追憶の箱庭

お題“追憶の箱庭”


 

 土曜は授業が午前で終わる。その足で午後に母を訪ねる。それが習慣になりつつある。

 その日もそうして母を見舞った。高校から病院までの道すがら、自転車で通りすぎる一瞬に、そこここの垣根でくちなしが匂った。季節がかわりかけている。


 病室の母はいつ行っても同じ、ピンクの寝間着で私を迎える。私を見ると笑顔をつくった。


「ユリ」


 スクールバックを下ろし、ベッドの隣のパイプイスに座って、私は母とおしゃべりをする。学校のことが主。たまに家のこと。私が話し手、母は聞き役。ところが今日は珍しく、母から話題をふってきた。


「見て」


 机の上の菓子箱を指す。誰かが置いて行った見舞いの品だろう。母が昔勤めていた製菓会社の銘柄だった。


「誰?内臓の病気の人に、お菓子をよこしてったの?」

「きっと知らなかったんでしょ。いいの、看護師さんたちにあげたら、けっこう喜んでくれてたし」


 母は眉をひそめる私をたしなめて笑った。痩せたな、と思う。


「まあ、もとの中身はどうでもいいから。それよりほら。開けて開けて」


 言われるままにふたを開け、私はわあと歓声を上げた。中にはミニチュアの木や家や山がおさまっていた。それは箱庭だった。ボール紙の箱の中の小さな庭園。


「どうしたのこれ」

「箱はね、ただの空き箱なんだけど。その木なんかはこないだ退院した人からいただいたの。並べてるうちに楽しくなってきちゃって」

「へえー」

「これはキット通りに組み立てただけの庭なんだけど、パーツを買えば自分の思い通りの庭をつくることもできるんだって。暇つぶしにぴったりじゃない?」


 箱庭について話すときの母はまるで少女に戻ったかのように見えた。


 そうして私の次の見舞い品は箱庭の模型のカタログになった。

 カタログを見ながら母は、あれがいい、これもすてき、とはしゃいでいる。ひとつひとつ、写真を指さして言う。これはあの庭の木にぴったり、この屋根がもう少し赤ければね、自分で塗ってもいいのかもしれないけど、ここ絵具くらいなら持ち込めるかな。

 あの庭ってどこのこと、と私は母に聞きそびれた。

 どうしてかはわからないが、なぜかそれが怖いような気がした。


 カタログに載っていたパーツを使って母がどのような庭をつくるのかを私は楽しみにしていた。ところがあれきり母は箱庭を見せてくれなかった。何度か頼んだが駄目だった。まだ途中だから、恥ずかしいからと断られた。最初に見せてくれた時はあんなに自慢げだったのにと、私は不思議に思った。


 箱庭のことは忘れないまま、何日か経った。

 その土曜はたまたま全休で、午後にはプールに行くことにしたから、母との面会は午前になった。

 病室の前で足が止まった。知らない男の人が母のベッドの前にいる。誰だろうと思った。

 男の人が私に気づき、その視線を追った母が私を手招く。


「あれ、ユリ会ったことなかったっけ。この人はね、ササイくん。ササイくん、娘のユリです」

「葉摘由里です」

「ササイユウジです」


 ササイさんは私を見て軽く頭を下げた。母と同い年くらいの、普通の男の人に見えた。



 母と少ししゃべったあと、病室から出て、病院付属の喫茶室でササイさんとコーヒーを飲んだ。ササイさんは落ちついた声の人だった。


「ハツミさんとは久々にお会いしました。痩せられましたね」

「病気ですから」

「そうですね。しかし雰囲気は変わらない」

「その、あなたと母とはどういったご縁で」

「ハツミさんから聞いていませんか。昔の友人です」


 聞いていないと認めるのは口惜しかった。口惜しまぎれの質問をした。


「母の箱庭を見ましたか」

「ええ。よくできていましたね」


 予想外の返答に、瞬間、猛烈な嫉妬心が私の中を駆け上がった。そして石のように沈んでいった。

 同時に直感を得た。最初の菓子箱を贈ったのはこの人だ。あの箱をきっかけとして母は箱庭づくりを始めたのだ。

 帰り際、何かあればいつでも、とササイさんは私に名刺を差し出した。菓子箱の製造元、母の勤めていた会社の名前が入っていた。ざっと目を通した後、私はそれを夏服のプリーツスカートのポケットに突っ込んだ。席を立って勘定をすまそうとすると店の人は笑って断った。いつの間にかササイさんは私の分のコーヒー代まで払ってしまっていた。私はなにかに苛立った。

 ササイさんに礼を言いながら、こんなものは子供じみた癇癪だと自分に言い聞かせた。娘たる私こそが母を最も理解しているとでも、私は思っているのだろうか。

 そのとおりだと私は答えた。そう思っていた。あなたはただの他人じゃないかと私はササイさんに言いたかった。血のつながりがないではないか。私の父ではないではないか。いまこの時点で母に一番近しいのは自分だと考えることに私は固執していた。だって私達は家族なのだ。家族がもっとも通じ合っているべきだ。なぜあなたが母の箱庭を見ているのだ。私でさえ見せてもらっていないのに。


 病院を出た。

 水着と帽子とゴーグル、タオルと着替えを詰めたビニールバックをかごに入れて、市民プールまで自転車を漕ぐ。水泳は好きだった。泳いでいる間は頭が空になるから。

 二時間ほど泳いでから更衣室を出ると夏の空は青く沈みかけていた。濡れた髪の塩素の匂いと駐車場のくちなしの匂いが薄く混じって私を包みこんだ。



 ササイさんと私はたまに鉢合わせた。たいていは病室で。二人で母と話したあと、半ば事務的に喫茶室へ行ってコーヒーを飲む。もともとそういう性質なのか、それとも私に合わせているのか、ササイさんもあまりたくさんは喋らない。仲が悪いわけではなかったように思う。コーヒー一杯分の時間、思い出したようにぽつぽつと会話をして、ササイさんは車で、私は自転車で、家に帰る。

 家には誰もいない。私は居間で夕飯を済ませて宿題を片付けテレビと携帯を見て寝る。


 会うたび母は痩せていく。

 中身がなくなってしまったかのようにへこんで皺のよったピンクの寝間着を見ていると、ひとがひとの腹から出てくるということが、なにかの嘘のように思えてくる。


「あまり似てないように思うんですけど。私と母」

「あなたとハツミさんが?いや、似ていますよ」

「どのあたりが?」

「なんとなく、雰囲気が」

「雑ですねえ」

「でも本当によく似ていますよ。自分じゃなかなか気がつかないんでしょうかね」



 その日はササイさんとそんなやりとりをして、病室に戻ると母は寝ていた。その枕元に菓子箱があった。

 どうしても、どうしても、私は中身が気になった。

 母を起こさないようにそっと箱庭を机に載せた。ふたを開けた。息をつめて、中を覗き込んだ。

 いつの間にか、箱の中には団地の風景ができていた。道に白くチョークで書かれたらくがきや植え込みのくちなしや汚れた取水塔や日に焼けた掲示板などが細部まできちんと再現されている。つくったものとは思われなかった。それを私はじっと眺める。

 団地の正面玄関、階段にこしかけて、女の子が一人で図鑑を読んでいる。彼女が誰だか知っている。父親を待っていることも知っている。


「――ちゃん」


 こんなにちいさな女の子を母と呼ぶのもおかしい気がして、私は母の本名を思い出し、それで女の子を呼んだ。女の子は振り向き、笑って、こちらに向かって駆け出してきて、そこで目が覚めた。


 夢の中の母はたしかに私によく似ていた。どこがと聞かれればやはり雰囲気がとしか言いようがなかった。

 母の父は実際には帰ってこなかった。

 母の箱庭が母の追憶をかたどっていることくらい、私にだってわかっていた。



 自分が今どこにいるのか思い出すのにしばらくかかった。母はやはりベッドに横たわっており、私はといえば病室の机に突っ伏して寝ていた。箱庭は閉じられて元の場所に戻してあり、私の肩には薄いタオル地のケットがかけられていた。ササイさんが来たのかもしれないと思った。


 制服のポケットをくしゃくしゃ探り、ササイさんから渡された名刺を見つけた。佐々井祐司。

 私は初めてササイさんに電話した。衝動的な行動だった。自分でかけておきながら、私は彼に何を話せばいいのか分からなかった。しかたがないので夢のなかで見た母を話した。黙って箱庭を開けてしまったことも話した。受話器の向こうでササイさんは長いこと黙っていた。私も長いこと黙っていた。

 ササイさんは病室を出たばかりで、まだ病院の喫茶室にいるという。私もコーヒーを飲みに行くことにした。

 実際に会ってからは、いつもと同じに、他愛もない世間話をした。いつもと違っていたのは私の心のありようだった。

 ふと、ササイさんがコーヒーカップを置いて、私の顔をまじまじと見た。ササイさんの目の下にはうっすらと皺が刻まれかけていて、私は彼と話すときいつも目ではなくて皺を見ていた。


「あなたに謝らなくてはいけないことがある」


 私には心当たりがない。


「なんでしょう」

「箱庭のことです」


 意外だった。箱庭の話はさっきの電話でもう終わったのだと思っていた。


「最初に会った時に、箱庭を見たかと聞いたでしょう」

「…ええ。あなたは見たと」


 その返答に私がどんな気持ちになったかは黙っていた。ササイさんが続けるのを待った。


「嘘だったんです、あれは」

「え」

「ハツミさんは絶対に見せてくれなかった。箱庭の中身を」

「……」

「あなたに聞かれて、とっさに嘘をついてしまった。子どもみたいですね、口惜しくなってしまったんです。そのことがずっとひっかかっていた。本当に、すみませんでした」


 私は呆然とササイさんの顔を見ていた。

 やっぱり母はあの箱庭を誰にも見せていなかったのか。あれは母だけのものだったのか。私はそれを開けてしまったのか。

 それではあのふたを閉めたのは誰だったのか。母か。ササイさんか。

 母だとしたら何も言わないだろう。これからも何もなかったかのように振る舞うだろうが、庭に踏みこまれたという事実は胸に残るだろう。

 ササイさんだとしても何も言わないだろう。ササイさんは大人だった。彼は自制心をもって絶対に見ないようにしていたのに、私が共犯者にしてしまったのかもしれないのだ。

 私はどうしようもないほどに子どもだった。あの箱を開けずにはいられなかった。そして、たとえ箱庭を開けた後でも、私はやっぱり母の内面を知らないままなのだ。

 私は母のことをなにも知らない。

 そして母もこれからの私を知らない。

 おそらくこのまま私達は別れなくてはならない。


 そんなことを考えているうちに、なんだか泣けてきた。鼻の奥がつんとして、声が震え、あ、このままでは泣いてしまう、どうしようどうしようと思っているところに、大丈夫?とササイさんの困惑した声が伝わってきて、それでもうだめだった。はいと答えようとしたができなかった。かわりに涙がぼろぼろ出て、うまく息がつげなくなった。

 テーブルの向かいのササイさん。この人にとって、母は一体どういう存在だったのか。私はなにも知らない。私はこの人を父親の代用にしようとしているのだろうか。団地で父親を待っていた女の子を思った。私も父をずっと待っていたのにその人はついに帰ってこなかった。父はどこに行ったのだろう。私はなにも知らなかった。

 咳き込み、しゃくりあげながら思考はぐるぐると飛び回ったが、それらを追いかけることはできなかった。とにかく今はもう何も考えられなかった。ただ泣きたかった。

 あなたはとても頑張っている、見ていて悲しくなるほどに、と、ササイさんがひとり言のように言うのが聞こえた。その声が私を撫でていった。

 私は母を愛していて、失おうとしていて、それは多分、この人も同じなのだろう。

 憶測でも構わなかった。いまだけだと思いながら、その一点に私は甘えた。


 何年さきになるかは分からないが、私もたぶん箱庭をつくるだろう。夕暮れの市民プールの駐車場や、安っぽい病院の喫茶室をつくって、そこに誰も招くことはないだろう。

 私の夢は箱庭のコピー。箱庭は追憶のコピー。追憶は現実のコピー。

 コピーをするごとに、ものごとは少しづつぶれていく。全てを完璧に再現することはできず、しかしそれはしかたのないことなのだ、箱庭とはそういうものなのだと、いまなら素直に思うことができた。


 もうすぐ母の箱庭は完成する。私達がそこに招かれることはないだろう。

 でも、もういいのだ。もういいのだ。

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