「ちゃーち」

第二話:「ちゃーち」 前編


 よく炊けた鱈をほこほこと幸せそうに頬張るヒコに、司は尋ねた。

 「そういや明日は大晦日だけど、ヒコは初詣とか・・・行くわけないか」

 「ばんぱいやが神仏に願掛けしてどうする。精々如月寺に挨拶に行く程度なのだ」

 父は未だにヒコと使い魔二匹が居候するこの光景に慣れないらしく、しかしだからといって絶対なる権力者たる母に文句を付ける事も、すっかり慣れきった息子を諭す事も出来ず、身をちぢこませて鍋をつついていた。その隣で具現化したデュファイが、大きな豆腐の欠片をセルジュと取り合っていた。

 「ちょっとあんた、さっきもでっかい豆腐食べたじゃない!ちっとはこっちに譲りなさいよ!」

 「草っ切れは根っこから土の養分でも啜っておれ!空を飛ぶと腹が減るんじゃ!」

 ヒコは相変わらず幸せたっぷりの顔で、すずの白菜を頬張っている。

 その時、電話のベルが夕食時の団らんに響いた。はーいと独り誰とも無しに返事して、母が隣の部屋に受話器を取りに行く。もしもし、と聞こえて暫くして、怪訝そうな、だがどこか茶化す様な貌をして居間に帰ってきて、ヒコを呼んで。

 「ヒコちゃーん・・・女の子からよん」

 ぶふっ、とヒコが出汁を噴いた。袖口で口元を拭いながら、電話に出る。

 「もしもし?・・・なんだすず!なんでここの番号を知っておるのだ!第一貴様なんで電話なんか・・・」

 『あらいやだ、ヒコちゃん。すずちゃんいまどきのおんなのこだから、酒屋さんからすまほもらってるのよー。でんわばんごはつかさちゃんからきいてたの。

 あのねー、あしたいっしょに如月寺いこーって言おうと思ったのー』

 「貴様山を出て大丈夫なのか?」

 『如月寺ならふもとみたいなもんだからだいじょぶなのよ。とっともついてきてくれるってゆうし。

 じゃあ10時に如月寺の前でまちあわせでいいのよね?んじゃねー』

 ぶちっ、つーつーつー。ヒコは居間に戻り、司の顔を横目で睨んだ。司は平然としていた。もう慣れた。




 一晩明けて、ヒコは昼間、司を伴ってオーピック邸を訪ねた。騒霊を食いに来たのと、司をマティーナに紹介したかったのもある。司は滅多に見ない外国人の姿を前にしてがっちがちに固まって、

 「は、はろーう?」

 素っ頓狂にそう言い放った。エミリオの修理で一晩寝れず不機嫌顔で二人を出迎えたマティーナもこれには笑って、

 「ワタシニポンゴツウジルヨー」

 冗談めかして言った。


 騒霊も居なくなってすっかり落ち着いた雰囲気の食堂に通され、白いテーブルクロスを被せられた食卓の席に着いて、エミリオの手で紅茶と洋菓子を出された。くいとひとくち煽って、カチャとカップを置き、マティーナは久しぶりに腰を落ち着ける場所を手に入れて懐かしそうに独り言の様に言った。

 「兄さんは生前も紅茶を煎れるのが巧くてね。実験の合間によくせがんだもんだよ」

 「せ・・・生前?」

 未だにこの二人がどういう人間なのかよくわかっていない司が、隣の席に着いているヒコに困惑した様子で問うた。

 「茶を煎れてくれた兄貴の方はいっぺん死んで改造された動く人形なのだ。でもって目の前の弟が兄貴にハァハァ発情する様な変態錬金術師なのだ」

 「オー・ト・マー・タ!次人形って言ったら実験台にするよ!」

 「変態錬金術師は訂正しないんだ・・・」

 とりあえず住む世界の違う人間なんだと言う事は司も認識できたらしい。ヒコは茶菓子にすっかり夢中になっている。この辺では滅多に手に入らない、底に粗目砂糖が施してある長崎のカステラだ。わざわざ取り寄せたものらしく、ヒコは何百年ぶりかに味わう優しい甘みにほくほく顔。

 「で?貴様は如月寺には行かんのか。昨日世話になっただろうに」

 「え?君等も行くの?」

 マティーナが意外そうな顔で言うので、ヒコも司も一瞬意味が理解出来なかった。

 「だって行ってみたいじゃん。ハツモウデ」

 「貴様も来るのか・・・」

 司はともかく、ひとの話を聞かない娘に血塗られた妖刀、変態錬金術師に自動人形。ヒコはこの面子に頭が痛くなってきた。




 同時刻、今朝からは止んだものの、昨日から降り続けていた雪がすっかり積もった、司の家の隣の空き地に放置されていた土管の中、ぜえぜえと荒い息が響いていた。

 庭の物干し竿の前に洗濯物を持ってきて干そうとした母が、その脆弱な息吹をふと耳にして、何かしらとエプロンで手を拭き拭き、息が聞こえる土管の中を覗き込んだ。

 「・・・あらまぁ!」

 そこには血塗れになって横たわり、意識も殆ど無い様子の、常識外れに大きな犬・・・否、狼が居た。


 両者無言の時が過ぎ、居づらさを感じていた司の携帯電話が鳴った。余計にびっくりして、目をぱちくりさせているマティーナに一礼、食堂を出て電話を取った。

 「もしもし?お袋?何だよ急に」

 『司、すぐ帰ってきて頂戴!大変なのよ、大きなわんこが隣の空き地に倒れてたの!』

 「は、はぁ?そんなもん動物病院に・・・」

 『大晦日でしょ、開いてる訳ないじゃない!それに何ですかわんこに対してそんなものだなんて!』

 そういえば母は昔から頻りに犬を飼いたがっていた。司に手がかからなくなってからとしょっちゅう言っていたのを思い出す。最近はすっかり忘れていた様だが、夢のわんこを目の前にして冷静でいられなくなっているらしい。何とか落ち着かせ、今から帰るからと言い聞かせ、電話を切り、地下室に潜ろうと席を立ち上がっていたヒコに駆け寄って小声で伝える。

 「でかい犬?」

 「お袋犬好きなんだよ・・・俺ちょっと帰って様子見てくるから、ヒコ用事済ませてていいよ」

 ヒコは何か思い当たる事があるのか、ちょっと下を向いて考え込んで、

 「マティーナ。貴様犬の手当は出来るか」

 「冗談じゃないよ・・・出来るけど臭くなるからやらない」

 「ふん。薄情なやつなのだ。後で後悔しても知らんぞ」

 謎の一言を発して、ヒコは地下倉庫へと続く階段を降りていった。残された司は、ティーカップを傾けて平然としているマティーナにすんません、と理由もなく頭を下げて、陽光暖かな冬の路地へと出ていった。


 家に帰ると、庭先の縁側に母と父がいた。そうしてその二人の間に挟まれている形で、馬鹿でかい犬が横たわっていた。赤黒く血に汚れてはいるが、黒と白のコントラストの美しいもふもふの毛皮。母が理想としていたハスキー犬によく似ていた。しかしながら想像以上のでかさに驚きを隠せない司は、怖々と犬に近付いて、しゃがみ込み、うっすら開いている蒼と赤のオッドアイを覗き込んだ。

 途端、ぜえぜえと荒い息を漏らしていたばかりの犬は、ひくひくと鼻孔をひくめかすと、何かに気付いたのか、よろよろと上半身を起こそうとした。母の手が慌てて犬の上半身を抑える。

 しかし、犬は突然信じられない行動を起こした。

 「・・・お前、吸血鬼と知り合いか?」

 犬は若い男の声で喋った。これには司も、母も父も驚いて後ずさった。

 「なっ、何で・・・」

 「匂いで分かるに決まってんだろ・・・お前、吸血鬼知ってんだろ・・・呼んでくれよ」

 母は最初こそ言葉を失っていたが、ヒコの一件でこんな事案に慣れてしまったのか、片頬を押さえて困った様に呟いた。

 「どうしよう・・・ヒコちゃんにも携帯持たせておくんだったわ。司、ヒコちゃん呼んできて頂戴」

 「え!ま、また走れって言うのかよ!」

 「えじゃないでしょ!わんこが困ってるのよ、助けてあげようと思わないの!?」

 力尽きたのか、またぐったりと身を横たえた犬の頭を撫でてやりながら、司に叫んだ。むちゃくちゃだが、一理ある。上城一家ではどうしようもない。喋る犬なんて、犬の言う通りヒコを呼んでくるか、犬の手当が出来ると言っていたマティーナさんを呼ぶかどちらかしか対処の仕様がない。


 「若ー・・・ほんとにいいの?」

 騒霊を斬り捨てながら、デュファイはヒコに問うた。狼の気配は昨日の夜から感じ取れていた。が、これ以上面倒事を抱えたくないヒコは敢えて無視した。向こうからコンタクトを取ってこなければ相手にしないつもりだったのだ。

 「今日は忙しいのだ。遅刻して、夕凪を持ったすずに切り刻まれたくないのだ」

 元よりヒコはあの狼がただの狼でない事を重々承知であった。だからマティーナに犬の手当を聞いたが、相手にもされなかった。勿論ただの狼でない事をマティーナが知ったらひとりで車椅子漕いででも駆けつけるだろうが、そんな事面白くもなんともない。ヒコは犬が嫌いだ。偉いやつにへこへこする様子を見ていたら虫唾が走る。

 「犬っころがどうなろうがヒコの知った事ではないのだ」

 そしてまた、困惑しきりのデュファイを無視して、薊丸を大きく薙いだ。


 食堂にマティーナの姿はなかった。大広間に戻って、階段を駆け上がり、実験室とおぼしき部屋のドアをバカンと開けた。

 「マティーナさん!ちょっとお願いが!・・・」

 司は両手でドアを開けた姿勢のまま固まった。何やら複雑そうな実験器具が並ぶ机の向こうで、マティーナはエミリオの両の頬に触れて濃厚なキスの真っ最中。

 「・・・あー・・・すんません・・・」

 振り返ったマティーナに意味もなく謝った。司の呆れっぷりを見てマティーナはクスクスと笑って、

 「大人のキスの最中を子供が邪魔するもんじゃないよ」

 「いや・・・まぁ・・・お邪魔するつもりはなかったんですけど・・・」

 黙っていても言葉を濁していても始まらない。司はマティーナに全てを話した。喋るでっかい犬がうちに来て、ヒコを呼んでいる。犬はひどい怪我をしていて、動く事もままならない。手当をしてやってほしい。黙って話を聞いていたマティーナの目がきらきら輝いてくる。

 「Vraiment?」

 「・・・あの、日本語でお願いします」

 「それ本当に?本当なら凄いよ、人狼だ」

 人狼。要するに狼男という事らしい。思い立ったら即行動なのか、既にマティーナは机の引き出しから医療器具の様な鉗子やメスを取り出して革の鞄に詰め始めている。

 「多分ヒコに用があるのはヒコの血で傷を治してもらいたいからなんだろう。ま、人間の血でも事足りるんだけど、怪我してヴァンパイアを訪ねてくるなんて余程の事情がありそうだ。興味深いね」

 そうしてぱんぱんになった鞄をエミリオに押しつけて、マティーナはこちらを振り向き、まるで命令でもするみたいにつっけんどんに司に言い放った。

 「ヒコなら地下倉庫に居るよ。呼んできたら?」

 「は、はい・・・」

 部屋を出て、大広間を、食堂を抜け、地下倉庫への暗い階段を駆け下りる。地下倉庫に近付くにしたがって、カン、キン、と薊丸が何かを斬っている音が響いてくる。辿り着いたドアを開けると、目の前には金色に光る壁が立ちはだかっていた。その奥、その向こうで、ヒコは無限に湧いてくる黒い塊を斬っていた。

 「ヒコ!大変なんだ、犬じゃなかった!人狼だって!」

 「知っておるのだ」

 「・・・え?」

 ヒコは興味なさげに吐き捨てた。

 「ヒコは犬が嫌いなのだ。マティーナが手当しに行くのだろう?だったらヒコは用がないのだ」

 「そ、そんな!人狼はヒコを・・・」

 「人狼がヒコを呼んでいようが関係ない。貴様等人間がどうにかしろ」

 この物言いには流石の司もムッと来た。今まで短い間であったが積み上げてきた信頼関係が壊された様で、何だか無性に腹が立って、頬を膨らませ、

 「もういいよ!俺でなんとかする!ヒコの馬鹿!!」

 結界の向こう、ドアが乱暴に閉まる音が、ヒコの耳に入った。




 人狼の息は先刻司が見た時より酷く衰弱している様に見えた。ヒコが帰ってくるものかと思っていたら、知らない外国人二人がやってきた上城家の両親は困惑の表情を隠せず、ただ遠巻きにマティーナの施す治療を受けるわんこを見て居た。

 「多分車にぶつかったか何かしたんでしょう。命に別状はありませんよ」

 血塗れになったゴム手袋の手を休めず、マティーナは独り言の様に言った。

 「ただ骨が数カ所折れているみたいですね」

 「だ、大丈夫なんでしょうか・・・」

 母が心配そうにマティーナに尋ねる。

 「人狼は快復力も普通の犬より高いもんです。二、三日すれば治ってるでしょう」

 「今じゃなきゃ駄目なんだ!」

 それを聞いた人狼が、突然目を醒ましたかの様に上半身を苦しそうに起こした。治療の助手を務めていたエミリオの手が、強く人狼を押さえつけた。

 「馬鹿言うんじゃないよ・・・例え人狼でも二、三日は絶対安静だ。自分の怪我を分かってるのか?」

 「今じゃなきゃ・・・今じゃなきゃ何のためにホケンジョから逃げてきたかわかんねーだろ!

 いいから行かせ、・・・!」

 司がどこか気弱な声で、人狼に問うた。

 「保健所から逃げてきたって・・・お前、何したんだよ?」

 「・・・」

 ぜえぜえと人狼が息荒くして司を睨む。やがて自分を押さえつけるエミリオの手は解けないと観念したのか、静かに、ゆっくり、荒い息を押さえながら、語り始めた。

 「二年前、産まれたばっかの時にオレ、かなだとかいう国から来たんだ・・・で、この国に来て、二年はぶりーだーとかいう業者のとこに居た。そこでは温和しくしてたよ。人間の言葉はしゃべったらいけないって母ちゃんに言われてたからさ。

 で、一週間前、9つになる女の子の居る家に引き取られた。美紀ちゃんって子だ。美紀ちゃん、オレの首輪についた紐持って散歩に連れてってくれた。

 ・・・でもオレ、はしゃいでつい、強く美紀ちゃん引っ張っちゃったんだ。道路の向こうのボールに気ィ取られちゃってさ。で、・・・美紀ちゃんだけ車にはねられちまった」

 涙もろい母はこの時点で既に涙ぐんでいた。司も父も、何を言えばいいのかわからなかった。只マティーナの治療の手だけがカチャカチャと動いていた。

 「美紀ちゃん目が見えなくなっちまったってママが言ってた。で、パパが怒って、オレのことホケンジョに連れてった。最初何の建物かわかんなかったよ。でも、一緒の檻に入ってたやつが言ってたんだ。オレ等いつか毒ガスで殺されちまうんだって。だから母ちゃんに止められてた人間に変身して、力ずくで檻ぶっ壊して逃げてきた。

 オレ早く美紀ちゃんに会わなきゃいけないんだ、会って謝らないといけないんだッ!」

 そうしてそこまで語って、再び人狼は身を捩ってエミリオの手を解こうとした。人狼の力は怪我をもってしても凄まじく、エミリオの手がぐらぐらと揺れ始めた。押さえきれない。そう判断したマティーナが、バッグから追加の麻酔薬の注射を取り出して、人狼の太腿に刺した。麻酔の効き目が早いのか、それともそれだけ人狼が衰弱していたのか、人狼の動きが段々鈍くなり、・・・遂には動くのをやめた。

 「全く、人狼はそれ程賢くないとは言うけどね・・・此処まで馬鹿力だと逆に胸のすく思いだ」

 前足の疵口を縫合しながらマティーナが呟く。

 「行かないと・・・美紀ちゃんとこ・・・」

 譫言の様に、まだ言っている。この様子だと、その美紀ちゃんという子が入院しているであろう病院の場所も人狼は知って居るらしい。匂いで分かるのだろう。人狼の鼻は普通の犬のそれより嗅覚が鋭い。更には縫合を終えた前足がびくんと動いたのを見てマティーナが珍しく慌てた様子で口走った。

 「ちょ・・・麻酔利いてないのか!?」

 人狼の力は強力な麻酔をもはね除けるものらしい。マティーナの額に汗が浮かんでいる。只でさえ数時間、手術に没頭しっぱなしなのである。本来身体のそんなに頑強ではないマティーナでは手に負えないという事の様だ。

 司が何かを決意した様に、マティーナに言った。

 「マティーナさん!人間の血があれば治るって言ってたよな!」

 「そ、そうだけど・・・」

 何を思ったか、司の手がぐいとマティーナの持参したバッグの中からメスを掴んで取りだした。そうして、

 「Un idiot!自分が何やってるのか分かってるのか!」

 司は震える右手で、自分の左腕を切ろうとした!マティーナの声に反応したのか、エミリオの手が司のメスを握る手をぐいと床に押さえつけた。小さな司の悲鳴が縁側に響く。

 「だってこいつ・・・だってこいつ、美紀ちゃんって子の所に行かなきゃなんねーんだろ!

 行かせてやろうよ!なぁ、いいだろマティーナさん!」

 激昂のあまり泣き出した司と、人狼の身の上に耐えきれなくて既にボロ泣きしている母。夢を見ている様に足を僅かにばたつかせて、走ろう、起きようと藻掻いている人狼。

 黙って見て居た父が、静かに言った。

 「・・・私の血を使ってくれませんか」

 「Qu'est-ce que tu racontes?」

 マティーナの問いかけにも、父は動じなかった。滅多に自己主張しない父が、珍しく強い口調でまた言った。尤も、フランス語で何を言われているのか分からなかったと言うのも理由のひとつなのだが。

 「司の血を使う位なら、私の血を使って犬の傷を治してやって、美紀ちゃんとか言う子の所に犬を行かせてやって下さい。

 どうか、お願いします」

 父は自分より一回りも若いマティーナに躊躇することなく頭を下げた。頭を下げられたマティーナの方が困惑していた。自分のプライドを投げ出して、息子に傷をつけまいとする父親の情に感服もした。

 母が心配そうな目で父の顔を見て呟いた。

 「あなた・・・」

 「いいんだ。私の血くらいで済むならそれが一番いいんだ。な、母さん」

 うっすらとオッドアイの目を開けて、人狼は父の顔を見た。何処か懇願の色を秘めた目であった。

 その時。

 「全く、馬鹿ばっかなのだ」

 庭の方、丁度マティーナの背後から声がした。涙に濡れた顔を上げて、司はあっと声を挙げた。

 「ヒコ!」

 「人間の血で復活したからと言って、病院に忍び込める程精巧に人間に変身できるわけがあるまい。

 全く、そんな事にも気付かんほど上城家が落ちぶれたとは思わなかったのだ」

 騒霊の煤で汚れた司のお下がりのコートをぱたぱたとはたくと、つかつかと縁側に上がり込み、呆気に取られている父の隣に座って、

 「マティーナ。貴様も貴様なのだ。それ位配慮して物を言え。この馬鹿者」

 言いながら薊丸を抜き、左手を人狼の口元に差し出すと、何の躊躇いもなく、手の平をざっくりと無造作に斬った!どぼどぼと、薄く開いたままの人狼の口にヴァンパイアの血が流れ込む。力を無くしていた瞳に、少しずつ光が灯る。

 「あーら、物陰から出て行こうと思ったらパパ上がしゃしゃり出て慌ててたのは何処のどちらさんかしらー」

 デュファイの茶化す様な声に、ヒコの顔が真っ赤に染まる。

 「ええい、少し黙れ!」

 不思議な事に、縫合されたばかりで赤く染まって居た疵口がすうと閉じてゆく。骨が折れて変形していた胸部が元のふくらみを戻してゆく。ヒコの傷もすぐに閉じ、傷を完全に回復させた人狼はゆっくりと慎重に立ち上がった。四肢に力を取り戻し、ぶるとひとつ身震いした。立ち上がると、その人狼の大きさが尚際だった。その体長は、この一団の中でも一際大きなエミリオの身長ほどあるのではなかろうかと思われた。

 「あんがとな、吸血鬼!ちょっとオレ行ってくる!」

 そうしてダッと縁側を飛び出して、人狼はすっかり暗くなった路地を駆けた。人狼の回復ぶりを見て笑顔を取り戻した父と母、そして司、安心してへたり込んだマティーナとそれを支えたエミリオを置いて、人狼は上城家を去っていった。念の為ヒコが空から人狼の後を追う事にした。人狼の足は怪我から回復したばかりとは思えない程速く、セルジュの飛ぶ速度でも追うのが精一杯であった。


 病院はこの街の中央街、人の多い賑やかな所にあった。病院の前で立ち止まった人狼を見つけ、ヒコは地へと降りた。

 「いくらヒコの血を啜ったとは言え、猶予は短いぞ。面会は手短にやるのだ」

 「分かってる」

 高い塀の影、ひとの居ない場所で、人狼の身体はパーッと短く光った。目を瞬かせたヒコの目の前には、既に見慣れた狼の姿は無く、二十歳前後と思われる大柄な青年の姿があった。にんげんの手足を不思議そうに眺めていたが、程なくしてにかと笑い、ヒコを置いて病院内へと走っていった。ヒコもセルジュに促され、人狼の後を走る。

 人狼は暫しきょろきょろと廊下の隅を見渡したかと思うと、何かを悟ったかの様にまた走り出した。病院内は面会時間ももうすぐ終わりらしく、病室をあとにする人々と幾人かすれ違った。人狼は焦って足を速めた。それは素晴らしく速く、ヒコでさえ全力で走って追いつけるかどうか怪しいほどだった。

 そして人狼はひとつの病室の前で立ち止まった。病室前のネームプレートには、フジナガミキ、と無機質な字で書かれていた。人狼は躊躇う事なく、病室に飛び込んだ。

 ベッドには顔に包帯を巻かれた小さな少女が居た。両親は面会時間の終わりを受けて、もう帰ったものらしい。美紀ちゃんに点滴を施していた看護婦が、小さく、あ、と叫んで、

 「な、何ですか貴方達・・・面会時間はもうすぐ、」

 「美紀ちゃんと公園で仲良くなった友達なのだ。少しばかり時間を頂きたい」

 美紀ちゃんの痛々しい様子に頭が真っ白になって何も言えなくなった人狼に変わって、ヒコが看護婦に進言した。何かを納得したのか、看護婦はいそいそと病室を出ていった。残されたのはベッドの上に静かに座っている美紀ちゃん、そしてベッドの脇に立ち尽くしている人狼、腕を組んでその人狼に一言を無言で促すヒコの姿。

 人狼は、美紀ちゃんの包帯を巻かれた顔に自分の顔を近づけて、言った。

 「怪我の具合はどうだ?美紀ちゃん」

 「あなた・・・だれ?」

 人狼は言葉に詰まった。

 「貴様は覚えてないかもしれんが、貴様を一番大切に思って居たやつなのだ」

 ヒコの助言の意味がわからないらしく、美紀ちゃんは少し頭を傾げた。人狼のオッドアイには涙が溜まっていた。この時ばかりは、泣いているのがばれなくてよかった、と、美紀ちゃんの目が見えない事に感謝した。しかし、何かを悟ったらしい美紀ちゃんは、ぽかんと開けていた唇を笑顔に変え、

 「あなた、うちに来たわんこと同じ匂いがする!」

 人狼にはまだ名前がなかった。美紀ちゃんは事故の後も、家に帰れば人狼が待って居ると今でも思っているらしい。退院できる日を、もう家には居ない人狼に会える日を、心から待ち望んでいた。まさか尊敬する父が、人狼を保健所に連れていってしまっていたとも知らず。

 「・・・犬臭いとは失礼だが当然なのだ。貴様が入院している間その犬を預かっておる家のものなのだ」

 人狼は顔を歪めて、ぽろぽろと涙を溢した。もう美紀ちゃんと会う事は永遠にない。

 「・・・、早く元気になれよな、美紀ちゃん」

 そう呟いて、人狼は自分よりずっと小さな美紀ちゃんの頭を撫でてやった。美紀ちゃんは笑っていた。それだけで、これからの放浪生活が何処か救われるかの様な気になった。

 ヒコと人狼は病室を後にした。外は再び雪模様となっていた。


 雪の中、狼に戻った人狼を連れて上城家に帰ったヒコは、玄関をくぐった途端鳴り響いたクラッカーの音に仰天した。クラッカーなんぞ初めて見る人狼は、突然の音に暫し固まった。テーブルの隅に、ドッグフードで母が作ったケーキが鎮座していた。母のはしゃいだ声が居間に響く。

 「おかえり、ヒコちゃん、コロちゃん!」

 「こ・・・コロ?」

 テーブルに頬杖ついて、呆気に取られているひとりと一匹を見て、司は悪戯っぽく微笑んだ。

 「お袋が人狼うちで飼うんだってさ」

 「オレの名前、コロって言うのか?」

 人狼の問いに、こくこくと母と父が頷く。母が勝手に決めたものらしいが、父も一々異論は挟まない。人狼はどこか笑った様な貌をして、ぴょんぴょんと辺りを跳び回った。

 「やったー!オレ名前ついた!やっと名前ついた!!」

 犬にとって自分に名前がつくという事は至上の喜びらしい。はしゃぎ回るコロの姿を見て、上城家の居間が笑いに包まれる。

 その時、居間のボンボン時計が鳴った。ヒコが何かを思い出したかの様に、びくりと肩を震わせる。時計は既に十時を指していた。そうして大事な用事を思い出したヒコは、わなわなと青ざめた唇を震わせて、

 「や、・・・やばいのだ!」

 玄関先に飛び出し、目にも止まらぬ早さでセルジュの羽で上城一家を置いてけぼりにして、如月寺へと飛び立った!

 「殺される・・・すずの奴めに殺される!」


 如月寺の前に降り立ったヒコは、ぞくりとするものを感じた。目の前のすずは、背中に背負っていた自分と同じ背丈もある夕凪を抜いて、ヒコに向かって構えていた。

 「すずをこんな寒い中待たすたァいい度胸じゃねえか・・・」

 紛れもなく夕凪の声であった。夕凪がすずに取り憑いて、ヒコを切り刻もうとしている。

 「ま、ままま待て!話せばわかるのだ!とりあえず落ち着くのだ夕凪!」

 まだ日付が変わるまで誰も居ない境内を、逃げ回るヒコとそれを追うすずWith夕凪。来客に気付いた住職が境内を覗き込んで、ほほと笑った。

 大晦日、ぼた雪の降りしきる中、ヒコの悲鳴が境内に響き渡った。

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