第6話 毒蛇

「ダガーおにいさん……機嫌悪いの?」

 シエルが息を切らしながら訊いてくる。

 おれはそれに応えない。

 機嫌が悪いのではない。なれ合いたくないだけだ。守るべきものは、少ない方がいい。


 川の上流に近づくにつれて、瘴気が強まってきているようだ。暑いような、寒いような、嫌な感じがまとわりついてくる。

「ダガーおにいさん。なんか嫌な気配がする」

 もやもやとした淡い紫の霧が流れてきている。

「毒素を含んでいるな。吸い込まない方がいい。シエルは霧の届かない位置まで下がって待っていてくれ」

「ううん、これくらいならあたし、大丈夫だよ!」

 確かに腐りかけの肉とかも、毒化した獣とかも平気で口にするくらいだから、毒への耐性はあるのだろう。

「ダガーおにいさんは平気なの?」

「おれはこの種の毒の免疫は持っているからな」

「? そーなんだ」


 闇の世界を渡り歩くということは、死と隣り合わせにあるということだ。幾度も命の危険に晒され、耐えがたい苦痛の中でおれは生きてきた。しかしそんなことは、シエルは知らなくていい。闇はシエルにふさわしくない。

 霧の中で、何か巨大なものが蠢くのが見えた。

「このニオイ……蛇さん?」

「そのようだな」

 蛇などという生易しいものではないが、それは確かに蛇のかたちをしていた。

 鈍く光る黒い鱗。紅い瞳。青く枝分かれした舌が、口からぬらぬらと見え隠れする。人を3人くらいは簡単に丸のみしてしまいそうな、大きく、そして長い蛇だった。

 大蛇はふしゅうと紫色の息を吐いた。


 こいつは――ヒュドラだ。こいつが川の汚染の原因だったのか。

 それにしても厄介な魔獣が現れたものだ。以前おれたちが戦ったヒュドラより小型で、首も1つしかないが……今の手持ちの得物で太刀打ちできるかどうか。

 蛇はおれたちの姿を見つけ、にやりと笑ったようだった。

 原因は確認できた。原因がわかれば、対処は可能だ。シエルもいることだし、ここは無理はせず、退くとするか。

「シエル、退くぞ。分が悪い」

「あ……う……」

「シエル?」

 シエルの膝が、がくがくと震えている。

 ――しまった。恐怖に呑まれてしまっている。おれは馬鹿か。おれが平気だからといって、シエルが大丈夫なわけがない。あの魔獣を前にすれば、動けなくなるのが普通だ。

 そうだ。おれは今、特殊な力を持ったかつての仲間たちに囲まれているわけではないのだ。背中を預けられる存在は、いない。

 守るべき、弱い存在があることを忘れてはならなかった。シエルはあのドリアードのところへ置いてくるべきだったんだ。


 ヒュドラが素早く、円を描くようにおれたちの周囲を駆け回る。おれはダガーを抜いた。

 ヒュドラは猛毒を持つ魔物だ。さらに厄介なことにこいつは再生速度が尋常ではない。少しの傷なら、瞬く間に治ってしまう。息の根を確実に止めるのであれば、頭、つまり脳を狙うしかない。頭を潰すか、断ち切るか。しかし、図体の割に素早く、狙いを定めるのが難しい。

 おれはいつ振りかわからない、冷たい汗をかいていた。


 蛇の輪がどんどん狭まってくる。初撃が勝負だ。だが、できるのか。狙いがおれなら、まだ対処はできる。しかし、シエルを狙われたらどうする。駄目だ。考えている時間がない。


 そしてヒュドラは震えるシエルめがけて、その牙を剥いた。

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