第7話 歌

「やはり食べないか」

「……ああ」

 ダガーは首を振る。

 あれからシエルは食事を口にしていない。喋ることもなく、ただ、窓から外を眺めているだけ。俺たちが話しかけても振り向きもしなかった。

 シエルにとって空は特別な場所。それが永遠に奪われてしまったのだ。

「こんな時にあいつがいてくれたら、傷も完璧に治せたかもしれないのに」

「……あの女か。しかしあの時に力を使い果たしたはず。期待はできないだろう」

 俺たちがシエルにしてやれることはなかった。だが、何とかして生きる希望を持たせてやりたい。何か……何か手はないのだろうか。


「今度は俺が食事を持って行ってみる」

「ああ。わかった」

 俺はシエルのいる窓辺へと向かった。


 開け放たれた窓。縁に座り、空を眺めるシエルの目は虚ろだった。顔には血の気がない。

「少しでも食べなきゃ、力が出ないぞ。さぁ、シエル……」

 俺の手からスープの入った皿が落ちた。シエルが微かに動く翼で振り払ったのだ。

「あたしのことはもう、放っておいて! もう、どうでもいい! 何もかも……どうなってもいい! 生きていても仕方ないもん!」

「シエル!」

「近寄らないで! 人間なんて……人間なんて嫌い! みんな嫌い! 返してよ! お父さんもお母さんも、あたしの翼も……みんな返してよぅ……」

 シエルはうずくまり、泣き叫んだ。俺はただ、その場に佇んでいることしかできずにいた。



「シエルの父も母も、かつての戦いに巻き込まれ、人間の手によって命を奪われた。それでも人間を憎むことなく、明るく生きてきたんだ」

 その夜。家の外で俺とダガーは何をするわけでもなく、満天の星空を眺めていた。傍らには酒があったが、今は飲む気になれなかった。

「あいつは本当に危なっかしいやつでな。目が離せないんだ。助けたはいいが、懐かれてしまってな。とんだ目に遭ったこともある」

 そういうダガーは少し笑っているようだった。

「……そのおかげで、退屈はしなかったがな」

「シエルはいい子だ。何とかして元気を取り戻してもらいたいな」

 まだ傷も回復していない。このまま食事を摂らなければ、傷が悪化し、死に至ることになる。

「命を奪い続け、死に染まってきたおれが今、誰かの生を願うことになるとはな」

「そんなこと思うなよ。俺だってモンスターを殺し続けてきたんだぜ。お前たちの何倍どころじゃない数をな。そんな俺がモンスターを助けたいと思っている」

 ただ、目の前の命を救いたい。利己的かもしれないけれど、もう、奪うのはたくさんだ。これからの人生では、俺の命を使って多くの命を救いたいと思う。それで救われるのはきっと、俺の心なのだろう。命に対して向き合う。それが俺の成すべきことだ。

 俺はここにきてようやく、自分と向き合うことができた。迷いは捨てる。俺は俺が成すべきことのために行動するだけだ。今は、シエルを救うために何ができるのかを考えることだ。


「静かな夜だな」

「……けっ。もしかしたら考えていることは同じかよ。そうだな、あの日の夜みたいだな」

 ダガーと初めて酒を飲み交わした、あの夜。あの時はまさかここまでの付き合いになるとは、お互い考えもしなかっただろうな。

「そういえばあの夜、空から歌声が聴こえてきたな」

「ああ、覚えている」

 そういうと、ダガーは傍らに置いていた何かを手に取った。

「それ、シエルが言っていた弦楽器か?」

 ダガーは弦を指で弾き、応えた。

「6つの弦からなる、撥弦はつげん楽器だ。リュートにちょっと改良を加えて作ってみた。こうして指で弦を抑え、音程を変える」

 きれいな音色が鳴る。

「お前にこんな趣味があるなんてな」

「酒場で旅の芸人が弾いているのを見てな。見よう見まねでやってみた」

 普通は見よう見まねでやれるもんじゃないんだがな。やはりかなり器用なやつだな。


「……あの時の歌は、こんな感じだったか」

 弦から音色が弾かれ、紡がれていく。

「ああ、そうだそうだ。こんな感じだったな。よく覚えていたな、お前」

「おれの旅の始まりの夜だからな。覚えているさ」

「……そうか」

 美しい曲だった。聞いているだけで、涙が出てきそうになる。俺は音楽のことはよくわからないが、この曲がとてもいい曲だってことはわかる。ああ、あの時の歌が聞こえてくるようだった。あの優しく、とてもとても美しい歌声が――聞こえてくる。俺は目を閉じ、聴き入っていた。

 不意に曲が止まり、ダガーが勢いよく立ち上がる。

「どうした?」

「歌……まさか……」

「え? お、おい」

 ダガーが家に向かって走り出した。俺はそれを追いかける。


 あまりに勢いよくドアが開き、シエルは驚き、目を丸くしていた。しかしすぐに、無表情になり、息を切らしているダガーを虚ろな目で見つめた。

 ダガーはシエルに歩み寄る。

「こないで」

「歌」

「え? きゃっ」

 ダガーがシエルの肩をつかむ。

「今の歌! シエルが歌っていたのか!?」

 すごい剣幕のダガーに圧され、シエルがコクコクと頷いた。

「どこでその歌を!?」

「え、あ、と。お母さんが、むかし――歌ってくれた、子守歌」

「もう一度……もう一度、歌ってみてくれ!」

「う、うん」

 ダガーは再び楽器を鳴らした。それに合わせて、シエルが歌い始める。最初は怯えた様子だったが、すぐに美しい声で歌い始めた。きれいな声だとは感じていたが、こうして歌を歌っていると、数段際立って響いてくる。

 俺の意思と関係なく、涙がこぼれる。胸が熱くなる。

 ダガーが指を止めると、シエルもまた歌を止めた。


「レオン。シエルを連れて港町の酒場に行くぞ」

「え? 今から?」

「いいから行くぞ!」

「お、おう」

「え? あ、きゃあ!」

 俺はシエルを担いだ。このところ何かを担いでばっかりだな、俺。

「あたしは行かな……ひゃあぁぁぁぁっ」

 ダガーがものすごい速さで走り出したため、俺も有無を言わさず走り出した。


 一体ダガーは何をしようとしているのか。


 わからない。ただ、ここは任せるしかないだろう。

 俺たちは夜闇を切り裂き、風をまとって走り抜けていった。

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