第19話

桜田門外の変とは、


江戸城桜田門の前で、井伊直弼が水戸藩士により斬首された事件です。


安政7年3月3日(1860年3月24日)の出来事です。


桃の節句祝賀のため、在府大名が総登城の日に事件は起こりました。


3月24日と言えば季節は春です。しかし、この日は異常気象で未明から大雪となり、寒い日でした。


午前8時に桜田門が開門。列をなして待っていた諸大名が桜田門をくぐり始めます。


御三家尾張藩の行列が通り終わった午前9時頃に、彦根藩の行列が進み始めます。桜田門から僅か350mの距離に彦根藩上屋敷はあったのです。


大名行列を見物する町人が沿道で見守る中、彦根藩の行列が松平大隅守の屋敷(杵築藩藩邸)にさしかかった時、突如として、駕籠訴を装った水戸藩士・森五六郎が行列の前に飛び出します。


何事かと警備兵が前方に移動した当にその時、水戸藩士・黒沢忠三郎の拳銃の銃撃を合図に襲撃隊が井伊直弼の籠を狙って一斉に切り込みました。


襲撃隊は、関鉄之介率いる水戸藩士17名と薩摩藩士有村次左衛門を加えた18名です。


襲撃時は、激しい降雪の為、行列警護の武士達は刀に柄袋をかぶせ、即座に応戦出来ぬ態勢で、これが襲撃に幸いしました。


総勢60名の行列ですが、警護の武士は20名ほどで、前日までに水戸浪士の不穏な動きが情報として伝えられていた筈なのですが、かなり手薄な警護となっていました。


最初の銃撃で深手を負った井伊直弼は身動き出来ず、駕籠から引きずり出され、その首を薩摩藩士・有村次左衛門が切り落としたのです。


この間、僅か3〜4分の出来事でした。



井伊直弼が水戸の脱藩藩士により暗殺されたと言われますが、これは暗殺と言うより、彦根藩の大名行列の最中、衆人環視の中で決行された事件で、言わば公然の襲撃です。


襲撃したのは水戸藩士という事が分かり、当然、彦根藩から水戸藩へ逆襲しようという声が上がります。しかし、それを幕府がとりなして抑えます。


「襲撃者は水戸藩士ではない。脱藩の浪士である」


当日、井伊直弼が亡くなったのは明らかでしたが、幕府は「大老は怪我を負ったが生きている」と発表しています。


幕府としては、そうせざるを得ない事情がありました。


問題を起こした藩や、後継が確定していない藩は、取り潰しに処す決まり事があるのです。


安政の大獄で、やり過ぎだと不信を買い、幕府の権威が失墜する状況下で、更に水戸藩、彦根藩を取り潰すような事態は、幕府の体面上、なんとしても避けたかったのです。





2017年現在から遡って数えると157年前です。


明治と元号が変わったのは1868年ですから、その8年前の出来事でした。


この事件が引き金となり、ここから薩摩、土佐、長州各藩が大きく動き出し、明治維新へと繋がるのです。



余談ですが、歴史小説家、司馬遼太郎は対談で次のように語っています。



「暗殺事件が事態を好転させた例はない。明治維新を肯定するならば、桜田門外の変は、その唯一の例外です」と。





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次に歴史から学ぶという事について






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