福智「夢、なのかな」

「……大丈夫。怒ってないから。ちょっと谷間が見えただけなんだよね?」

「ああ、そうだ。水着の時に見えていた以上のものは見えてない」

 大きく深呼吸を繰り返して、福智は改めて手すりに体重をかけた。

「なら、いいよ。わたしも不用意だったし、怒らない」

「ああ、すまん。俺も気を付ける」

「だから、怒らないって。はあ、ブラを着けてなかったから焦っちゃった。透けて見えてたらどうしようかと……」

「そうか、着けてなかったのか……はぁ?」

 俺が大声を上げたことで福智は一度その場で飛び上がり、すぐに俺の口に指を当てた。

「しーっ!」

「わ、悪い」

 互いに黙って耳を澄まして、それぞれの部屋の様子を窺う。どうやら、今ので起きた人はいないようだ。

 ほっとしたのも束の間、福智は顔を真っ赤に染めてしゃがみこんだ。

「お、おい、大丈夫か」

「大丈夫じゃないよ……わたし、余計なことを……」

 もう福智の声は涙声になっていた。鼻をすする音も聞こえてきた。

 肩を震わせる福智を前にして、俺はただ右往左往していた。

「だ、大丈夫だ。俺は何も見てないし、聞いてない。な?」

 空転する思考が慰めにもならない言葉を生み出しているような気がして、さらに空転の度を増していく。思考の負のスパイラルに陥った俺の頭は、まったく機能していないと言ってよかった。

 だが、そんな言葉でも少しは役に立ったらしい。

「ぐす……本当に何も見てない? 聞いてない?」

「あ、ああ」

 俺は懸命に頷いてみせた。目尻ににじんだ涙を拭って、福智は立ち上がった。

「また秘密ができちゃった、のかな」

「気にするな」

 そう言ってすぐに俺は気付いた。気にするなと言っても気にするのが福智だ。そのことに思い至って、俺は苦笑してしまった。

「俺は何も見聞きしてないんだ。秘密も何もないぜ」

「そ、そっか」

 ぎこちない笑みを浮かべながらも、福智は何とか納得してくれたらしかった。

 ぽつり、とこぼすように福智が呟いた。

「いつもありがとう」

「何だよ、急に」

 福智は海の方へと目を向けていた。その視線の先から吹いて来た生ぬるい風が、じっとりと肌を撫でながら通り過ぎていく。

「ううん。急なんかじゃないよ。いつも感謝してるの。きみのおかげで、今の文芸部があるから」

「……そりゃあ、強制的に入部させられたんだ。感謝の一つぐらいしてほしいがな」

 しんみりとしている福智を傷付ける意図はなかったが、つい皮肉で答えてしまった。だが福智は俺を見て微笑んだ。

「ごめんね。ありがとう」

「……何なんだよ、本当に」

 福智から視線を外して俺はぼやいた。またよくわからない福智さんモードだ。とっとと部屋に戻るのが吉かもしれない。

 逃げる口上を考え始めた俺の腕に、突然福智が抱き付いて来た。

「ちょっ、福智?」

「動かないで」

 その一言だけで、俺は動けなくなってしまった。福智はしっかりと両腕で俺の右腕をホールドして、自分の体に押し付けた。弾力のあるクッションですっぽりと腕を覆われた気分になったが、クッションと違うのは血が通っていること。福智の熱を、鼓動を、肌で感じられた。

 波打ち際から届く波の音と変わらない程度のささやかな声で、福智は言った。

「こうしたくなったの。きみに、触れてみたくなったの……あはは、おかしいね。暑さでおかしくなっちゃったかな……」

 自嘲気味に笑う福智の肩に、俺は左手を添えた。

 びっくりしたように福智は俺を見上げたが、特に意味のある行動じゃなかった。強いて言えば、そうしたくなったからそうしただけだ。

 くっつく俺たちの周りを、また風が通っていく。相も変わらずぬるくて湿った風は不快感しか残していかない。

 衝動的に、俺は福智の体を自分の正面へと抱き寄せた。厳密に言えば、右腕は拘束されたまま福智に向き直って、余った左腕を背中に回して強く抱きしめた。

 辺りに散らばる潮の匂いを押しのけて、花の匂いが鼻腔をくすぐった。

「立花、くん……?」

「何も言うな」

 俺の一言で、福智は押し黙った。

 右腕がひどく邪魔に思えてきた。福智との間に挟まっている右腕が、俺たちを隔てる壁のように感じられた。

 福智も同じように感じていたのだろうか。じきに腕をほどいて右腕を外へ押し出して、今度は俺の腰に両腕を回してきた。密着した俺たちの体を隔てるのは、わずか数枚の布だけになった。

 間に挟まったジャージを引き抜きながら、福智は気の抜けた声で呟いた。

「夢、なのかな」

 俺はすぐには答えられなかった。いや、福智も答えを求めていたわけじゃないのだろう。ただ確認するように、呟く。

「夢、だよね。こんなこと、普通はしないから」

「これが夢なら、俺は夢の中でまた寝てしまいそうだ」

 柔らかい。

 それが素直な感想だった。

 体全体で触れる福智は柔らかく、そしてなぜか俺の心を安らげていた。このまま深い意識の底へと引きずりこまれそうな気がした。

「わたしも、寝てしまいそう……なぜか、きみといると安心するの」

 夢現ゆめうつつ

 曖昧になっていく認識の中で、抱き合う福智だけが確かに存在していた。

(本当に寝――)


 ウーゥウー……


 不意に鳴り響いたサイレンで、一気に意識が覚醒した。

 サイレンが遠くに消えた後、俺たちは跳ねるようにして離れた。

「ご、ごめん。変なことして」

「い、いや、俺こそすまん」

 気まずい沈黙。

 それに耐え切れずに、俺は部屋に逃げ込むことを決意した。

「じゃ、じゃあな。お前ももう寝ろよ」

「あ、立花くん! 忘れてね――」

 福智の声を背中に受けながらそそくさとベランダから撤収して、ベッドにもう一度潜りこんだ。このまま朝まで寝て忘れよう。

 だが俺の意思に反して、体に残った福智の感触と熱が睡眠を拒んだ。

 結局一睡もできないまま夜を過ごしてしまった。

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