第二話:「ちゃーち」 後編


 そうして夜半、新月、決闘の場所はオーピック邸中庭。

 エミリオを伴ったマティーナが、互いの武器を構えて向かい合うヒコとミーシャの間から少し離れたところに居る。車椅子の肘掛けに凭れて、唯々無言で前を見ている。その横に立って居た司は、今まで司の人生の中で感じた事のない、恐ろしく張り詰めた、堅い空気に飲まれて立ち竦んでいた。

 ヒコは初めて見るその男の顔をじっと大きく紅い瞳で凝視し、不意にギリリ、と奥歯を噛んだ。『ととさま』の事を考えていた。

 自分はあの時確実に、『ととさま』の足を引っ張った。自分さえ居なければ、自分さえあんな事にならなければ、『ととさま』が『チャーチ』如きにやられる筈はなかったのだ。ヒコはそう信じている。

 「貴様、名は」

 ヒコはミーシャの名を知らなかった。チャーチの手のものに名前など要らぬと思ったが、聴くのが礼儀だろうと思い直し、問うた。

 「ミーシャ。本名じゃない」

 正直だと思った。目の前で古ぼけた槍を構え、まるで使い魔の様な天使を連れ添ったその青年の顔は、あの日『ととさま』を追い詰めた西洋人の顔とよく似ていた。ヒコにとっては、異人種がモンゴリアンを見ると皆同じ顔に見えるのと同じ様に、白系人種の顔などどれも皆似たような顔に見える。

 ヒコは薊丸を構え直し、もう一度ミーシャの青い目を睨んだ。そこには僅かの緊張が見て取れた。相手も恐れを感じていないわけではない。ミーシャというこの男が、マティーナが事前に言っていた通り、悪霊を幾多も打ち倒して来た凄腕のエクソシストだとしても、『本物のヴァンパイア』を相手にするのは初めてらしい。

 またマティーナはこうも言って居た。

 西洋にも、ヴァンパイアはそうそう居ない。とみに、現代社会の中ではヴァンパイアと出会う事もない。

 東洋のばんぱいや、ヒコ。聞けば誰もがその存在を疑う代物が、今、目の前に居る。およそ魔物とは見えぬ幼い容貌を以て、今、持ち主の意思に呼応して日本刀へとその姿を変えた『薊』を構えて、目の前に居る。ミーシャはロンギヌスを持つ両手に僅かの汗を滲ませた。表情は変わらず、静謐を装いながら。

 ミーシャは傍らのアーレフに、大剣で何時でもヴァンパイアに斬りかかれる様に、ヘブライ語で命じた。ばさとひとつ大きく背中の羽をはためかせると、アーレフは大剣を抜いてひたと構えた。

 「ひとつ聞きたい」

 中庭に響いたミーシャの声に、ヒコは目を瞬かせた。この後に及んで何を聞くというのか。

 「何なのだ」

 ミーシャの瞳は、どこか憐憫の情さえ浮かべて居た。そうして、言った。

 「何故この決闘に応じたんだ?」

 ヒコは黙して語らぬ。ミーシャの声のみが、中庭に反響する。

 「チャーチの調べによれば、お前はずっと何処かを放浪しながら生きてきた。だから明治の文明開化の時代もチャーチに見つからずやってこれた。自分の住処だった上城家から遠のき、日本中を放浪して、そうしていよいよ戦争に負けて本格的にチャーチが入り込んでくるのが分かったお前は、再び上城家へと帰ってきて眠りについた。

 チャーチ・・・つまりは俺から決闘を申し込まれても、上城家を飛び出してまた逃げればいいだけの話じゃないか。何故?

 何故素直に出てきた?理由があるのか?」

 ヒコは構えを解こうとはしなかった。




 「新月の日の午後9時。オーピック邸の中庭。それが相手の出してきた決闘場所だ」

 あの日。司と共に、マティーナからチャーチという単語を聞いた後、司だけ押し出す様に家に帰し、バタンと玄関を後ろ手で閉めたヒコを見つめて、マティーナはそう伝えた。

 「応じるも応じないも君次第だ。相手は何も強制している訳じゃない。

 ただ、チャーチは上城家が君の居場所だと知っている」

 マティーナは視線を動かさず、じっとヒコの横顔を見て、言った。

 「・・・矢張りそこまで調べ上げておったか」

 「逃げてもいいと思うよ」

 何処かひどくつまらなさそうに、背伸びしながらマティーナは呟いた。

 「僕みたいに自分自身も蘇生術なんて下法に身を窶しているなら兎も角、君が心配している上城家は人狼を飼ってるくらいの、ただの一家庭だ。チャーチもまさか君が逃げたから上城家を人質にするなんて事はしないさ」

 「・・・」

 「その辺の割り切りはチャーチもちゃんとやるさ。ま、僕も面倒は嫌いだからね。とりあえずは仲介人として君に伝える事は伝えたよ。後はなんなりとやるがいいさ」

 そうしてマティーナは、食堂のある方向とは反対側、大きなペチカのある応接間へと車椅子の車輪を回した。冬の大理石の間は冷える。

 ヒコは動かなかった。しばらくじっと何かを考えていたが、マティーナとエミリオの姿が応接間へと消えたのと同時に、神妙な顔つきをして、自分もオーピック邸を後にした。




 ミーシャは戸惑っていた。見た目は十二、三の子供の様だと老師から散々聞かされていたのは事実だ。見た目に惑わされるな、相手は凶悪な生き血を啜るヴァンパイアだ、見た目が子供だからといって手加減は無用、経過報告の度にずっとそう言い聞かされていたし、自分でも心の中で言い聞かせていた筈だ。

 だが余りにも幼い。自分が十二、三歳だった頃の事を思い出しそうになる。いや。あれは思い出してはいけない。

 前に進むと決めたのだ。

 「・・・怯んでおるのか、チャーチの外道が!」

 軽いヒコの身が、セルジュの羽の推進力を受けてあっという間にミーシャとの間合いを詰めてきた。刀は槍よりリーチは短い。しかし一度刀の間合いに入ってしまえば、小回りの利かない槍より刀の方が有利になる。ミーシャは頭をひとつ振って、ヒコの斬撃を横飛びで交わし、槍の有利なリーチへと戦闘を持っていこうとする。矢張り手加減は無用だ。まずはあの『蝙蝠の指輪』からどうにかせねばなるまい。

 西洋に伝わる秘宝、『蝙蝠の指輪』と『薊』。恐らくこの小さなヴァンパイアにはその価値は分かるまい。単に『親』が使っていた道具としてしか認識していないだろう。本来ならば大人三人は掴んで飛べる程巨大な翼をもつ筈の『蝙蝠の指輪』に、本来ならばレイピアやサーベルの形状を以て変化する筈の、アルラウネの妖剣『薊』。

 間違いなく蝙蝠と妖樹は、この小さな魔物に呼応し、付き従っている。

 伝説の秘宝が、ヴァンパイアの手に。この小さなヴァンパイアの『親』から、『子』、即ち目の前で刀を振るうヒコへと。

 チャーチがそれを黙って見ていられる訳がない。

 「・・・ヒコってあんなに強かったんだ」

 呟く様に、独り言の様に、魔物とエクソシストの死合いを見ていた司が、ぽつりと口にした。それを聞いているのかいないのか、マティーナは暫し黙っていたが、ひとつ、深い二重の瞼をぱちと瞬かせ、

 「チャーチも必死なのさ。秘宝を取られたままじゃ面目丸つぶれだからね」

 「ひ・・・『秘宝』?」

 「セルジュとデュファイ。西洋のそっち方面の人間にとっちゃ喉から手が出るほど欲しいお宝だ」

 こないだ一緒にお鍋を囲んでいた時の事を司は思い出す。年末のせっかくのお鍋だから特別に食卓に参加していいとヒコに言われた時のふたりの困惑した、しかし嬉しそうな顔、人外の手で器用に箸を繰って豆腐や白菜や鱈に舌鼓を打っていた時の幸せそうな顔。

 「・・・なんか嫌です、そういう言い方。ふたりはものじゃない」

 「じゃあこう言えばいいかい?ペット」

 司はキッとマティーナの横顔を睨んだ。マティーナの顔と言えば、呆れる程平然としていた。

 「簡単さ。あれはdémonだからね」

 デーモン。魔物。あやかし。一神教世界で生まれ育つ西洋人との思考の溝を司は垣間見た気がした。

 「そもそも『秘宝』を、さも自分と同等かの様に扱うヒコの方がおかしいのさ。もっと使い魔ってのはドライなもんだよ。上下関係きちっとさせとかないと後で噛まれるのは自分だから。

 ま、それが僕等西洋文化人の『Communication』ってやつさね」

 前のめりになっていた背筋を正して、相変わらず司を見ず、目の前で繰り広げられる死闘をまっすぐに見つめながら、マティーナは言った。

 マティーナの視線の先にはロンギヌスの穂先があった。小回りの利く刀を信じられない程器用に捌いて、ミーシャはその合間合間に重い一撃をヒコに食らわせる。そのうちの一撃が、ヒコの脇腹に入って、思わずヒコはげほと痛々しい咳を吐いた。

 「くっ・・・!」

 しかしミーシャの一撃とほぼ同時に繰り出されていた薊丸の切っ先が、ミーシャの右肩口を捕らえ、切り裂いた。ぴしん、と音を立て、真っ赤な鮮血の飛沫が宙を飛んだ。

 「デュファイ!行け!」

 その瞬間、ミーシャの血を啜った薊丸の束から、二本の、ひとの指ほどの太さの、びっしりと棘に覆われた薔薇の蔦が萌え出て、二メートルほど後退ったミーシャに螺旋を描きながら突撃してきた。かと思うと、二本の蔦はミーシャの両手に片方ずつ巻き付き、身動ぎを止めようとする。ミーシャが必死に藻掻いて蔦を振り解こうとするも、蔦に生えた幾重もの棘がミーシャの着ているチャーチの軍服に突き刺さっていてうまく解けない。

 「アーレフ!」

 主人の命を受けたアーレフが、まるで言われる前から分かっていた様な素早さで、二本の蔦に大剣を振り下ろした。がきぃん、とおよそ植物とぶつかった時とは思えない鈍い音が、中庭に響く。

 斬れなかった。蔦は恐ろしく頑丈で、アーレフはまるで束ねた鉄線を斬る時の様な鈍い痛みを両手に感じた。そこでアーレフは標的を変えた。ミーシャもそれを了承したかの様に、額に薄く汗を浮かべた顔をこくりと頷かせた。

 標的、ヒコ本体。アーレフはビョウと翼をはためかすと、大剣を構え一気にヒコとの間合いを詰めてきた!ずさっ、と音がして、はらりとヒコの黒髪が数本風に舞った。首を狙った突きの一撃を、寸での所でかわせたのだ。アーレフの高速の撃がかわされるなど、ミーシャはここ数年、見たことが無かった。ミーシャは軽い目眩を覚えた。しかし、頭をフルと振って、湧き上がってきた「悲観」を打ち砕こうとした。


 いや、だめだ。これ位で悲観しちゃ駄目だ。

 俺はひとりでも歩ける。アーレフに頼り切るわけにはいかない。

 あの日、目を開き声を出して、自分に言い聞かせたじゃないか。


 そうこうしている内にも、ミーシャの両腕を絡め取ったデュファイの蔦はぎりぎりと締め付けを増し、棘が皮膚に食い込んだのか、僅かに黒い軍服を赤黒く滲ませている。

 と、突然ミーシャの両腕がぐいとヒコの方に引き込まれた。刀の間合いに詰める心算だ。やばいと思うが早く、反射的にミーシャの右足がヒコの顎を強く蹴り上げた。ヒコの身が大きく背後に反り、蔦の力が弱まる。ミーシャがぐいと腕ごと蔦を引っ張ると、がくんとヒコの上半身は前のめりになった。どうやら軽い脳震盪を起こしたらしく、揺れる身に力が無い。

 「若!」

 デュファイが叫ぶ。蔦を出している状態では、薊丸は本来の切れ味を充分に出せないのだ。セルジュが一瞬指輪の中から羽を出そうとしたが、この状態では宙に浮いた所であの天使に狙い撃ちされるだけだ。セルジュが引っ張って飛ぶ形である以上、己の翼で飛ぶあの天使には中空での姿勢制御は敵わない。

 「坊ちゃま!外に出ますぞ!!」

 あの天使さえどうにかすれば。セルジュは思い切って指輪から飛び出し、天使に負けぬ勢いで、その大きな翼を天使に振りかぶった。天使は手甲でガードを固めたが、がつんとセルジュの鋼鉄の爪が手甲にぶち当たった瞬間、ピシと軽い音を鳴らして天使の手甲に罅が入った。

 ヒコは少々の混濁を残しているものの、大方意識は戻ったらしく、セルジュが天使の相手をしているのを目の当たりにして方針を転換、デュファイの蔦がするするとミーシャの腕から解かれ、バネが戻る様に束へと巻き付き、薊丸の中に吸い込まれていった。

 セルジュがあの天使を引きつけてくれているお陰で、ヒコはミーシャとの一騎打ちに持ち込める。ぼやけた頭をこつん、こつんと握り拳で二回叩いて、ヒコは薊丸を構え直し、ミーシャと対峙した。

 ミーシャは自分の喉が緊張でからからになっているのに気付いた。迷うな。相手は五百年生きる化け物だ。子供とは違う。いくらそう言い聞かせても、目の前にいる魔物のあまりの幼さに、戸惑いが隠せない。




 ヴァンパイアほどの大物には滅多に出会わないが、チャーチから命ぜられる悪魔祓いの仕事ならこれまで何度もやってきた。魔物に取り憑かれた人間は老若男女数知れず、中にはヒコほどの小さな子供も居た。魔物に憑かれた人間は見るに忍びない程悲惨だが、特にミーシャは子供の除霊に恐ろしい程の痛々しさと同情心を以て仕事に取りかかる。己の意思とは関係なく動く身体、しかしそれを嫌がりぽろぽろ涙を流しながら除霊を懇願する、僅かに垣間見える子供の本来の意思。

 幸せそうな子供を見ればどこかで呑気なものだと自嘲にも似た憫笑を心の中で描き、悲しそうな子供を見れば自分の幼い頃とダブって胸の内がきりきりと締め付けられる。気付けば、ミーシャはいつの間にか子供の姿を見るのを恐れる様になっていた。


 それが今回、子供を標的として討たねばならないなんて!




 「何故だ・・・」

 ミーシャは俯いて、上目遣いでじろりとヒコを見ていた。その目はどこか陰鬱だった。

 「何がなのだ」

 「何故その歳で『代替え』などという下法に身を窶した!」

 顔を上げて叫んだ。その空色の瞳には、涙さえ溜まっていた。何故こんな子供がヴァンパイアに。自分の意思でヴァンパイアになったのか、それとも先代のヴァンパイアからそそのかされたか。いや、それはないだろう。ヴァンパイアの掟として、『代替え』は子供に対して行ってはならない。という事は、自分の意思で。そうとしか考えられなかった。

 ヒコは相手が何を考えているのか察して、ギリリと奥歯を噛みしめた。『ととさま』のやった事を侮辱されている様でたまらなくなった。人間は、特にチャーチはこれだから嫌いだ。こっちは平和に暮らしたいだけなのに日常を引っかき回しにやってきて、何もかもぐちゃぐちゃにしてしまう。『ととさま』だって、好きで掟を破った訳ではない。あれはヒコの所為なのだ。ヒコの所為で、『ととさま』は死んだ。許せなかった。好き勝手な人間の尺度で『ととさま』のヒコに対して注いでくれた愛情を計ろうとする人間がヒコは一番嫌いだ。

 「黙れチャーチの外道が!!

 『ととさま』を馬鹿にするのもいい加減にしろ!ととさまには何も非はない!!ヒコがばんぱいやになったのはヒコの責任なのだ!!貴様の様な人間風情にぐだぐだ言われる筋合いはない!」

 セルジュがアーレフを引きつけている内に勝負をつける。ヒコはかつんと軍靴を鳴らし、ミーシャの懐へと一気に飛び込んだ!ガキィン、と薊丸とロンギヌスがぶつかる音が中庭に反響する。


 「ま、マティーナさん・・・さっきあの人が言ってた『代替え』って何すか?」

 司はやや遠慮気味に隣のマティーナに問うた。マティーナは司を見ないまま、言い放った。

 「君、血を吸われたよね。でもヴァンパイアにはならなかった。そうだろ?」

 「はい・・・」

 ふたりの死合いを見つめるにも飽きたのか、コトンと視線を地面に落とし、マティーナは淡々と語る。

 「ヴァンパイアになるには儀式が必要だ。必要なのはヴァンパイア自身の血だ。地面にその血で魔方陣を描ける位の大量のね。

 『代替え』の儀式の内容は詳しくは僕にもわからない。ヴァンパイア達だけの間に伝わる秘術だ。ただ、はっきりしてるのは・・・、

 『代替え』を行った側のヴァンパイアは、死ぬって事だけだね」

 死ぬ。司の頭の中に、その単語が、まるで大量の木の葉が風に乗り渦を巻く様に吹き荒れた。

 「じゃ、じゃあ、ヒコの『ととさま』は・・・」

 「無責任な事は言えないけどさ。

 死んでるね。五百有余年前に」

 そうか。『ととさま』の仇、とはそういう事なのか。司の中で、朧気ながらもパズルのピースが組み合わさる様に固まってきた。恐らくヒコの『ととさま』は、日本に潜り込んだチャーチを相手に戦って、瀕死の重傷を負った。そうして自分がもう助からない事を悟って、どういう理由があったか知らないが、幼いヒコにヴァンパイアの血を継がせる事にした。

 しかし疑問は残る。何故『ととさま』は掟を破ってまでヒコをヴァンパイアにしたのか。そうして、ヒコは何故、「自分の所為で『ととさま』は死んだ」と思っているのか。わからない事はたくさんある。

 只、司が今分かっているのは、ヒコも、ミーシャも、この対決、望んでやっている訳ではない、という事だ。


 ロンギヌスがヒコの右肩を貫く。うめき声を漏らしたヒコは、負けじと左手に構えた薊丸でミーシャの胸に深い切り傷を刻み込んだ。互いに一歩引き、ダメージの深さとこれからの出方を窺った。ロンギヌスには破魔の効果があるのか、ただ貫かれただけではない、じゅうじゅうと焼ける様な痛みがヒコの右肩から全身へと伝搬する。一方ミーシャの方も、破れた軍服の隙間から見える真っ赤な疵が、どこか毒々しい紫色に染まっているのが見て取れる。悪霊や騒霊相手には破魔となる薊丸は、人間にとっては呪詛の籠もった妖剣である。お互い、息は荒い。

 ミーシャはちらとアーレフの方を見た。アーレフも苦戦している様だ。至高の秘宝の力は凄まじく、ここ百数十年で『製造』されたアーレフとは戦闘の場数の踏み方が違う。霊力を持つ蝙蝠の翼は、アーレフの甲冑を容赦なく叩き割ろうとする。アーレフも負けじと大剣を振るうが、うまく躱されて蝙蝠の皮膜をびりりと破く位しかできないでいる。

 矢張り新月を狙ったのは拙かったか。ミーシャは心中舌打ちした。

 が、チャンスが訪れた。アーレフの繰り出した突きの一撃が、セルジュの腹を一気に串刺しにした!

 「セルジュ!」

 ヒコの一瞬の隙を、ミーシャは見逃さなかった。どぼとセルジュの疵から溢れ出た鮮血を目にしたヒコは、平時の落ち着きを無くし、まるで親を傷つけられたかの様な泣きそうな顔で、その場へ崩れ落ちたセルジュへと駆け寄り、指輪を光らせ傷ついたセルジュを指輪の中へと戻した。それをチャンスととらえ、ミーシャは一気にロンギヌスのリーチ内へとヒコを追いかけて、がら空きになった背中を、

 「若!後ろ!!」

 デュファイの必死の警告も虚しく、閃光の様な光の軌跡を曳いた、霊力を一杯にため込んだ渾身の一撃、ロンギヌスが、ヒコの背中から胸部へと貫いていた。ヒコの細い身体がびくんとひとつ痙攣を起こした。

 ミーシャはロンギヌスを、かつてエミリオを相手に戦った時の様にふわりと霧散させた。支えるものを無くしたヒコの身が、ばたんと地面へと倒れ込む。

 「ヒコーっ!!」

 思わず飛び出そうとする司を、マティーナの命で動いたエミリオが羽交い締めにして押さえる。死んだ様に動かないヒコを目の前にして錯乱した司は、手足をばたばたさせて藻掻くも、エミリオの力に敵う筈も無くただただ子供の様に駄々をこねている様にしか見えない。

 「馬鹿だね・・・これ決闘だよ?間に入るのはタブーだ」

 マティーナの冷静な声がまた癪に障るのか、司は目を見開いてマティーナを睨んだ。そうして視線をミーシャに移し、

 「ヒコが何したってんだよ!悪霊食ってるだけだろ!人間の血だって俺ので済ませてるんだッ!!誰にも迷惑かけてない!!」

 ミーシャは振り返り、初めて司の顔をまじまじと見た。

 「あんまり騒ぐと魔物と共謀した罪で粛正しますがどうしますか、君」

 「粛正だと!?やってみろよ!」

 それを見て居たマティーナが苦々しい顔をして、パチンと指を鳴らした。エミリオの握り拳が、暴れる司の後頭部へと振り下ろされて、ごつんと鈍い音が響いた後、司はだらりと四肢を垂らし、力を無くした。

 ミーシャは、ダメージが深いのか踞っているアーレフに駆け寄り、彼の甲冑の傷を確かめる様に触れた。

 「大丈夫か?アーレフ」

 「心配ない。流石に秘宝を相手にして疲れただけだ。ミーシャ、今のうちに秘宝を」

 徐にミーシャは倒れたままのヒコに視線を移し、ぽんと投げ出されたヒコの右手中指に嵌められた指輪に触れようとした。これと「薊」を持って帰れば、今回の任務は完了となる。

 が、その時。

 ヒコの身がぐわんと起き上がり、中腰の姿勢のまま前方へと跳ね、目にもとまらぬ早さでミーシャの背後に回ったかと思うと、

 死んだものと思って油断していた不意をつかれて狼狽しているミーシャの首筋に、思い切り噛みついた!じゅるじゅると気味の悪い音がする。ヒコの牙は、ミーシャの動脈を完璧に捕らえていた。出血が酷く、ヒコの口から鮮血が漏れ出て、軍服の襟を鮮血で汚す。ミーシャは動けない。どうやらヒコは、唾液に麻痺毒を含んでおいたらしい。

 ヒコの牙が、鮮血の毛束を噴いてミーシャの首から離れた。ばたんと音がして、膝をついていたミーシャの上半身が崩れ落ちた。麻痺毒は首から下の全身に回っているらしい。そうしてそれとは対照的にヒコは立ち上がり、倒れたままのミーシャを見下ろす。ミーシャの血で、胸の傷跡は完全にふさがっていた。

 「ミーシャとか言ったな。答えるのだ」

 「・・・っ、」

 ヒコの目は、戦闘中の冷徹な色から、まるで憐憫の情でも含んでいるかの様に光っていた。

 「貴様・・・なぜヒコに止めを差さなかった?」

 ミーシャの息は荒い。出血こそ段々と治まりを見せているものの、目の焦点があっていない。だが必死にヒコの顔を見上げようとしている。

 「答えろ」

 「・・・蝙蝠を傷つけられた時の・・・君の顔が、・・・」

 毒が回って声も出なくなったのか、出血が酷い所為か、そこまで言って、ミーシャはがくんと首の力を無くし、目を閉じた。


 蝙蝠を傷つけられた時の顔が、まるで昔の自分を見て居る様だったから。


 「マティーナ。こやつの手当を頼む」

 「Pourquoi?」

 マティーナが意外そうに目をぱちくりさせて素っ頓狂な声を上げた。まさか助けるつもりか?チャーチを?だがヒコは本気らしく、マティーナの顔と、エミリオに担がれてぐったりしている司とを交互に見比べて、こう言った。

 「だから仏蘭西語はやめろ。司に慈悲の欠片もない人殺しの魔物だと思われるのは御免なのだ」

 暫しうつむき考え込んでいたマティーナは、指をパチンと鳴らした。エミリオに、司をベッドで休ませる様命じたのだ。そうして自分はキィっと車椅子の車輪の音を中庭に響かせて、倒れ込んだままのミーシャの首筋に手を伸ばした。とくん、とくんと僅かな脈が看て取れた。どうやら命に別状はないらしい。

 「優しいね、えらく。無慈悲な位がヴァンパイアとしちゃ丁度良いのにさ」

 「貴様等西洋人と一緒にするな」




 司が目を覚ましたのは、エミリオに実験室の仮眠用ベッドへと移されてから数十分経った後だった。ヒコの事が気になって、司は起き上がり、靴を履いて、実験室を出た。居るかと思って、応接間の扉を遠慮がちにギィと開けて、室内をのぞき込んだ。マティーナがペチカの前で暖をとっていた。マティーナは司に気付き笑った。悪意の欠片は見られない。

 「あの・・・エミリオさんは?」

 「マクロを組んでミーシャの手当てをさせているよ。それよりどう、君もこっち来たら?開けっ放しじゃ暖気が逃げる」

 勧められて司は、ペチカのそばに、マティーナと並んで座った。

 「どうやらヒコは君の事を考えて、チャーチを殺すのを止めたらしいね」

 「お、俺・・・?」

 「君に人殺しだと思われたくないんだそうだ」


 ヒコは司を置いて家路へと歩いていた。『ととさま』の事を思い出し、ぽろぽろ溢れる涙を拭おうともせず。

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