上梓


 母親が帰宅すると留守番電話が入っている。明かりをつける前の暗い部屋でモニターが白く光っている。母親の指がボタンを押す。再生。


 ハイ、母さん、元気ですか。こちらもなんとかやってます。

 知ってのとおり、新しい本ができたので送ります。今日あたり着くころと思います。

 いつもありがとう。


 それから簡単な近況報告が続き、名前を名乗って録音は終わる。母親は明かりをつけて、手に持った小包を見る。たった今郵便受けから出してきたばかりで、差出人に子どもの名前、宛先に母親の名前、開けると中身は本だった。

 母親は椅子に座る。本を開いて文字を追う。

 子どもの作る物語はいつも美しい。誰もが許されていた幼年時代、言葉を知る前の魔法の世界、輝きに満ちたその記憶を、子どもは自分の中から汲み取り、汲み取っては珠のように磨きあげる。そして読者に差し出す。これはあなたのものでしたね、そうでしょう、お忘れにならないで。丸めるべきところは丸め、尖らせるべきところは尖らせ、子どもの仕事はすばらしかった。母親から見ても惚れ惚れする。

 母親は子どもの作る物語が好きだった。けれど時々、物語の中で思いがけず立ちすくむことがある。この場面には覚えがある。

 これはわたしの記憶だ。あの子のものでもあるけれど、わたしのものでもある記憶だ。

 子どもは記憶を加工して、妖精の粉のように効果的に使っている。きれぎれの断片がちりばめられ、物語をきらめかせ、そして誰かに愛される。でもその原料がただ一人、母親にだけは分かってしまう。

 もちろん母親にも分かっている。これは物語で、物語を作るということはそういう事なのだ。しかし時々思い出したように、掻きむしりたくなるような不安に襲われる。わたしの記憶が買われている! 見知らぬ人に広がっている!

 それでも母親は子どもの物語を愛していた。こんなに美しいものを嫌いになることなど、いったい誰にできるだろう。これを生み出す子どものことが、やはりとても誇らしかった。

 献辞には一言「母に」とある。印刷された「母に」と、子どもの手書きの「母に」が、同じページに重なり合っていた。


 物語の中では一人の子どもが、母親に花を摘んでいる。

 あの子が初めてくれた花はなんだっけ。母親は思い出そうとする。紫色のかわいい花だった。名前を知らなかったわたしにあの子が教えてくれたのだ。

 しばらく考えて諦める。もう思い出せない。上書きされてしまった。子どもの物語に登場する、もっと美しい、大輪の花の名前に。

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