第二話:「ちゃーち」 中編


 「あー!!!」

 あれから三が日が過ぎ、何時もの様に夜、戸の上霊園に出掛けようとしたヒコが玄関先で叫んだ。軍靴が片っぽまた無くなっている。犯人は既に分かっていた。司の靴を引っかけて、庭に走ると、

 「コロ!貴様またヒコの軍靴で遊んだな!!」

 小屋の中で丸まっていたコロが、びくりと肩振るわせて、しかしすぐに顎を地面に置いて、ふんと鼻で荒く溜息をつくと、吐き捨てる様に言った。

 「ぁんだよ、別にいいだろあんなくそボロいくっくのひとつやふたつ」

 「ええい、出せ!何処にやった!」

 「あります!あーりーまーすーよ!はい!」

 小屋の奥に仕舞っておいた軍靴を咥えてぽいとヒコに投げた。べしょ、とヒコの顔に軍靴が当たる。ヒコの肩が怒りでわなわなと震える。その時、ヒコの背後から母が、ドッグフードの満杯に入った餌入れを持ってやってきた。コロの顔色がぱあっと明るくなり、尻尾をぶんぶん振る。

 「はいコロちゃん、おすわり」

 すとん、と烈火の速さでおすわり。手を出されるまま、お手、おかわり、伏せ。それを母の背後で見て居たヒコの表情がますます激怒に染まってゆく。

 そもそもコロは母や父の言う事はちゃんと聞くし、司の言う事も辛うじて聞いている。ヒコの言う事だけは頑として聞かない。ハナから舐めきっている。

 「きっ・・・貴様ああああ!!!」

 「ぁんだよ。へこへこするから犬は嫌いなんだろ。へこへこしてないからいーじゃねーか」

 「うぐ・・・」

 ヒコはコロが餌をがっつく様子をニコニコ笑って見て居る母に叫んだ。

 「ママ上!コロの鎖くらいちゃんと繋いでおいてほしいのだ!」

 「あら。ちゃんと繋いでるわよ。でもコロちゃん、人間に変身して鎖解いちゃうんだもの」

 母はてんで問題にしていない。

 「でも叱るくらいは・・・」

 「あら。またヒコちゃんの靴にいたずらしたの?だめよ、コロちゃん」

 ぺしっ、とコロの頭を叩く。コロは大げさにきゃうんと叫んで、小屋の中へすごすごと帰ってしまった。餌入れは既にあらかた空になっていた。

 これだ。母や父の前だと、叱られると反省して落ち込んだ様子で小屋へ帰ってゆく。しかし両親の居ない所では好き放題やりっ放しである。今回の様にヒコの軍靴で遊ぶやら、干していたヒコの肌着をびりびりに破いてしまうやら、とことんヒコをなめくさっている。

 「コロちゃん、ヒコちゃんに遊んでほしいのよ。散歩も司に任せっきりじゃない。たまにはヒコちゃんも、コロちゃんの散歩に行ってみたら?」

 見当外れの着地点を母は提案する。誰もわかってくれないもどかしさに、ヒコは歯噛みした。




 そして次の日、母に言いつけられて、ヒコはコロの散歩に付き合う事になった。時は夕刻、そろそろ陽も落ちかけの路地を、・・・コロは走る。ヒコはぎゃああと奇妙な悲鳴を挙げながら、ずるずると犬ぞりの要領で引っ張られている。

 「こっ、コロ!貴様まさか司と散歩する時もこんな様子なのではあるまいな!」

 「んなわけねーだろ!おめー相手だから本気出してるに決まってんじゃねーか!」

 「んがーっ!とことんむかつく奴なのだッ!そこ、そこ曲がれ!」

 「やーだねー。オレまっすぐ行くんだもんねー」

 全く言う事を聞きやしない。気付けば、ヒコとコロは妙月山の入り口まで来ていた。

 「貴様・・・なんでここに来たのだ?」

 「知らね。ママのバナナケーキの匂い追ってたらここ来た」

 そういえば先日、正月は寝てばかり、移動する時はセルジュの羽、足を使ってない事に気付いて、ウォーキングの形で母の焼いたバナナケーキを持ってすずの住み家、妙月山まで歩いて来たのだった。

 「まぁいいのだ・・・寄っていくか」

 ヒコにはある思いつきがあった。コロを夕凪に会わせてびびらすのだ。夕凪の妖力の高さはこんな犬っころを制圧するには余りある。そしてそんな怖い奴と知り合いだと思わせ、いずれはヒコの言う事も聞かす。魔物の王とも称されるヴァンパイアとしてはあってはならないほど卑屈な手段だが、それを上回って有り余るほどヒコはコロの処遇にむかついている。ニヤとヒコは含み笑い、流石に走り通しで息が上がって歩き始

めたコロのリードを持って山を登っていった。

 出迎えたのは、囲炉裏で味噌汁を炊いていたすずであった。かぼちゃの甘いいい匂いが庵の中に漂っていた。突然のヒコの来訪にすずは笑って、そうして初めて見る大きな犬に目を見張って、

 「どうしたのヒコちゃん、そのわんこ!かわいい!」

 すずは無防備にコロに近付いて、目の前にしゃがむと、よしよしと優しくコロの頭を撫でてやった。噛まれでもしたら大変と慌ててヒコが間に入ろうとするが、

 「よーしよしよし、いいこなのねー」

 何が起こったのかよくわからなかった。コロは両親にも見せない柔い腹を丸出しにして、仰向けにごろごろ寝っ転がってきゅんきゅん言っている。それが異常な光景だと気付かない様で、すずはひたすらニコニコ笑ってコロの顎の下、柔い毛のところを一心不乱に撫でてやっている。

 「かわいいのねー。ヒコちゃんもわんこ飼うほど丸くなったのねー」

 「・・・」

 もうどうでもよくなった。人狼には嫌われる、それが自分の運命なのだ。そんな気がしてきた。が、ヒコはぶんと頭を振って気を取り直した。こいつを夕凪に会わせてびびらせなければ気が済まぬ。調子ぶっこいてる鼻っ柱をへし折ってやらねばならない。

 「夕凪は居るか」

 「ほえ?とっと?とっといるのよ」

 不思議そうな顔をして、すずはててと庵の中に戻ってゆき、常時の様に御神酒を妖刀の前に差し出した。座布団を敷いて、ちょこんと傍らに座る。

 黒い靄がしゅうと現れ、先日の様に夕凪の姿が露わになった。その顔は険しかったが、どうせいつもの事だ。くいと酒を煽る夕凪に、さぞ鼻の利くコロはびびっているだろう。ニヤニヤしながら庵の玄関先で、コロを見下ろした。と。

 「ふあ~あ・・・」

 (こ・・・こいつー!!!)

 鼻が利かないのか、夕凪の事など何とも思っていないのか、コロは呑気に欠伸して伏せの体勢を取り、伸びてしまった。何故自分が呼び出されたのか理解できない夕凪は、その眉間により深い皺を寄せ、

 「おい・・・何の心算だ、ヒコ。俺に何か用があるんじゃねえのか」

 「いっ、いや、それは・・・」

 只でさえ大晦日、すずを待たせて怒らせた相手である。ヒコはあわあわと両手を振り、コロのリードを引っ張った。

 「じっ、人狼と知り合ったから、珍しいかと思って見せにきたのだ!ほれ、挨拶しろコロ!」

 「あ~あ・・・オレ眠てえよ。第一誰に挨拶しろってんだよ・・・んなもん何処に居んだ?」

 何とコロには夕凪が見えてないらしい。妖力がある、イコール誰にでも見える訳ではないと言う事をヒコはすっかり失念していた。これはまずい。用もなしに呼び出された夕凪の額に、コロの失礼な態度も相まってひくひくと青筋が浮かんでいる。これにはすずも慌てて、

 「と、とっと・・・おこっちゃいやなのよー・・・」

 「・・・煩え、黙ってろすず・・・ヒコ、てめー良い度胸してるじゃねえか」

 やおら夕凪は立ち上がり、ゆらと妖刀を手に取ると、シャキンと音を立てて鞘から抜いて、こちらへにじり寄ってきた。

 (や、やられるー!!)

 ヒコは冷や汗だらだら、必死でリードを引っ張るも、コロはすっかり疲れて、尚かつすずに撫でくりされてリラックスしているらしく、すうすうと寝息を立て始めた。

 「あ、あわわ、あわ、ちがうのだ、これは、これは・・・」

 ぎゃああああ、と、ヒコの悲鳴が妙月山の麓に響いた。




 その頃、街の外れにある教会では、ミーシャが電話の応対をしていた。三日に一度取り決められた、上司への報告である。喋っている言語はヘブライ語で、もし誰かに聞かれていたとしても容易に内容を把握されない為の配慮であった。

 『はい、ヴァンパイアは予想通り「蝙蝠の指輪」と「薊」を所有している様です。ですがアーレフとロンギヌスがあれば互角まで渡り合えると考えております・・・はい』

 ボイスチェンジャーの向こうの上司は、かなり苛立っている様子であった。元よりミーシャはこの上司、・・・ミーシャとその同僚達は「老師」と呼んでいるが、彼等は老師の顔も本当の声も知らない。こうやって電話やホールの緞帳の向こうからボイスチェンジャーを使われて語りかけられる事はあっても、それ以上の接触はなかったし許されなかった。

 だがそれに異論を差し挟むつもりはなかった。『チャーチ』とはそういう組織だ。そう思って居る。小さな頃親を失って孤児院に入っていたミーシャを拾い上げ、ヴァンパイアを狩れる様な歴戦の戦士に育て上げた組織である。恩こそあれ、足をこれ以上突っ込もうとは思わない。それは危険すぎる。

 『よいか。貴様の幼少の頃にアーレフとロンギヌスを与えた意味をよく考えて行動しろ。期待しておるぞ』

 電話が、がちゃ、と切れた。ミーシャは音もなく後ろに立っていたアーレフを振り返り、まこと人懐っこそうな笑顔を浮かべて言った。

 「期待してるってさ、アーレフ」

 「・・・気負うな、ミーシャ」

 ミーシャは決して冷酷な人間ではない。今回の任務の大きさに戸惑っているだけだ。本来ならば、本職の宣教師としてこの国に来たかった事だろう。だが時と、ミーシャの育ちがそれを許さなかった。『チャーチ』に世話になって育った以上、『チャーチ』に逆らう事は許されない。それがさだめである。

 「なーに、そんなに気負っちゃいないさ。俺が倒れてもまだ第七小隊そのものが駄目になる訳じゃない」

 テーブルのケトルからコポコポとマグカップにコーヒーを注いで、ミルクを入れカラと混ぜた。

 「だがお前は何もかもひとりで処理する心算だろう?」

 昔からそういう子だった。アーレフはミーシャが幼い頃から傍に居た。ミーシャをエクソシストとして見出したのは、他でもないアーレフである。それ故何処かで、この優しすぎるエクソシストを哀れに思うアーレフが居る。後悔も時折感じる。

 「俺ひとりじゃないさ。もう昔とは違う」

 そうひとりごちて、ミーシャはゆっくりとコーヒーを味わった。時刻は9時を過ぎていた。




 マティーナは実験器具の並ぶ机、書類の上に突っ伏して居眠りしていた。少しばかり複雑な実験を行っていて、その実験結果が出るまで起きて待って居る心算だったが、疲れが溜まっていたのかいつの間にか睡魔に襲われてすやすやと眠り込んでいた。

 隣にはきちんと椅子に座って、ぴくりとも動かないエミリオが居た。自分の主・・・弟の意識がない時は、エミリオは決して動かない。机の上の水銀灯に照らされた顔は、静謐を保っていた。

 マティーナは夢を見ていた。それは紛れもなく、悪夢であった。


 あの日も常時も通り、大学院までエミリオにバイクで送ってもらった。マティーナは、医学部を専攻していた。もうすぐ卒業して、オーピック家の伝統である錬金術を継ごうと思って居た。エミリオはそういう分野にはとんと疎かったから、実業家として両親亡き後のオーピック家の資産や資金運用などを取り仕切っていた。確かに錬金術に疎いからその道を選んだのもあるが、何より実験に夢中になっている弟に家の要らな

い用事を考えて欲しくなかったのもある。

 そうしてあの日。

 大学院に行く前に今日の実験は忙しいからお昼ご飯を買っておかないとと気付いたマティーナは、エミリオにせがんで途中のサンドイッチ屋に立ち寄ってもらった。エミリオが先にバイクを降り、フルフェイスのヘルメットを脱いだ瞬間だった。マティーナの手も、自分のヘルメットのベルトに手を掛けていた。

 『マティーナ!』

 小さく叫んで、エミリオはマティーナの細い身体を引いて、ひしと抱き締めた。何が起こっているのか分からなかった。気付けば身体中に物凄い衝撃を感じて、意識を失っていた。

 意識を取り戻したマティーナは、目を瞬かせた。右脚の感覚がなかった。ただ、脚の付け根が熱い、そう感じた。マティーナはエミリオの腕の中に居た。周囲は暗く、ぽろぽろと何か破片の様なものが顔に落ちてきた。それがトラックの下だと気付くまで、数分掛かった様に思われる。

 『・・・兄さん?』

 身を捩って、エミリオの顔を覗き込もうとした。途端、右脚に激痛を感じた。後々分かった事であるが、右脚はトラックのタイヤの下敷きになっていた。ずたずたに轢かれて、形を留めていなかった。それでも無理矢理、悲鳴を挙げながら、エミリオの顔を見た。

 非常に安らかな顔であった。何処の部品で傷付いたものか、左目の箇所に瞼の上から目を貫くみたいに罅の様な傷が入っていた。蒼い瞳をうっすらと開いて、何処でもない何処かを見て居た、かの様に思われた。それが何処も見ていない、ただ目を開いているだけなのだと悟ったのは、たらりと露わになった額が割れて血に染まったからであった。

 叫んでいた。滅茶苦茶に、兄さん、兄さんと叫んでいた。自力で動けないトラックがレッカーに引かれて動かされ、タイヤの下敷きになっていた右脚に再び激痛が奔る。兄さんは動かない。ひたすら叫んだ。押さえつけられる様に担架に乗せられ、救急車で搬送された。エミリオがどうなったのかは分からなかった。

 分かったのは搬送先の病院で気を失い、右脚を付け根から切断され、ICUで目覚めて暫く経ってからの事であった。病後の経過によくないから、と、意識を取り戻してから二、三日の間は兄がどうなったのか聞かせてもらえなかった。

 全てを知って、退院し、車椅子の生活を始めたマティーナは、雨の降りしきる墓地に佇んでいた。何時までもそうしていた。当時世話になっていた執事から諭されても、マティーナはエミリオの墓石の前から動こうとはしなかった。

 決意したのはエミリオの死後一ヶ月経ってからの事であった。もう既にマティーナの神経はぎりぎりの所まで擦り切れていた。最低限の使用人だけ残して殆どのオーピック家に仕えていた人間をクビにし、絶対の秘密を保持すると契約を結んだ若い執事を連れて、再び墓地に赴き、執事に大きなスコップを持たせて墓を暴いた。エミリオの身体は半ば腐っていたが、それでもマティーナに不満はなかった。むしろ自分の手でもう一度命を吹き込めるのだと思うと嬉しさのあまり身震いさえ感じた。実験欲と愛欲が混じり合った複雑な感情だった。それから数週間、マティーナはエミリオの死骸と一対一で実験に取りかかった。ありとあらゆる文献を漁り、ありとあらゆる方法を試し、もう一度その腕に抱かれたいと願った。その為なら、何をする気でも、神をも冒す心算でも居た。

 そしてエミリオは再び目を開いた。疲れ果てたマティーナの瞳に、うっすらと涙が光った。

 『・・・もうずっと一緒だよ、兄さん』


 はっ、と、目を醒ました。夢の光景は瞼の裏から消え失せていた。フラスコの中の水銀が、音を立てて沸騰していた。




 そうして一夜明けて。ミイラの様に包帯まみれのヒコが不機嫌そうに朝食の食卓に座っていた。八つ当たりの様に納豆を無闇やったら掻き回して、ご飯にがばとかけた。

 同席している父も、司も、何も言えなかった。事の次第は昨日の晩の内にヒコとコロ、両方から聞いた。

 両者の仲はこの一件を以て決定的に決裂した。

 「ヒコー・・・そんなにひねくれんなよ、朝から」

 「うるさいのだ。文句ならあのバカ犬に言うのだ」

 そしてヒコ曰くバカ犬と称されたコロは、平然と母から飯を貰って喜んでかっ食らっていた。そもそもコロには何でヒコがあんなに怒るのか訳が判らなかった。宙に浮いたでかい刀が踞るヒコを滅茶苦茶に斬りたくっていたのを呆然と見ていたら、気が済んだらしい妖刀は再び元の位置に鎮座して、そうしてコロは訳も判らずヒコにボッコボコにされたのだから、コロが怒るのも無理はない。理不尽にいきなり殴られたも同然なのである。すずが止めに入らなければ、殺し合いになっていた事請け合いである。

 げっぷ、と息を吐いて、コロは青い空を眺めた。鎖を解いてひとりで散歩に行こうかと思った。


 「・・・君、僕を医者か何かと勘違いしてない?」

 朝飯を食ってまた寝て、夕方地下倉庫の騒霊を食おうと、暇していた司を連れてやってきた包帯まみれのヒコを見て、肘掛けに頬杖ついてマティーナは言い放った。この怪我では流石に霊園の悪霊を狩る訳にはいかず、仕方なしにレベルを落として騒霊を食いに来た形である。

 「治せるもんなら治してほしいものなのだ」

 夕凪に斬られた傷は流石にそう簡単には回復しない。二、三日は騒霊と司の血で我慢するしかないだろう。騒霊にしてみればいい迷惑な話である。マティーナにとっては、夜来られるよりはマシな話だが。

 『ぼくたちつかれちゃったよ。すこしやすませてよ』

 騒霊は増殖するにも力が要るのだ。暫くヒコに斬られて、増えるのに疲れてたまらなくなった騒霊の親玉は目玉をぱちくりさせて、珍しく不平を漏らした。ヒコは不満そうな顔をして薊丸を鞘に収めた。

 「随分荒れてるわね、若」

 デュファイの声が地下倉庫に響く。

 「人狼になめられたとあっては坊ちゃまのプライドが折れるのも当然ですわい。余りお気になさらぬ様」

 セルジュもやんわりとヒコを慰める。だがそれもまた、ヒコのプライドを傷つけるものらしい。ぷいと余所を向いて、地下倉庫を出てしまった。

 食堂で待って居た司と合流、食堂を抜けて大広間、まるで待ち構えていたかの様にマティーナがエミリオを伴ってそこに居た。ヒコは目を瞬かせ、マティーナの顔をじっと見た。

 「君に言っておかなくちゃいけない事をすっかり忘れてたよ。

 『チャーチ』、もうこの街に来てる」

 ヒコの目が、くわっと見開かれた。先刻、ヒコが地下倉庫に潜っている間、またミーシャがこの屋敷にやって来ていた。マティーナは『チャーチ』と関わり合いになりたくなかったが、どうやら何かしら目を付けられているものらしい。ミーシャは平然と、玄関先、大広間の大理石の床に立って、言った。


 『予定は早まりました。次の新月。ヴァンパイアを討ちます』

 ミーシャは例の鳥打ち帽を目深に被り、黒い宣教師のロングコートを翻して、無言のマティーナにそう言った。新月はアーレフにとっては余り良い条件とは言えない。が、それはヒコにとっても同じ事である。何より老師が早く結果を欲しがっている。満月まで待って居る訳にはいかなくなった。

 『・・・それを僕に伝えてどうする心算?』

 『貴方の口からヴァンパイアに伝えて欲しいのです。「中立の傍観者」が決闘には必要ですから』

 『「チャーチ」嫌いの僕が中立を守れるとでも?』

 『貴方はそれでも中立の立場を選ぶ』

 ミーシャは言い切った。マティーナの性格を、いち早く見抜いていた。


 「ひ、ヒコ・・・何だよ『ちゃーち』って。こないだもさ、言ってたじゃん・・・」

 ヒコの横顔は、見た事もない位張り詰めていた。ピシと空気が音を立てて割れそうだった。

 「・・・ヒコの『ととさま』の仇なのだ」

 ヒコはそれだけ言って、マティーナにつかつかと歩み寄った。そうして、どこか緊張極まって泣きそうな声で言った。

 「ヒコの手当を頼む。新月までに万全の体勢を整えておきたいのだ」

 マティーナは黙っていたが、暫し間を置き、おいで、と呟くと、エミリオに抱えられて大広間の二階、実験室へと向かった。ヒコが後をついてゆく。司は数日前我が家を訪れた黒服の男を思い出した。まさかあれが『ちゃーち』なんだろうか。と言うことは、『ちゃーち』とは『教会』?司は英語は読めないが、そういえば名刺には「church」と書かれていた気がする。

 ヒコはこれ以上何も教えてくれそうにない。マティーナさんも同様。司はぼんやり立ち尽くして、答えの出ない疑問符を唯々頭の中にちらつかせていた。




 次の日も、何もなかった。

 その次の日も、ヒコに頼まれて血をやっただけで、何もなかった。

 新月の前の日まで、本当に静かな日が続いた。ヒコの傷はマティーナの手当もあって全快して、今は平気で戸の上霊園まで狩りに行く事ができる。コロとの仲は相変わらず最悪。

 司は情報の欠片だけ目の前にちらつかせられて黙って居られる様な人間ではない。知れるものなら知りたいと思う。家族同然の付き合いをしているヒコの事なら尚更だった。だから司は、他に『ちゃーち』を知っていそうな相手を訪ねる事にした。司の知っている人物の中ではふたり。そのうちの片一方、すずの元へと向かった。ヒコには内緒だった。

 すずは囲炉裏の前にきちんと正座して、司と向かい合い、何かを考え込んでいたが・・・静かに語り始めた。夕凪は、刀に取り憑いたまま出てこなかった。

 「ちゃーちはねぇ・・・すずちゃんもヒコちゃんとの関係はよく知らないの。ごめんね。だけどちゃーちが何なのかはちょっとだけ知ってるのよ。

 ちゃーちはね、西洋の悪魔狩りのそしきなの。とくにばんぱいやは、めだってつよいから、めのかたきにされちゃってるのよ。たぶんヒコちゃんのおともだちの、その、れんきんじゅつしさんもねらわれてると思うの」

 すずの目線は司の元にはなく、囲炉裏にかけられた鍋の中、かぼちゃの味噌汁に向けられていた。

 「すずちゃん、『ととさま』って知ってるか?」

 司の問いに、すずはどこか俯き加減だった顔を、はっと挙げた。思い当たる節があるらしい。聞いただけでしかないんだけど、と前置きして、暫し間を置き、すずは話し始めた。

 「ヒコちゃんの『ととさま』は、もともと西洋から来た『ばんぱいや』なんですって。薊丸もこうもりの指輪も、元々は『ととさま』のものだったらしいの。でも何でそれがヒコちゃんに渡されたのかは、すずちゃんも知らない。だってすずちゃんがうまれる400年も前のはなしだもの」

 そう尻すぼみに呟いて、すずは床の間に飾られてある妖刀夕凪をぼんやりと見た。思うところがあるのかそれっきりすずは口を利かなくなったので、ありがとうと礼を言って、司は庭先に駐めてあった自分の自転車に乗って山を下りた。

 思い出す。見送りに庭先まで出てくれたものの、少し涙ぐんでいたすずの表情の意味は、今の司にはわからなかった。

 しかし兎に角『ちゃーち』が何なのか、司にだって知る権利があるはずだ。司の自転車のタイヤはチリリッとわずかな音を立て、次に『ちゃーち』を知っていそうなあと一人の人物・・・即ち如月寺の住職の元へと向かっていた。

 住職は寒空の下、庭先の砂利の間から生えてきた弱々しくも逞しい雑草たちを駆除していた。司が何をか言う前に、住職はヒコから聞いていたものかそれとも何かを悟っていたのか、

 「家でお茶でも飲んでいかんかね」

 ヒコと初めて会って、血を吸われたあの日と同じ様に、住職と司、テーブルを挟んでお互い押し黙ったままだった。暫し間を置いて、司は『ちゃーち』とは何なのか、ヒコの『ととさま』とはどういう人なのか、住職に尋ねた。確かこの寺はヒコの面倒を見る為に建立されたと聞いている。ということは縁起書のひとつやふたつにその回答が載っている筈だ。それを住職が知らないわけがない。

 しかし司の確信を裏切る様に、静かに住職は司に問うた。

 「・・・お前さんに、ヒコ坊の五百余年の人生を理解し、背負い続ける覚悟はあるかね?」

 「え・・・?」

 司は住職の言っている意味がよくわからなかった。

 「ヒコ坊と『チャーチ』との因縁を理解し、『ととさま』の素性を知るには、儂はまだ早いと思うんじゃがのう」

 明日、ヒコはあの黒服の男と対決する。それを住職は聞いているらしかった。

 「ばんぱいやと『チャーチ』の決闘は、熾烈を極めるじゃろう。恐らく今回やってくる『チャーチ』の追っ手を倒しても、居場所が知られた以上、次から次にヒコ坊は『チャーチ』の面々と戦っていかなくてはなるまい。

 ヒコ坊はまだお前さんにこれ以上踏み込んでほしくないと思っておる。だから無闇に教える訳にはいかないんじゃよ。今はまだ、な」

 「・・・でも俺は、ヒコの事をもっと知りたいと思います」

 本音だった。

 住職はゆらりと立ち上がり、こちらを見上げる司の幼さの残る顔をじっと見つめて、言った。

 「『チャーチ』はお前さんにも手を出すかもしれぬ。何せ魔物と魔物に手を貸す人間には手段は選ばん相手じゃからのう。

 まずはお前さんの元を訪ねてきた『チャーチ』の男と、ヒコ坊の死合いを見てからでも遅くはないじゃろう」

 そして住職は部屋を出て行ってしまった。残された司は、自分の無知と、ヒコの、司を巻き込みたくないと思っている気持ちを知った慟哭で、頭がシンと動かなくなってしまった。

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