第5話 一握りの勇気

 逃げてみたものの、地面を抉る恐ろしい脚力のミノタウロスには、すぐに追いつかれてしまう。セエレさんがおしりのあたりから糸を出して妨害するも、大した効果はなかった。

「うーん、ちゃんとした糸を“つくる”時間が必要ねぇん。クレスちゃん、すこ~しだけ時間稼いでぇん」

「うぇ!? わ、わかりました! やってみます!」

 このままじゃ、やられてしまうだけだ。なら、戦うしかない。僕はミノタウロスに向き直り、剣を構えた。

 ミノタウロスから放たれている圧力に腰が引けそうになる。でも、前ほどの恐怖はない。身体は動く。僕は距離を取り、隙を伺う。

 ミノタウロスは笑いながら、斧を振り上げる。ミノタウロスの手が届かないはずの距離。嫌な予感がした僕は、慌てて横に飛び退いた。僕のいた地面が割れていた。ものすごい力だ。防ぎようがない。一発でも受ければ、即死。僕は息を呑んだ。

 ミノタウロスが右足をあげた。足を止めている間はない。動かなきゃ。僕は走って距離を取る。振り下ろされた右足は、ミノタウロスの周囲の地面を陥没させた。逃げるのが遅れていたら、危なかった。僕の全身から汗が噴き出すのがわかった。

「クレスちゃん、ありがとう。離れてぇん!」

 セエレさんの声が後ろから飛んできた。僕はその場から離れた。空気を切るような音が聞こえたかと思うと、びたっとミノタウロスの動きが止まった。ほんのすこしだけ、日の光に当たってきらめく“それ”が見えた。それは細い細い、クモの糸だった。

「グ、オォォオ……!」

「クモの糸はねぇん、鋼よりかたぁくて、ゴムよりも伸びるのよぉん。ワタシがつくる糸はその強度100倍以上よぉん。そう簡単には切れないわよぉ。さ、クレスちゃん、今のうちに逃げましょ」

「は、はい!」

 ところが。

 ミノタウロスの身体からぶちぶちと音が聞こえてきた。頭に血管を浮かび上がらせ、全身に力を込めている。その身体は2倍近くに膨れ上がっているように見えた。糸が身体に食い込み、血が出てきている。

「あらぁ……ジェミナの筋繊維は、ワタシの糸以上みたいねぇん。クレスちゃん、今度はワタシが時間を稼ぐわぁん。クレスちゃんはその間に逃げて」

「え?」

「ジェミナの超馬鹿力で糸がちぎられるのは時間の問題よぉん。一か八か、毒糸で攻撃してみるけど、どうなるかわからないわぁ」

「でも……」

「いいのよぉ。クレスちゃんはまだ若いし、人生これからでしょぉん。ワタシはね、ちょっと疲れちゃったのぉん。ダンナは前の戦いで死んじゃったし、他の仲間たちは人間に捕らわれて……いい糸を作るからっていうので職人に奴隷として売られて。生きていてもつらいことしかないし、隠れて過ごすのにも飽きたし……でも、人間のクレスちゃんにはきっと、これから明るい未来が待っているわぁん。最後に楽しい時間もらえたし、ワタシはそれで十分。もう一回くらい、楽しみたかったけどねぇん」

「セエレさん……」

「さ、行きなさい、クレスちゃん」

 セエレさんは少しだけ微笑んだ。とても、悲しそうに。

 僕は本当に何も知らなかった。モンスターにも家族がある。仲間たちがいる。

 そうか。魔王が倒されて、戦いに敗れたモンスターたちは人間たちに住処を追われたり、つらい想いをすることになったんだ。

 モンスターはみんながみんな、怖い存在じゃない。僕たちもつらい想いをしてきたけれど、モンスターたちも同じだったんだ。姿かたちは違っても、僕たちは同じなんだ。


「クレスちゃん! 何してるの、はやく逃げて!」

 僕はセエレさんの前に立った。ミノタウロスはどんどん糸を引きちぎっているようだった。もうすぐ、動けるようになるだろう。そうなったらもう、手に負えない。でも。

「――守る!」

「……クレス……ちゃん?」

「僕はモンスターが怖い。でも、セエレさんは僕を助けてくれたんだ。なんかよくわからない怖いことされたけど、僕に優しくしてくれた。だから!」

 僕は弱い。全然弱かった。ミノタウロスに傷ひとつつけることもできないだろう。でも、ここで逃げたら僕は一生逃げ続けるような気がしていた。それにレオンさんならきっと、逃げない。絶対に逃げないはずなんだ。


 ――その勇気、忘れるなよ。

 

 レオンさんの声が聞こえた。


「ガアアァァァッ!」

 ついにミノタウロスが動いた。

「ああぁぁぁぁああぁぁぁぁっ!」

 僕はミノタウロスが態勢を整えるその前に、足を前に踏み出した。がら空きの胴めがけて剣を振る。

 剣がわずかに、ミノタウロスの胴に食い込む。ほんの少しだけ、そこから血が飛び出した。

「キサマァァァッ!」

 ミノタウロスの左腕が飛んでくる。僕は引き抜いた剣でそれを防ぐ。

「ぐっ」

 全身がバラバラになりそうな衝撃。激痛。僕は地面に転がった。

 頭がぐらぐらする。体中が痛すぎて、地面にのたうち回る。

 勝ち目なんかない。それでも僕は立つ。負けるか。

「負けるもんかーっ!!」


 ミノタウロスの斧が、目の前にあった。斧はとてもゆっくり振り下ろされているように見えた。頭から両断されるなと僕は思った。不思議と死の恐怖はなかった。最後のその一瞬まで、僕は戦う。僕はミノタウロスを睨みつけた。


 斧が僕の髪の毛に触れるのがわかった。それでも僕は、目を瞑らなかった。


 ――斧が



 僕の頭の上で



 

 砕け散った。



「やれやれ。最後の一体はジェミナかよ。”あの時”みたいに暴走しやがって」

 後ろから、声が聞こえた。忘れもしない。あの声だ。


「はは。そうだ、”あの時”と似てるな。なぁ、ぼうず。強くなったじゃねーか」


「グ……オォアアァァァァ!」

「お前はちょっと静かにしてろ。うるさいから」

 ミノタウロスが一撃で吹っ飛ばされて、地面を割りながら転がっていく。しばらくして止まったミノタウロスは、起き上がることはなかった。

 

 僕は振り返る。


「久しぶりだな。家族は元気か、ぼうず」

 レオンさんは5年前と変わらない笑顔で、そこに立っていた。

 

 僕はそこで、意識を失ってしまうのであった。

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