第15話
15
「あなたの、お母上が二度ほど訪ねてみえたのです」
「えっ? 母が? 何故です?」
「なぜですって! 新三郎さまが、たびたび行方知れずになるからではありませんか! 弘道館で学問を修めて聡明な筈のあなたが、お母上の、ご心配が分からないのですか? あなたは、そんな事も分からなくなってしまったのですか!」
紫織の気勢に圧されて新三郎は、たじたじとなった。
「いや、それは……慥かに。ええ。母に心配をかけています。心では詫びているのです。しかし、これには理由があるのです!」
「理由? お母上にも話せない理由があるのですか?」
「ええ。私は脱藩しました」
「まあっ!」
「藩士のままで行動すれば、藩にも父母にも迷惑が及ぶからです。浪士が勝手にやった事ならば、水戸藩の責任は問われない」
「なぜ、そう考えたのです? それは新三郎さまお一人のお考えではないのでしょう」
「そうです。武田耕雲斎どのの指示の下、関鉄之助どの初め十数名の優国の士で決行するのです」
「まあっ! 何をしようと言うのですか!」
「それは…………今は話せません。訊かないで下さい」
「いいえ。駄目です! お話しなさい!」
「し……紫織どの……」
新三郎は困惑した。
新三郎が顔を上げ、視線を泳がせると、ふと床の間に下がる掛け軸が眼に入った。
【忠孝無二】とある。
忠義と孝行は一体のもの。藩主へ仕えて忠義を尽くす事と、親への孝行は相反しない。
そのように生きよと弘道館で習った。
新三郎は湯呑みを傾け、それを置いてから紫織へ向き直った。
「今は、母に心配をかけています。しかし、必ずや母に誉めて貰える時が来ると信じています!」
やや、間があった。
「分かりました。こんど、お母上がみえた時には、そのように伝えます。では、改めて私からのお願いです。もし、新三郎さまと、これっきりになっては私にも悔いが残ります。ですから……」
紫織は、そこで言葉を止めた。
「何です?」
「私を江戸へ連れて行って下さい」
「えっ?」
「あなたが何をなさるか見届けます」
「いや、そんなことは出来ない! 駄目です!」
「では、私が勝手に連いて行きます。父には置き手紙を残します」
「馬鹿なことを!」
「いいえ! 私が勝手にする事です。どうしても連いて行きます! ええ、もう決めましたから」
紫織は晴れやかな笑顔で立ち上がった。
「食事にしましょう」
そう言い残して、紫織は奥へ入った。
新三郎は縁先から庭を眺めた。梅の花が風に揺れている。
花びらが一枚、また一枚と散って行く。
時の移ろいで、梅が散れば桜が咲く。桜が散れば花菖蒲が颯爽と並び立つ。
新三郎は一首、詠んだ。
君がため
我が里いでし 武蔵野に
紫にほふ 花と散るらん
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