第14話

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障子の向こうで人影が動いた。




「紫織さま、私です。絹です」




「あらっ、お絹ちゃんなの?」




紫織はスッと立って縁側まで歩き、3尺だけ開いていた障子を更に広げた。

新三郎が廊下に眼をやると、下働きらしい小女が低頭している。




「明日まで里に居ていいと言ったのに、どうしたの?」




紫織は畳で正座した。




「はい。でも……わたし、こちらのお屋敷がいいんです」




お絹は廊下で、かしこまったまま返事した。




「何があったのです。里でなにか……まあ、いいわ。その事は後で聞きます。顔を上げなさい」




「はい」




顔を上げたお絹は、化粧っ気のない赤ら顔だった。新三郎の眼には、十五、六歳の素朴な娘に見える。




「ちょうど良かったわ。大事なお客様だから、昼餉を用意してちょうだい。台所に魚源から届けてもらったお魚があります。後は任せます」




紫織が笑顔で伝えたので、お絹は安心したようだった。




「はい。山菜を持って参りました。すぐに、ご用意いたします」




お絹は明るく返事をして立ち上がった。そして奥へ向かって歩き出した。




「急がなくて良いわ。丁寧にね。後で私も行きます」



紫織が振り返ると、新三郎は梅羊羮をほおばりながら湯呑みを覗いている。


「あらあら、うっかりしましたわ。お茶を淹れ直しましょう」


火鉢にかけた鉄瓶が沸いていた。


「新三郎さま、急須の蓋を取って下さい」


「急須? ああ、はい」


新三郎が、急須の蓋を取って下がると、紫織は鉄瓶で沸いた湯を注いだ。


「うふふふ……新三郎さまに蓋など持たせたと知ったら父は怒るでしょうね。内緒ですよ。その代わり、美味しい昼餉を差し上げますからね。良いですわね?」


紫織の眼と口許が軽やかにほころんでいる。


「えっ? ああ、無論です。ははは……紫織どのは話が面白い」


「面白い? ええ。新三郎さまだから遠慮なく話せるからですわ。本当はお腹がすいているのでしょう?」


新三郎が急須の蓋を戻し、紫織は湯呑みへ茶を注いだ。


「えっ? わかるのですか? ええ。実は腹が減ってます。昨晩から何も食べずに歩いてばかりで。いや、東藤先生にご挨拶した上で、それから江戸へ向かう途中で食事を摂るつもりでいたのです」


「まあっ! 江戸へ? なぜですの? なぜ、そのように急ぐのです? さては、お家に戻らずに」


紫織は新三郎の前へ湯呑みを置いた。


「いや、昨晩、屋敷を見て来ました。しかし父母へのいとまごいは控えたのです」


「いとまごい? いとまごいとは、どういうことですの! あなたは何をなさるおつもりなのですか!」


一転して紫織の叱りつけるような口調に新三郎は慌てた。


「い……いや、それは……」


新三郎は返答に窮した。


「忘れて下さい。口がすべっただけで。紫織どのだから、つい気を許してしまった」


新三郎は下を向いている。


「ええ。そうね。私も新三郎さまだから心配しているのです。私と新三郎さまの間柄だからこそです。出過ぎたことではない筈です。何か心に決めて水戸を離れるおつもりのようですから、私も本当のことを言います」


「本当のこと?」


「あなたが編笠を外した時、私は嬉しくて胸がいっぱいになったのです。ああ、きっと私を迎えに来てくれたに違いない。新三郎さまは約束を守ってくれた。長く待った甲斐があった。これで、やっと私も世間並みの幸せを……」


新三郎は黙った。そうして紫織の言葉に頷きながら茶をすすった。


「それなのに、いとまごいなどと…………私の胸の内がわかりますか?」


新三郎は顔を上げて紫織を見た。


「私は、もう23なのですよ。若い門弟達からは、いかず後家などと陰口をたたかれて。あなたは、いつまで私を待たせるのですか!」


紫織は涙声で訴えた。そうして目頭を袖口で押さえている。


新三郎は紫織の言葉を量りかねた。


そんな…………そんな子供の頃の約束などを思い続ける訳がない。そんな事は有り得ない! きっと、江戸行きを引き留める為の咄嗟の拵えごとに違いない。だが、紫織の涙はどうだ?  咄嗟のこしらえごとで涙が湧いて出るものだろうか?


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