第16話


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「ご馳走さまでした」


新三郎は箸を置いて頭を下げた。


「まあっ! もう良いのですか? そんなに急がずとも江戸は逃げませんわ。落ち着きなさいませ」


紫織は食べずに側に居た。新三郎に茶を淹れる。


「はあ、しかし、先に紫織どのから問われた話を済ませておきましょう」


「そうですわ。この頃は門弟達まで城内の事について噂をしています」


「噂とは?」


「沢山の派閥争いになっているとか」


「ええ。そうです。会沢正志斎先生が戊午の勅状を幕府へ返納すべしと言い出した為に……いや、これは斉昭様と慶篤様の水戸藩主としての立場を考えての事だとは分かるのですが」


「戊午の勅状とは何なのです?」


「先年、戊午の年(ぼごの年)に、朝廷・孝明天皇から、江戸幕府よりも先に、水戸藩へ下された勅命の事です。諸藩の大名を集めて評議を尽くせと。孝明天皇は幕府を、いや、井伊大老の勝手をお怒りになった」


「まあっ! そんなことが!」


「その勅状を幕府は返納せよと言って来たのです。しかし、尊皇の筋目から言って、幕府の言いなりになる訳にはいかないのです。我等は長岡宿で、くいとめた」


「返納? 水戸藩は徳川幕府の親藩なのでしょう? 御三家の中でも唯一、参勤交代を免ぜられた特別な藩として、領民の誇りでもあると聞いています。それが何故、幕府と諍うのですか?」


紫織の疑問は、尤もであった。


「いや、そこなのです。藩としては親藩の立場にある。しかし、第2代水戸藩主・徳川光圀様以来、 大日本史に基づく水戸学の基本は尊皇なのです」


「尊皇?」


「そうです。尊皇です。将軍といえども勝手は許されない。天皇の臣下として働き、大事に際しては朝廷に伺いを立て、勅許を頂いた上で事に当たる。これが筋目なのです」


新三郎は足を組み替えた。


「そうなのですか」


「それを大老は勅許を得ずに独断で異国との通商を進めた! あまつさえ、将軍に幼君を据え、将軍の命と称して斉昭様を蟄居に追い込んだ!」


「まあっ! そんなことが!」


「そればかりか家老の安島帯刀様を呼び出し、詮議に及んだ。無罪となったのに、再度、詮議をかけた。また、無罪となったにも関わらず、井伊大老は強引に切腹させたのです!」


「まあっ! なんて非道な!」


紫織は顔色を変えた。


「斉昭様が蟄居中で指揮を執れないのをいいことに、門閥派の家臣が息を吹き返して藩政を牛耳ろうとしている。慶篤様は、お若い。藩内が揺れているのは、この為です」


「派閥の諍いとは、そのことなのですね?」


「そうです。我等は弘道館で藤田東湖先生の教えを学び、斉昭様に取り立てられた。朝廷に弓は引けない。 水戸学は尊皇敬幕なのです。倒幕ではない。そもそもの問題は幕府というより、幕臣・井伊直弼の勝手な振舞いにあるのです!」


新三郎の言葉は義憤に満ちた。


「大老は将軍名で斉昭様に蟄居を命じた。老中首座の阿部正弘殿の信任篤く、海防参与であった斉昭様をです。老中首座の阿部殿を暗殺したのは井伊直弼の仕業に違いないのです。許しがたい。だからです ! これ以上の横暴は許さじ ! 命を懸けて我等は逆臣・井伊大老を討つ ! 斉昭様に報じるのです ! 」


「まあっ ! 大それたことを ! そんなことをすれば……」


「ええ。無論、承知の上です ! しかし、為さねばならない。井伊大老を討って流れを変えるのです。後のことは俊英の誉れ高い一橋慶喜ひとつばしよしのぶ様が指揮を執られる。慶喜様は将軍になられるでしょう。慶喜様は斉昭様の息子です。ここまで紫織どのに明かした上は、最早こうしては居られない。先生にお伝え下さい。新三郎は行きましたと」


彼は立ち上がった。


「いけません ! 」


紫織は新三郎の袖に取り縋った。


「止めないで下さい。これは私憤ではないのです。私でなくとも誰かがやらねばならない。このままでは水戸藩が、いえ、日本が瓦解してしまう。家老の安島帯刀様は、大老の横暴に屈服することなく、天皇の勅命を守り、殉死されました。橋本左内先生、吉田松陰先生までもが大老に殺された。大老の専横を止めなくてはいけない」


新三郎は紫織の手を振り払った。


「なりません ! 新三郎さま ! 」








▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼



「あの時……江戸へ発つ時のこと。済まなかったね」


「そうよ。あれほど頼んだのに、あなたは私を連れて行ってくれなかった。どれほど悲しかったか。胸が張り裂けそうに」


紫穂の眼に涙が湧いた。


「あなたは、あの時、私に言ったわ。大老を討てば、ただでは済まない。江戸で死ぬかも知れない。もとより覚悟の上ですと。だから、もう」


感極まって紫穂の言葉が途切れ、その眼から大粒の涙が零れ落ちた。


「もう、紫織どのに逢えません。しかし、いつの世にか、必ず紫織どのを探し出して幸せにします。妻にします。約束しますと。あなたは、そう言った。そう言ってくれても悲しいものは悲しかった」


紫穂は、ぼろぼろと涙を溢れさせながら続けた。


「あなたが行ってしまう。遠いところへ。駄目! 行かないで! あなたの姿が見えなくなるまで、私は胸の中で力いっぱい呼びかけた。新三朗さま! きっとね! 必ずよ! いつか、必ず探してね! お願い! もう一度、振り向いて! そうしたら、あなたは一度だけ振り返って、手を振ってくれた。それが最後だった」


新太は袖を眼に当てていた。


「でも、良かった。今は幸せよ。あなたは約束を守ってくれた。約束通り、私を探してくれた。そうよね?」


新太は袖を眼に当てたまま、黙って何度も頷いた。


「あれから8年後に、江戸が東京になって元号が明治に変わったわ。明治になって斉昭さまの奥様は、しばらく、この好文亭に住まわれたの」


その言葉で、新太は眼を上げた。


「斉昭公の奥様が、ここへ?」


新太は、好文亭を見上げた。


紫穂がハンカチで瞼を押さえている。


次いで、新太の目元を拭いた。


そうして新太の腕を掴み、耳元に囁いた。


「いつか、この街に住もうね」


偕楽園全体の草木が、一斉に、大きく震えた。





「ママーッ! あの人だよっ! あの人が、ぼくを助けてくれたの!」


子供の声が響いた。


境内で迷子になっていた子供が駆け寄って来る。その後を母親が追って来る。


紫穂は笑顔になり、そっと新太の手を握った。



  ―了―



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