網棚に鞄を置いたままであることを思い出した。


 昼食が、と思いかけたが、つまらないパンかなにかだったことを思い出した。

 書類が、と思いかけたが、引き継ぎを済ませてあることを思い出した。

 財布が、と思いかけたが、中身をつかうこともないことを思い出した。

 鍵が、と思いかけたが、もう家は帰る場所ではないことを思い出した。


 なんだ大したものは入ってないじゃないか、と思った。衝動的に落ちたにしては用意がいいが、本当はその逆で、僕は自分自身にも黙って準備をしていたのかもしれない。

 自分で決断したのだとはとても思えなかった。なにかから逃げたのだとも思えなかった。気がついたらこうなっていた。理由を思い出そうとしても無駄だった。そんなものなどないような気がした。

 なにもかもひとごとのように思えて、ふと気になったのは他人の鞄の中身だった。彼らは毎日いったい何をそんなに大事に持ち歩いているのだろう。僕の鞄と何が違っていたのだろう。僕の鞄だって正しい荷物だったはずなのに、僕をこんなところに吸い込むほどに、何がそんなに空っぽだったのか。

 考えはまとまらなかった。こんなに短い時間では無理もなかった。

 なんにせよ電車も僕もホームからすでに離れてしまっている。どのみち鞄を取りに戻ることはできない。取りに戻るようなものでもない。僕を落としておきながら、鞄はまんまと逃げおおせたのだ。


 両足が宙に浮いている。

 視界が斜めだ。線路が近づく。

 やがて衝撃、もう何も思い出すことはない。

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