第18話



資料を当たっている際に、驚きの発見をしてしまいました。


「これは? まさか!」


偶然にしては出来すぎています。


この不思議を記すべきと感じました。


村上吉子という女性についてです。


泰姫の侍女として、京都から随従して来られた方です。


泰姫より2歳若く、当時15歳です。泰姫の身の回りの世話をする役目です。


泰姫が亡くなった後、村上吉子は京都へ帰ろうとしますが、光圀公は彼女に水戸藩へ留まり、奥向きを仕切るよう指示しています。


結局、光圀公が亡くなるまで側近として仕えました。


その功績により、光圀公が臨終の際、ただ一人、看とりを許された女性でした。


では、村上吉子とは、どんな人物であったか?


安藤年山という学者が『年山紀聞』に記しています。


《10人並み以上のなかなかの美人で、長い宮仕えの間も常に慎ましく怠りなく、忠実で平静な心映えで、出しゃばったり贔屓をしたり、あるいは人を貶したりは決してしない。いつも状況を見て的確に対応し、事を荒立てないで上手に処理する。顔も美しいが、心はもっと美しい、と人々は評判する。その上、光圀と泰姫を見習って学問にも励み、漢文の書物もよく読み、文章も本格的であり、漢詩や和歌にも優れた才を示した。何事もよくわかっていて、どんなことにも的確な答えが返ってくる。男ならば、あっぱれ重鎮となるべき器の人である》



泰姫と村上吉子は共に美しく上品な京都の女性でしたが、お茶目な側面のあった泰姫と対照的に、村上吉子はクールで聡明な女性であると分かります。



また、大日本史編纂で功績を上げた学者・安積澹泊(あたかたんぱく)も村上吉子を「水戸藩に仕えること30余年、奥向きのものは皆慕っていた」 と記しています。


生涯、独身でした。四十を過ぎても水戸藩家臣から嫁にと幾度も望まれたようですが、彼女が首を縦に振る事はありませんでした。その代わりに養子をとって育てています。



村上吉子の自筆の歌集『左近詠草』が養女の嫁ぎ先を通じて残されており、水戸市指定文化財となっています。



さて、ここです。


『吉子詠草』ではなく、『左近詠草』です。


村上吉子は左近局さこんのつぼねと呼ばれていたのです。


吉子女王と左近桜については先述した通りですが、泰姫の侍女が【村上吉子】という名の、しかも【左近局】と呼ばれた女性であった。


これは単に偶然なのでしょうか?


水戸市の常照寺に、光圀公自筆の「楷法千字文」が左近局によって奉納され、現存しています。


『左近詠草』の奉納の詞書に依れば、


漢文を習得しようと苦心していた左近局に対し「千字文を習熟すれば後は自然に進歩するであろう」と、光圀公が手ずから筆写して下さったものである、というのです。


恐らく若い時の事と思われますが、異例の事です。


光圀公は泰姫が病死した後、正室を娶らなかった。31歳の若さであったにも関わらずです。


それは何故か ?


勿論、泰姫との思い出を大切にしたかったからです。


しかし、私は、それだけではない、もう一つの理由があったと考えるのです。


それは左近局さこんのつぼねが傍に居たから。


光圀公は左近局の中に泰姫を見ていたのではないか? 推理です。


そうでなければ、忙しい光圀公が一介の侍女の為に千字文の書写などをする訳がないからです。また、泰姫の侍女という身分なのですから、役目を終えれば京都に帰しても良い訳です。けれども、光圀は、そうはせず、奥向きを仕切るように指示しています。その権限は本来なら正室のものです。京都から泰姫と共に来た女性に、泰姫亡きあと、村上吉子に、その面影を投影し、泰姫の代理として傍に置きたいと考えたとしても不思議ではない。私は、そう思うのです。


さて、では何故、村上吉子が左近局と呼ばれたか?


左近・右近とは、左近衛府・右近衛府の意味で、近衛、つまり天皇に最も近い位置で護衛にあたる人を指します。


左近桜については先述した通り、紫宸殿から見て左(東)にあるので左近です。


「君子南面す」という故事があります。これに倣って、天皇・位の高い指導者というものは、必ず南に向いて座り訓示するのです。


指南するとは、正しい道理を教える事ですが、ここから来ています。


紫宸殿は南に向いています。



さて、左近局です。


左近とは右近より上位の意味でもあります。


つまり、左近局とは、最も信頼出来る女性として宮家から選ばれた人間を意味しています。


村上吉子は、見事にその大役を果たしました。泰姫亡きあと、泰姫の代理の役目を果たしました。だからこその左近局なのです。



光圀の妻・泰姫と左近局(村上吉子)

斉昭の妻・吉子女王と左近桜


この名前と由来を考える時、その符合に驚きを禁じ得ません。

果たして偶然か、必然か、運命の不思議を感じるのです。


さて、左近・右近に関して、もう一つ、驚愕の気づきをお伝えしなければなりません。


壮大なスケールの話です。


当時の宮家の思惑とは、このようなものではなかったか?


京都から見て水戸は東に在ります。


左近とは単に紫宸殿の左右ではなく、京都から見て東へ宮家の娘を送ったので、宮家は泰姫に左近局を付け、天皇は吉子女王に左近桜を付けたのではないか?


もし、この推理が正しければ、


泰姫や吉子女王が西へ嫁いだならば、侍女は右近の局と呼ばれ、また嫁ぎ先へは右近の橘が贈られた筈なのです。


断定は出来ませんが、そのように思えるのです。いえ、そのように推理してみましたという話です。



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次に桜田門外の変についてです。


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