第一話:ヒコのおめざなのだ 後編
「ヒコちゃん、如月寺の住職さんからお電話あったわよー」
家についたのは昼過ぎの事、遅めの昼食なのか台所でにゅうめんを煮ていた母が帰ってきたヒコと司に言った。
「住職が?何の用なのだ」
母は振り返らず、首を傾げて答えた。
「さぁ・・・何だか西洋人のお客様がヒコちゃんに会いにみえてるって」
それを聴いたヒコの顔色、さっと色味をなくしてゆく。手がわなわなと震え、ギリリと鋭い牙を歯噛みした。
「『チャーチ』が来おったかあああ!」
踵を返し玄関に走るヒコを、司が慌てて追いかけた。
「どうしたんだよヒコ、何だよちゃーちって!」
「危険だから貴様は家に居ろ!ヒコだけで行ってくるのだ!」
そうして玄関を出たヒコは、間髪入れずセルジュの羽で、天空へと舞い上がっていった。雪が本格的にちらつき始めていた。
「正座は苦手でしてね。片足が無いものですから。ちょっとだらしない体勢を取らせて貰いますよ」
帽子を脱いだ長髪の男は、クスクスと笑って、右手をついて体勢を崩した。隣に座る男は、身動ぎもせずただ前だけを向いていた。
「しかし良いタイミングで来られたものですじゃ。もう少し早かったらヒコ坊は目覚めておらんかったですからのう」
「ヒコ坊ですか。日本の名前は不思議な響きのものが多いですね」
流暢な日本語だった。茶を啜る手も慣れている。
「住職うううう!無事かああああああ!」
ドタバタバタンと応接間に殴り込んで来たヒコは、西洋人二人を一瞥して目にも止まらぬ早さで薊丸を抜いて構えた。今まで無言のままだった男の方が、足の無い弟を庇う様に腰を浮かせて何時でもヒコに飛びかかれる体勢に入った。
「こ、これヒコ坊!勘違いするでない、この方々はお前さんに除霊を・・・」
「卑怯な戦法なのだ!そうやって害のない様な風貌で近付いて喉元をざっくりやるのが『チャーチ』のやり方なのだ!住職も早く逃げるのだ!」
弟は浅く溜息をついて、徐に右手を挙げると、
「ヴァンパイア殿はひどく早合点の様だね。兄さん、相手しておやりよ」
パチンと指を鳴らした。その瞬間、バネが飛び跳ねる様に兄の身体がヒコに向かって飛んできた。ヒコも負けじと薊丸を振りかぶる。が、次の瞬間信じられない事が起こった。
傷のある左目の蒼が赤く燃え上がったと思うと、なんと素手で薊丸の刀身を掴み、
「きゃああああっ!!」
悲鳴を挙げるデュファイの刃を、片手でいとも簡単にばきと折った!
「デュファイ!」
ヒコは慌てて薊丸を仕舞い、デュファイの姿を元の女性の姿に戻した。デュファイの露わになった腹部には大きな罅が入っていた。
「若、おかしいのよこいつ、脈拍が無い!」
「な、・・・何だと!?」
焦燥に染まったヒコの瞳が、デュファイを折った男の顔を凝視する。男は興味なさげに掴んだままだった薊丸の欠片を投げ、再びこちらに構えを取る。その影で、右足のない男は笑いを怺える様に左手を口元にやっていた。
生命や意志をもつものなら薊丸でいとも簡単に切れる。しかしその反面、『生命や意志を持たぬもの』には薊丸は至極弱い。先刻の様に呆気なく折られてしまう。その為にヒコは霊刀海嘯を常に薊丸と共に携えている。
薊丸を折ったということは、この男に「生命と意志」はない。
「兄さん、もういいよ。その辺にしてやったら」
再び彼の弟が、指をパチンと鳴らした。男は表情のひとつも変えず、踵を返し、元座っていた座布団の上にきちんと正座した。
「早合点にも程があるわい、ヒコ坊・・・この方々は『チャーチ』ではないぞい」
ヒコは口をぽかんとあけて呆けている。
「『チャーチ』は僕等も嫌いでね。ま、話だけでも聞いてくれないかな。刀を折った非礼は詫びるよ」
そうして片足の無い男は、何事もなかったかの様に温くなった茶を啜った。
住職の隣に着き、改めて奇妙な二人組の顔を凝視する。
先刻薊丸を折った男は、薊丸が折られたという事実通り脈拍も意志もないらしく、唯々きちんと正座してぼうっと真っ正面を見据えている。端正な顔の左目には縦に長い傷が入っており、その瞳は何の感慨もなく蒼い光を淡く発している。
かたやその隣に座る長髪の男は、クスクス笑うのが癖なのか、ヒコの幼い顔を見て無邪気に微笑み、温くなった茶を頻繁に啜っている。どうやらこの男の命令で、薊丸を折った男は動いているらしい。
「まだ名前を名乗っていなかったね。僕はマティーナ=エーダス・オーピック。先日フランスからやって来たばかりだ。気軽にマティーナと呼んで貰って構わない。アルケミスト(錬金術師)をやってる。
そうして僕の隣のこの超絶かっこよくて強い兄さんが、エミリオ=グリース・オーピック。
君が察した通り、兄さんに意志はない。命もない。僕が思った通りに動いてくれる最高の兄さんだ」
「つまり・・・人形と言うわけか?」
ヒコは怪しいものを見る目つきで、エミリオの顔を見て、指さす。
「ノンノンノン。人形だなんて簡単な括りで例えて欲しくないね。この世で最強絶頂の所謂オートマータだと思ってくれたらそれが一番イメージに近い」
「お・・・おーと何だ」
「元生きてたオートマータ。二年前不慮の事故で天国へ逝ってしまった兄さんを僕がこの超天才的な腕で再び生命を吹き込んだ。ま、その事故の時僕も片足を失ったけどね。残念ながら僕の究極的な才能を持つ腕でも満足できる義足は作れなかった。だから車椅子の人生を送ってる、って訳だ。
ま、兄さんの介助もあるから生活に困った事はない。今回の件を除けばね」
そうしてマティーナは茶菓子をぱくりと飲み込んだ。
「今回の件とは・・・除霊の事か」
「C'est vrai!君に頼みたいのはその辺だ。
実はオーピック家の遺産を整理してたら日本に大きな邸宅を持っていた事が判明してね。アルケミストとしては別にオーピック家の遺産なんぞ興味はないからさっさと整理してオートマータの存在に喧しい『チャーチ』の手の届かない日本の邸宅を残して全て売っ払ってしまった。しかし、だ」
マティーナは独り演説を続ける。どうやら喋り出したら止まらない性格の様だ。
「日本のオーピック邸は長いこと放置されてたからぼろぼろでね。一応修繕こそしたものの・・・どうやら要らないものまで憑いていたらしい。夜も更けて眠ろうとするとガタガタ騒霊が煩くてさ。今は情けないホテル暮らしだ。
こんな生活を続けるのも何だからね。君の古い噂を聞きつけて一か八かここを尋ねてみたって訳だ」
ここまで一気に口述して、またマティーナはお茶を飲む。空になった湯飲みを置いて、ヒコの戸惑っている顔を見ると、その細面の顔を再び笑顔に歪めた。
「除霊は構わんが、ただとは言わんのだ。騒霊などお茶請けにもならぬ」
先日のがしゃどくろの様に食べ応えのあるやつなら喜び勇んで除霊に向かうところだが、ただの騒霊となるとがしゃどくろ並の魔石は採れない。何かプラスアルファが欲しいところだ。
「そのリング、ぼろぼろだね」
ヒコはマティーナの一言にはっとして、左手に填められたセルジュの指輪を見た。五百年使い続けてきたからなのか、赤く光る宝石の部分は無事でも、銀細工の部分は随分と煤けてきていた。
「僕に任せてくれりゃ綺麗に修繕してあげるよ。それでどう?」
そうしてまた、マティーナはクスクスと笑った。苦笑の体といったところだった。
「・・・。わかったのだ」
母ににゅうめんを茹でてもらって、司は減っていた腹にずるずると啜った。すると、そのぴったりのタイミングで、玄関の呼び鈴が鳴った。母の方を振り向くと、司がすずから貰ってきた白菜の浅漬けの仕手で忙しいらしく、背中で暗に「あなたが行ってきて」と言われている様で、無言のプレッシャーを感じた司は席を立ち、玄関を開けた。
玄関先には奇妙な男が立っていた。真っ黒なコートに身を包み、黒い鳥打ち帽を目深に被って、矢鱈背が高く、司を蒼い目で見下ろしていた。
男は固い顔をにっこりと笑顔に歪め、司に諭す様に言った。
「こちらにヴァンパイアが居る、と聴いたのですが」
直感でわかった。こいつにヒコの居場所を教えちゃいけない。そんな気がして司は反射的に嘘をついた。
「そ・・・そんなものいません!何ですかあんた!」
「そうですか」
男は懐から名刺を取り出し、両手でうやうやしく司に渡した。英語で書かれていて、何の意味があるのか司にはわからなかった。
「この町の教会に配属になりました宣教師のミーシャと申します。機会があれば是非お寄り下さい」
からからとマティーナの車椅子の車輪が鳴る。エミリオが無言で押す車椅子の速度に合わせて、ヒコはてくてくと歩く。
「ここがオーピック邸だ」
マティーナが指さす先に、その屋敷はあった。豪奢な二階建ての洋風邸宅。ヒコはこんな建物がこの街にあったなどとは知らなかった。恐らくヒコが眠りについてから建てられたのであろう。見た目は綺麗に修繕され、漆喰の壁などは白く美しかったが、どこか禍々しく感じられた。
「マティーナと言ったか。貴様『騒霊』と言ったな」
「ん?違うの?」
またマティーナはクスクスと笑う。
「騒霊どころの騒ぎではないぞ・・・否、確かに騒霊には違いないが数が半端無いのだ」
時間が経ってすっかり自然修復された薊丸を抜いて、ヒコは洋風の門を潜った。何処かで鴉がぎゃあと鳴いた。空気が紫色に濁って見えるのは、霊がそれだけ多い事の証左だ。
「貴様は外で待っていろ。中に入ると危ないのだ」
「そうさせて貰うよ。面倒は嫌いでね」
ギィ、と音を鳴らして重苦しい扉が開く。その瞬間、ざわざわざわっ、と黒い気配が日の光を逃れるかの様に階段の隅、部屋の隅に逃れていった。そして、ギィイ、バタン、とヒコの背後で扉がゆっくり閉まった瞬間、隠れていた『それ』は一気にヒコに襲いかかってきた。
「セルジュ!一気に薙ぐぞ!」
ばさとセルジュの羽が指輪から出て来て、軽くヒコの身体を宙に浮かせると、目にも止まらぬ早さで大広間の隅から隅までの騒霊を一気に薊丸で薙ぎ斬ってゆく。またセルジュの羽にも霊を斬る力が備わっているのか、黒いセルジュの腕に触れた騒霊がキィッと音を立てて蒸発した。それを何回も繰り返している内に大広間の騒霊は一掃されてしまったらしく、しいんと静寂が辺りを覆った。
「騒霊の源はあっちか」
逃げていった騒霊は、真っ黒な煤の様な粉を床に残していた。粉の跡は、食堂を経て地下倉庫へと続いていた。かつん、かつん、と軍靴を鳴らして歩く。わざと鳴らして歩くのには訳がある。騒霊は本来とても臆病なものだ。自分から怖い存在が此処に居ると示せば、余程のことが無い限り(先刻の様に数が半端無いなら話は別だが)襲ってこない。
真っ暗な階段を降りてゆく。暗闇の中でも見通せる程ヒコの目は良い。元より暗闇に生きる魔性の者であるから当たり前の話と言えば当たり前なのだが。
地下倉庫の扉に突き当たって、ドアノブに手をかけた。ぞわっ、と寒気を感じた。が、怯む訳にはいかず、ヒコは薊丸を持つ手に力を込め、ギィと扉を、
途端、ヒコはぎゃっと悲鳴を挙げた。津波の様に騒霊の群れが、階段を目掛けて押し寄せてきた!というよりむしろ、地下倉庫でふくれあがって出られなくなって溜まっていた騒霊が、ドアが開いた事で一気に外に噴き出した、といった形だった。
セルジュは機転を利かせて、地下倉庫への階段を塞ぐかの様に翼を張り巡らせた。皮膜に当たった大量の騒霊がじゅうじゅうと音を立てて焼き切れてゆく。ヒコも一瞬の怯みを補う勢いで薊丸を夢中で振った。暗闇の中、薊丸の紫色の魔力を秘めた軌跡と、ヒコの赤い眼、そしてきらきらと地面に落ちる小さな魔石だけが浮かんで見えた。暫くそうしている内に、騒霊の勢いが弱まってきた。ヒコは意を決して地下倉庫内へと踏み込む。
そこは煤だらけの壁、床、天井。何もないその空間に、ぽかんと黒い大きな物体が浮かんでいた。ヒコが目の前に立ち、薊丸を構えると、ぽいん、と音がして、白く丸い目の様な模様が黒い物体にへばりついた。
『ぼくたち、なんにもわるいことしないよ。ちょっとおどろかせちゃっただけだよ』
黒い物体・・・則ち、騒霊の親玉はそう喋った。ヒコにしか聞こえない、精神に直接訴えかける声だった。
「ここにはもう人が住む。貴様等は出て行くしかあるまい」
『もうわるいことしないよ。だからここにいさせて』
騒霊の丸い目玉・・・と言っていいのか分からないが、目玉からぽろりと涙の様な粒が零れ出た。
「諦めろ」
『おねがい。もうほかにいくところがないよ』
ヒコは腕を組み、ふうと溜息をついた。全く、ヒコは泣き落としには弱い節がある。
「・・・。少々待っているのだ」
玄関から出て来たヒコの煤だらけの格好を見て、外で待って居たマティーナはぷっと噴き出した。
「ご苦労様」
「マティーナ。貴様、錬金術師と言ったな」
「ん?そうだけど?」
ごしごしと煤けた頬を軍服の袖で擦って、ヒコはマティーナにある提案を持ちかけた。
「騒霊と一緒に住む気はないか」
「ちょ、冗談よしてよ」
マティーナは苦笑混じりに言った。苦笑しなければ爆笑していた。
「指輪の件は遠慮しておくのだ。その代わり、貴様の作る結界で騒霊が住む場所を作ってやって欲しいのだ。そうすれば結界内に湧く騒霊をヒコが食えるし、貴様も無制限に増える騒霊に悩まされる事は無い。悪い提案ではないと思うが。どうだ」
流石のマティーナでもこれには直ぐには賛成しかねた。俯き唇に手を当てて悩んで居るマティーナを見たデュファイが、何を思ったか薊丸から本来の形に姿を変え、ヒコの提げていた鞄を徐に開けると、
中に入っていた騒霊から出て来た魔石を一掴み取り出して、わざとらしい声で叫んだ。
「あー!こんなに魔石が出る程騒霊居たわー!ほんと疲れたわー!」
ヒコもこれには呆気にとられた。デュファイの奇行に続く様にセルジュが指輪から飛び出し、またヒコの鞄から魔石を取り出すと、マティーナに見せつける様に魔石を翳してデュファイがやった様に大声で言った。
「いやー!大変でしたのう!しかしこれだけ採れるとなると逆に困りますのう、デュファイ!」
「ほんとよねー!あー困っちゃうわー!こんだけ居ると食べきれないわー!」
ヒコはぽかんとして二人の夫婦漫才を見ていたが、ふとマティーナの方に目をやった。
マティーナの様子が変だ。魔石をわなわな震える指でさして、口をぱくぱくさせている。
「う・・・」
ちらとデュファイの目がマティーナの表情を捉える。そこに畳み掛ける様に、
「いやー!こんだけあると実験にも困らないわよねぇー!そうよねセルジュー!!」
「ほんにこれだけあると錬金術にも困る事はなかろうのう!最近は魔石の確保にも苦労がかかると言いますしのう!!あー困ったもんじゃ困ったもんじゃ!これだけあると坊ちゃまも食べきれますまい!!」
マティーナの目がきらきら光っている。
「・・・う、Oui, Bravoooo!素晴らしい!是非、是非分けてくれ!」
「勿論たーだーでーとは言いませんわよねー!だーって錬金術の世界では貴重な『モルクワァラ』ですものねー!」
「も、もるくわぁら・・・?魔石の事か?」
「ほっほっほ、坊ちゃまは西洋に行った事が無いから知りますまいが、錬金術の世界では非常に貴重な素材ですじゃよ!そ・れ・が!!こーんなに沢山!!儂が錬金術師なら何が何でも無条件でモルクワァラを取りますわい!」
マティーナは既に興奮の坩堝の中にあるのか、拍手さえして目の色変えて魔石を見つめて叫んでいる。
「Donne-le-moi!merveilleuse!騒霊をモルクワァラに変えてくれるならもうどうでもいい!」
「きゃー!言ったわね!聴いたわね若!騒霊もそのまんまにしてくれるんですってよー!きゃー!」
とにかくよくわからないが、ヒコは肩をなで下ろした。騒霊は結界の中でという事になるにせよ、そのままで暮らせる様になったらしい。
流石に地下への階段は車椅子のまま降りられない。エミリオに抱き抱えてもらって、ヒコを前に立たせ、階段を降りてゆく。
地下倉庫には騒霊の親玉がそのままの姿で居た。初めて見る騒霊に、マティーナの目が好奇心で輝いた。ヒコはざっと足を鳴らし、足許に少々湧き出始めていた子騒霊を追い払った。
「約束が成立した。これから貴様は結界の中で暮らす事になるのだ。無限に増える事はまかりならん」
『それはかまわないよ。ぼくたち、このままでいいの?』
「うむ。いいのだ。マティーナ、結界を」
言われる前にマティーナの手に、淡く紫色に光る結界石が四つ握られていた。何かラテン語の様な響きの言葉を唱えながら、地下倉庫の四隅に丁寧に結界石を置いてゆく。置かれた石と石の間に、電流の様な金色の光が結ばれている様に見える。
「階段に出て。結界を張るよ」
そうして騒霊の親玉を後にして、地下倉庫を出る。
「・・・」
ひとこと、ふたこと、何か唱えたかと思うと、マティーナは結界の光にとんと触れた。するとその瞬間、バチバチッ、と激しい音を立て、結界の電流が壁となって立ち上った。そしてバタン、とマティーナの手が地下倉庫のドアを閉めた。
マティーナは懐から首掛け紐の付いた鍵を取り出して、ヒコに手渡した。地下倉庫兼、結界の鍵だ。
「月に二十個だ。それだけ利用料としてモルクワァラを貰う。後は自由に使うがいいさ」
「わかったのだ」
「あ、それと」
「何なのだ?」
立ち去ろうとするヒコを呼び止め、マティーナはクスクス笑いながら言った。
「地下室使うのにわざわざ挨拶はいらないからね。君が来る時間帯は丁度『お邪魔時』だから」
「???」
意味を察したらしいデュファイが、どこか吐き捨てる様に呟いた。
「・・・変態だわ、この兄弟」
「・・・?どういう事なのだ?」
「丁度ちゅっちゅあんあんしておる時という事ですじゃ」
「セルジュ!あんたも言葉選びなさいよ!」
そうしてオーピック兄弟、去ってゆくヒコの姿を玄関先で見送った。ヒコの胸には金色に光る小さな鍵がぶら下げられていた。振り返って笑って手を振るヒコに、マティーナも笑って送ってやった。
その時、ふと背後に気配を感じ、エミリオを振り向かせた。マティーナの脳に直接埋め込んでいるチップから送られてきた画像には、降りしきる雪の中、先刻上城家を訪れたミーシャと名乗る男が映っていた。
『・・・流石チャーチだ。ヴァンパイアがいるとなると動きが速いじゃないか』
マティーナはフランス語でそう言った。反射的にエミリオが格闘の構えを取る。ミーシャはフランス語にも堪能らしく、鳥打ち帽をさっと脱ぐと、柔和そうな笑顔を浮かべた。その右腕には、聖布にくるまれた槍が携えられていた。
『今日はマティーナさんを追ってきたんじゃないんですよ。ヴァンパイアを追ったら貴方が居たという寸法です。だからエミリオさんの構えを解いてくれませんか。害をくわえる気はありません』
すう、とミーシャの背後に例の影が寄り添った。影は自分の身を覆っていた聖布をばさと左手で取り去った。そこには、豪奢な金縁が縁取られた鎧兜で武装した、鳥の羽の生えた生物・・・否、例えるならば「天使」が居た。
『ミーシャ。彼はヴァンパイアと契約した。「削除対象」にあたる可能性がある』
『慌てるなよアーレフ。オートマータくらい何時でも潰せる。今はヴァンパイアを追うべきだ』
ミーシャの冷たい一言に、マティーナの眉間に深く皺が寄る。
『言ってくれるじゃないか・・・殺ってよ、兄さん』
瞬間、マティーナは懐から小瓶を取り出し、勢い良くミーシャに投げた。小瓶はミーシャの眼前で破裂し、ミーシャの頬をじゅうと焼いた。硫酸。ちっ、と舌打ちしたミーシャに向かって間髪入れず飛び込んできた影があった。右の拳を思い切り振りかぶったエミリオであった。ガツン、と人間では考えられない力でエミリオはミーシャの左頬をカッ飛ばした。が、吹っ飛ぶにせようまく受け身を取られ、今度は聖布を剥いだ槍がエミリオの胸元をざっくりと刺した。一瞬バチと電流が爆ぜ、エミリオは動きを止めた。だがそれも一瞬、直ぐに再起動したエミリオの大きな右手が、射程距離に入ったミーシャの頭を掴んだ。
『早く兄さんから槍を抜きな。じゃないと頭破裂するよ』
凄みを帯びたマティーナの腹の底からの声が響く。エミリオに傷を付けられた事が相当頭に来ているらしい。オートマータのエミリオの手に手加減などと言う概念は存在しない。マティーナがその気になれば何の躊躇もなく、西瓜の様にミーシャの頭を砕くだろう。だがミーシャにも、アーレフという存在がいる。アーレフは幅広の大剣を抜き、いつの間にかエミリオの背後、マティーナの首を捉えていた。
刹那、信じられない光景が眼前に繰り広げられた。ミーシャの手に握られて居た槍が、ふいと消えた。まるで幻か何かの様に、痕跡も残さず。残されたのは、腕に巻き付けられている聖布のみ。
『言ったでしょう、今回の標的は貴方達ではないと・・・失言は撤回しますよ』
『僕がヴァンパイアに「餌場」を提供したとしてもか?』
『「餌場」くらい貴方が提供しなくてもこの町にはいくらでも存在します。その気になればうちの教会の裏の西洋墓地でも、ね』
エミリオの手が、ミーシャの頭をふいと放した。踵を返して、マティーナの首に剣を掲げたままのアーレフににじり寄る。ミーシャの手が上がった。アーレフに下がれ、と命令したらしい。アーレフは剣を鞘に収め、再びミーシャの背後に音もなく寄り添った。
『で?追わないの?ヴァンパイア』
首をコキ、と鳴らして不機嫌そうにマティーナは言い放った。聖布を丁寧に折り畳みながらミーシャは笑って言った。
『今の俺にはヴァンパイアと闘う力などありませんよ。時はまだ来ていません』
時は僅かに過ぎてしまった。アーレフの力が最高潮に達する満月の日は昨日であった。二十七日後、それがヴァンパイアを掃討する日だと暗にミーシャは述べている。マティーナは何かを考え込む様に動かない。
『満月の日はおよしよ。ヴァンパイアも本気を出せる日だ』
『互角だと言いたいのですか?俺とアーレフ、そうして「ロンギヌス」があっても?』
笑ってミーシャは再び手の平から光を発し、槍の形を描いた。すると不思議な事に、例の古ぼけたレリーフの施された槍・・・「ロンギヌス」が具現化した。
『向こうにも「La bague de la chauve-souris」と「Chardon」がある。ほぼ互角さ』
「蝙蝠の指輪」と「薊」。ヴァンパイアを狩るものならば誰もが知っている、ふたつの秘宝だ。西洋に伝わるふたつの秘宝が、何故日本に。そして西洋にしか居なかった筈のヴァンパイアが、何故日本に。
その秘密を知って居るのは、当の秘宝ふたつ、そして、当の本人、ヒコしかいない。
「へぶしっ」
ヒコのくしゃみが、路地に木霊した。
「あら若、風邪?」
「あー・・・わかんないのだ。うー、早く帰ってママ上のあったかいご飯を腹一杯かッ込むのだ」
すずの白菜があれだけあるという事は今日は白菜料理・・・多分鍋だろう。鍋はよいものだ。家族みんなで同じ鍋をつつき、暖かく談笑する。ヒコがしばらく味わっていなかった、至福のあったかい時。
「冬時だからきっと鱈がうまいのだー。あと牡蠣も・・・あっ、ふぐもきっと美味しいのだー」
ヒコの目の前には既にほっかほかに炊けた鍋の図が描かれていた。よだれがじゅるるると口内に溢れ出る。ヒコの頬が幸せそうに緩んだ。
そうこう妄想を膨らませている内に、いつの間にか上城家の前に居た。
「ただいまなのだー」
「あらヒコちゃんおかえりー。今日はお鍋よー」
ヒコ、軍靴を勢い良く脱いでどたどたと小躍りしながら食卓へ走った。
「なべ!やっぱりママ上は最高なのだ!!」
既に食卓についていた司は、今日来た奇妙な来客の事をヒコに伝えようとした。だが、何だか物凄くあれが不吉な存在な気がして、矢張り言うのをやめた。
言ったらヒコが、一気に遠い存在になる様な気がしたから。
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