第5話

5 泰姫を偲ぶ




万治2年(1659年)の元旦。光圀は「元旦に夫人を偲ぶ文」を書いている。


《……物換り、年改れども、 我が愁は移ることなし。谷の鴬百たび囀れども、我は春無しと謂はん。庭の梅已に綻びたれども、我は真ならず謂はん。先年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。鳴呼哀しいかな。幽冥長(とこし)へに隔つ。天なるか命なるか。維(ただ)霊来り格(いた)れ》




「うん…………新年を迎えても、尋子ちかこが居ないので心は晴れない。ウグイスの囀りを聞いても、春の感じがしない。庭の梅が咲いたけれども心から楽しめない。先年は、この時期に、尋子と盃を交わしたのに、今年は独りで香を焚いている。ああ、もう永遠に逢えないなんて悲しいよ。せめて尋子の霊が訪ねて来てくれるのを待ってるよと。そんな意味の事を漢文で残したんだ」





紫穂が向きを変え、千波湖を眺めて黙っている。


新太が顔を覗き込むと、紫穂は涙ぐんでいた。


「全然、違うじゃないの!」


「えっ?」


「テレビの黄門さまは、いつだっておおらかに笑ってるのに。旅をしながら悪代官を懲らしめてるのに。本当の光圀さまは、かわいそうじゃないの」


紫穂がハンカチで目尻を拭っている。


「うん。あれはね。歴史の資料を集める為に全国へ学者を派遣したって話なんだ。光圀公自身は父の頼房公と一緒に鎌倉へ行ってるけど、そこが、いちばん遠い所かなあ。14歳の頃だけど」


「鎌倉へ? 何しに?」


「お父さんの養母の1周忌だよ。頼房公の母だから、光圀公の祖母に当たる人。英勝院」


「えいしょういん? 人なのに建物の名前なの?」


「あははは! 紫穂も、泰姫に負けないぐらい天姿婉順だ。戒名・称号だよ。亡くなった後に付けられる名前のこと」


「ああ、そうなのね。本当の名前は?」


「お勝の方。家康公の側室だけど、この人は金庫の鍵を預けられたぐらいだから、特別に信頼されていたんだろうな。実はね。この人が日本の運命を変えたと、僕は見てるんだ」


「ええっ? 日本の運命を? だって、おばあさんでしょう?」


「いや、この人が居たから光圀公の兄が産まれた。頼房公の長男で頼重っていう人。頼房公は水戸藩の初代藩主。頼重の母の久昌院は、頼房公から堕胎を命じられたんだ。


「えっ? どうして?」


「紀伊家に嫡男が出来たと聞いたからさ。頼重が先に産まれると揉め事になる」


「まあ、ひどい! そんな理由で?」


「それを英勝院が止めて救った。普通は藩主の命令に逆らえないよね。でも、英勝院は頼房公の育ての母だからね。だから、そんな事が出来た。この人の計らいで頼重は、この世に生まれたんだ」



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