下からガブリエイラを軽々と、一階、即ちマティーナの足元へ向かってぶんと投げた!
「てめえ!」
ウルはミーシャの隙を突こうと薊丸を振り上げたヒコの隙を逆に突く形で、咄嗟に地面に十字架を叩きつけた。すると物凄い勢いで一階に落ちてゆくガブリエイラの細い身が、地面すれすれの寸ででふわりと浮いた。状況を冷静に判断し、ガブリエイラは着地して、間髪入れずに発射されたラファエロの回復弾を身に受けダメージを無効にすると、驚いた表情のマティーナが鞄に手を突っ込もうとしたと同時に、
「いい加減にしなさいよ、このダボが!」
がきぃん、と音を立てて結界の継ぎ目から銀製加工の小銃を突っ込み、銃身に残っていた一発をマティーナの左胸目掛けて撃った!
「かはっ!」
咄嗟の一撃だった為急所の心臓は逸れたものの、左肩から大量の出血が溢れ出て、結界内に鮮血が飛び散る。着地点のタイルを崩して二階から飛び降りたエミリオが渾身のキックを繰りだそうとしたが、少し右足を振り上げようとしたところで自動停止した。
「マティーナ!」
「ガブリエイラ!」
同時に叫んで、同時に同じ方向へとヒコとミーシャが駆けだしていた。ふたり、お互いをキッと睨み合い、しかしそれどころではないといった様子でまた血に塗れた場へと走った。
マティーナはエミリオを動かすほどの気が回らなくとも、撃たれる前に手に握っていたものを叩きつける余力はあったらしく、ギリと歯噛みして痛みに耐え、厚手のグローブをはめた右手の硝子瓶を、結界内に入り込んでいたガブリエイラの手に叩きつけた。瓶は呆気なく壊れ、中の硫酸があふれだし、ガブリエイラの手をじゅうと焼いた。ガブリエイラの絶叫が廃墟内に響く。薄い狙撃用の革手袋が焼け、あらわになった皮膚が赤く爛れている。ずるりと車椅子から上半身を滑らせたマティーナが、どさりと床に倒れ込むのと同時に、彼の周囲を覆っていた結界が解けてゆく。
マティーナがやられた。独り対四人。絶体絶命。ヒコの脳裏に、そんな単語が掠めていった。しかし天啓にも似たひらめきが、絶望に続いて脳裏をよぎった。
ヒコは何を思ったか、薊丸で己の右手をざっくりと浅く切ると、血の溢れ出た手を勢いよくマティーナの傷口に押し当てた。これで或る程度のダメージは回復出来るはず。動けなくとも、エミリオを動かせるまでは。しかし本来ばんぱいやの血は治癒目的で使われるものではない。コロの様な魔物なら兎も角、マティーナは只の人間である。その効き目は遅い。マティーナは完全に気絶しており、エミリオも微動だにしない。後ろでぱぁん、と銃声が鳴った。ガブリエイラの背中に、ラファエロの銃弾が命中したのだ。こちらも先刻の様に直接傷口に撃つなら兎も角、そうでなければ効果が現れるのには若干時間が掛かる。
そして、ガブリエイラの窮状を目にして怒りに狂った一撃が、ヒコの右足を強かに打った。
「貴様ああああ!!!」
ミーシャが普段の温厚な表情を崩し、半ば泣きそうにも見える激怒の表情でヒコの右脛の骨を折った。突然の激痛に、ぎゃっ、と声を挙げ、ヒコはその場にへたり込んだ。
「坊ちゃま!後ろに!」
ごきっ、と嫌な音が首から鳴った、様な気がした。背後からのウルの十字架での一撃が、ヒコの細い首を直撃した。満身創痍で横に吹っ飛び、タイルの床に身を擲つ。考えよう、起き上がろうとしても、首と脛の激痛に思考を邪魔され、否、考えることすらできず、唯々頬に当たったタイルの冷たさを感じていた。
「・・・ヒコちゃん?」
早寝のすずは、小さな布団にくるまって眠り入っていたところ、目を覚まし、ぱちぱちと目を瞬かせた。嫌な匂い、気配、空気がすずの身体を駆け抜けていった。むくと起きて、きょろきょろと庵の中を見回した。そうして、飾られている妖刀夕凪に話しかけた。
「・・・とっと、山、でちゃだめ?」
『・・・駄目に決まってんだろ。おめーは山神だ』
山神は強力な神通力を持つが、それはあくまでも山の中での話。すずが今まで一番山から離れたのは、如月寺くらいの距離でしかない。山から離れてゆく毎に力は弱まり、あまりにも離れてしまえば体力をがりがりと削られてゆく。そうして幽霊の様に実体のない霊体にまでなってしまい、運が悪ければ地縛霊の様に動けなくなり、祟り神にもなってしまう恐れがある。
「山の下の、あっちの、近くの方からヒコちゃんの声がしたの。きっとなにか痛いことがあったのよ」
夕凪は姿を現す事無く、低く諭した。
『ここで滅ぶ様ならそれが運命だ。五百年も生きたんだ、受け入れるしかねえ』
でも、・・・ヒコはお守りを持って居る筈。すずに出来る事は、山を離れても力を行使できる唯一の方法・・・お守りを通して、祈ることしかできない。
祈った。ただひたすらに。胸の前でちいさな両手を合わせ、どうか届きますように、と。
ウルの軍靴がかつん、かつんとタイル床に響く。そして動かず立って居るままのエミリオに近づき、徐に十字架を振り上げると、
横薙ぎに、銀色の骨格がむき出しになった横っ面を殴り飛ばした。がきん、がしゃん、と大きな音が空間を尚静かなものとする。まだ止めは刺せていないと判断して、横たわったエミリオの頭蓋に、もう一度十字架を叩きつけた。先刻とは違った、どこかで何かが折れた様な音が、場の空気に伝搬していった。ごろり、と、エミリオの左目が、頭蓋からこぼれでた。
ふと、ミーシャの方を見る。これ以上戦闘を続けさせるのは無理だと判断したのか、傷の深いガブリエイラを広間の隅に運んでいる。壁際まで来てガブリエイラの身を下ろし、駆け寄ってきたラファエロに直接治癒を頼むと、ラファエロはこくりと頷き、ガブリエイラの満身創痍の身体に両手を浅く翳す。
「鳩尾をやられた際に内臓にダメージを受けたみたいです。手の傷もあまり良いとは言えません。時間がかかります」
冷静なラファエロの診断に、どこか聞いているのか聞いていないのか、ああ、と軽く言った。そして離れた先に倒れたままのマティーナと・・・ヒコに視線を移し、奥歯をギリリと噛みしめると、
「お、おい、ミーシャ?」
その不穏な貌にやばい物を感じたのか、ウルがミーシャの肩に手をやる。それを温厚な彼らしくない、乱暴な手つきで撥ね除けた。ウルはぞっとした。
キレている。ミーシャが。
『・・・この糞餓鬼』
思わず母国語で呟き、つかつかとヒコに歩み寄ると、意識のないヒコの顔面に、思い切り振りかぶった軍靴の爪先を叩きつけていた!
ヒコの軽い身が、人形の様に、蹴られた方向へと吹っ飛ぶ。
『おいミーシャ落ち着け、殺すのは秘宝を取ってからだろ!』
『うるさい!』
今度は堅い踵で何度も、何度もヒコの横っ面を蹴ったくる。ぜえぜえと自分の息が上がっているのにも気付かない。ただひたすらに、激情の赴くまま、ヒコに激怒の籠もった蹴りを入れる。
「若、若!しっかりして!」
デュファイの必死の呼びかけが、尚のことミーシャの逆鱗に触れたらしく、柔く薊丸を握っていたその手をも蹴飛ばした。からんからん、と乾いた音を立て、薊丸が床を跳ね、滑って遠くへと行ってしまった。主から一定以上の距離がつくと、単独で或る程度行動できるセルジュは兎も角、デュファイはその能力を発揮できなくなってしまう。
『馬鹿!秘宝を壊すなよ!』
『ガブリエイラがやられたんだぞ!あれだけ!!俺には部下の仇を取る義務がある!!』
ばしぃん、と高い音を立て、ウルの右手が叫ぶミーシャの頬を引っぱたいた。
『おめーが今やってる事はただのオーバーキルだ!隊長だろおめーは!冷静に判断しろ!
おめーが狼狽えてどうする!』
それを遠く、ガブリエイラの横につき、手から緑色の光を現して彼女の鳩尾にかざしているラファエロは、いざという時の「プランB」を発動するかどうか考えていた。
ミーシャは優秀なエクソシストだ。だが余りにも優しすぎる。それが老師は気にくわない。故にラファエロには、ミーシャがこの様な事態に遭遇し、その優しさ故に我を忘れて秘宝を壊す様な事があった場合・・・、
ミーシャを消して、自分が秘宝を持って帰る、というミッションが与えられている。
もし秘宝を持って帰れない・・・即ち、自分が殺られてしまった場合、第十三小隊が動く手はずになっている。第十三小隊は、ミーシャを含む三人には討てない。実力がどうとかいう話ではない。「精神的に勝てない」。そう老師は考えている。
発動するか?殺れるか?・・・否、無理だろう。ガブリエイラを殺るのは楽な事として、その事件を目の当たりにして狼狽えている隙にミーシャは殺れなくもない。しかし残ったウルが、ラファエロが第三発目を撃つ前に彼の頭を先刻のエミリオの様に粉々に砕いてしまうに違いない。
ここはウルに宥めてもらうより他なさそうだ。そう判断し、ガブリエイラの治癒に集中しようと、横たわる彼女に翳している手に目を落とした、瞬間。
まるで空気が壁になってぶつかって来た様な、衝撃波と言う物だろうか、凄まじい、熱を伴わない爆風をラファエロは感じ、驚き思わず両腕で頭を抑えた。ミーシャとウルの声が、辺り一面を奔った空気の壁に混じり、そしてふたりの身がヒコを中心にして吹っ飛んだ。同時にぱらぱらと、天井にへばりついていた埃や塵などが降ってきた。
「な、何だ!?」
ウルが思わず声を挙げた。今の衝撃波、明らかにヒコから発生した。見ればヒコの白い肌に幾つも付けられていた裂傷や血糊の痕が、うっすらと消えてゆく。信じられない現象に、一瞬呆けていたものの、素早くミーシャは正気を取り戻し、背後にアーレフを召喚して身構えた。
その時、マティーナが目を覚ました。自分と同じ様に横たわっているヒコの「奇跡」の正体をいち早く見抜いたのも、彼であった。山神だ。山神がヒコの危機を察知して、お守りを媒介として神通力を発生させた。マティーナの肩の痛みも、まるでヒコの傷が癒えていくのと同じ様にぼんやりと薄まってゆく。巧く動かない首をエミリオの倒れた方向へと向けた。自分の視界はどこか滲んでいて、物の輪郭がうまく捉えられないが、エミリオが家に帰って暫く修理に専念しないと動けない程故障してしまっているのを目視して、小さく舌打ちした。再びヒコに視線を移し、その奇跡に感嘆の念を覚えた。
ヒコはゆらりと立ち上がった。
「坊ちゃま、無理はなさらず!」
「やかましい、分かっておるのだ・・・ったく、あの小娘が・・・最初っからこんな力があるのならば言え、というものなのだ・・・」
おぼつかない手で海嘯の柄を握りしめると、さらりと、ゆっくりと、鞘から抜いて、・・・構えた。
第七小隊もうかうかしてはいられない。今のヒコは先刻ほどの素早さ、力はないものの、魔物としては充分強い部類に入るまでに回復している。
「同時にいくぞ、ウル!」
「分かってらァ、馬鹿野郎!」
ミーシャとウル、同じタイミングでヒコへと駆けていた。しかし一足先にリーチに踏み込んだウルが十字架をスイングさせようとした瞬間、ヒコの身がすっと視界から消えた。上。跳ねた。気付くまでの時間が足りなかった。ヒコはウルの貌にセルジュの羽を生やしたままの右手を被せ、ぐいと顎を引っ張ると、ミーシャやガブリエイラにやった様に、鍛えられた太い首の頸動脈に勢いよく2本の尖った犬歯を突き立て、一気に咬みちぎった!ぶしゅう、と音を立て、激痛に血の気を無くしたウルの喉から紅い鮮血が溢れ出す。瞬間的な大量の出血に急性の貧血を起こし、ウルの身が音を立ててタイルの床に落ちた。
だがヒコは立ち止まらなかった。慌ててリボルバーのシリンダーを攻撃用銃弾に合わせているラファエロに向かって、セルジュの羽で一気に間合いを詰めると、
「貴様は貴様自身の傷は癒やせるのか?」
血に塗れた唇に嬌笑を浮かべてそう呟いた頃には、蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなったラファエロの眼前五センチにまで近づいていた。
「なっ・・・」
「甘いな、若造」
噛みつかれる、と思い、肩を竦めて首をガードしようと、詰め襟に手をやろうとしたその一瞬前に、ヒコの小さな、しかし鋭い五爪が、ラファエロの喉笛に突き立てられ、めり込んだ。
「げほっ!」
ラファエロの喉から血の毛束が噴き出し、ヒコの白い頬を汚した。
「貴様の血なんぞ吸う価値もないのだ」
鈎ぎ斬る様に爪を滑らせ、喉を一文字にざっくりと切り裂いた。四肢に力を無くしがっくりと項垂れたラファエロの血がべっとりとへばりついた右手をぺろと舐め、次の標的・・・即ちミーシャの方向へと振り向こうとした、刹那。
激怒極まり帰って静謐の表情に貌を覆って、まるでヒコがセルジュを浮かす様を真似る様に、アーレフに片腕で抱きかかえられ、ロンギヌスを真っ直ぐに構えてこちらに突撃してくるミーシャの姿が視界に捩り込んできた。危ない、と思う間もなかった。
気付けばヒコの左胸に、ロンギヌスが深く刺さっていた。
「消えろおおオオオオオ!!」
ミーシャの怒号が耳に響く。しかし。
ふたりの人間の血を啜った満月の下の魔物の王の力を、ミーシャは見誤っていた。
ヒコは一瞬顔を苦痛に歪めたが、それも詮無きことと言わんばかりに左手の海嘯を、ミーシャの鳩尾に突き刺していた。
くんくん、と鼻をひくめかしたコロは何かを感じ取ったのか、
「お、おいコロ!」
止める司を振り切る様に、人間に変身して鎖を解くと、再び狼の姿に変化し、
「乗れ、司!大丈夫だ、首輪に掴まってろ!」
物凄い勢いで叫ばれ、躊躇しながら大きなコロの背中に乗って黒革の首輪に掴まると、まるで馬か熊か何かに乗った様な格好で司を乗せたコロが駆けだした。人狼の全速力を初めて体感した司は、息を押し殺して、ただただ誰かに見られたらどうしようとか訳のわからない事を考えながら由川の住宅街から霧崎紡績工場跡地へと進んだ。初めてヒコに掴まって空を飛んだ時の事を思い出していた。
声がしたので何だろうと思い、縁側の部屋を覗き込んだ母は、もぬけの殻となっている縁側と犬小屋の光景に、あらまぁ、と呟いて、コロの取れた鎖を手にとって困った表情を浮かべた。
由川から霧崎まで、そう遠くなく、また人混みもないのが有り難く、コロはスピードを緩める事無く駆けてゆく。普通に自転車に乗って走るよりずっと短い時間で、あっという間に工場跡地についた司は、敷地内に踏み込んだだけで、その異様な空気を察知した。コロも敵がまだいると思っての事なのか、人間型に変身し、司と一緒に煉瓦造りの工場の中へと踏み込んだ。
血なまぐさかった。暗闇に馴れない五感に飛び込んできた最初の感覚は、ただ、それだけだった。その後にじわじわと宵闇に目が馴れてゆき、まず目視できたのは、車椅子から落ちてタイルの床に倒れていたマティーナの姿だった。入り口から僅かに差し込む街の光で、タイルが血に濡れているのだとわかって、慌てて駆け寄る。
「・・・ああ、来たんだ」
「まっ、マティーナさん怪我してるじゃないですか!」
「これ?・・・ああ、ついでと言っちゃ何だけどさ・・・僕の車椅子の鞄に白い液体の小瓶があるから、ふたつ取ってくんない?」
命ぜられて司が車椅子に目をやると、既にコロが鞄の中をまさぐっていた。肉球に鋭い爪の両手で、大事そうに器用に二つ、小さな小瓶を持っていた。
司の手からマティーナに渡すと、マティーナは震える手で小瓶の栓を開け、くいと中身を呷った。
「・・・心配するこたないよ、Un analgésique・・・ただの痛み止めだ。
んでもってもう一個は・・・向こうの、」
マティーナの血に汚れたグローブの指先には・・・血塗れの破れかぶれの軍服を身に纏い、ぼうっと立っているヒコの姿があった。司は、ヒコの周囲に広がる惨状に、頭がシーンと痺れる様な感覚を覚えた。
まずヒコのすぐ足下に、ミーシャがうつぶせになって倒れている。そうして少し離れた所・・・丁度ヒコとマティーナの間辺りに、先日声を掛けてきたチャラい外国人が、頸動脈を噛まれて喉を真っ赤に染めて寝転んでいる。それから、ヒコの立って居る向こうの壁際には、もうひとりの眼鏡の兵士がひとり、喉を五本の掻き傷で塗らして壁に寄りかかる様にへたれていて、その隣には比較的大きな外傷は見当たらないが、意識をなくして横たわるガブリエイラの姿。
第七小隊、全滅。
そうして暫く時が止まった後、俯いてヒコの顔が、すうと司を見た。悲しそうな目だった。
「・・・これだ」
「え?」
「これが、ととさまのやってきた事なのだ」
すうと、ヒコの血塗れの頬に、透明な雫がひとつ、滑り落ちた。
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