帰郷
その日カナエが帰宅してテレビをつけると、動物園からライオンが脱走したというニュースが流れていた。いまどき漫画みたいな話だなと、見るとはなしに見るうちに、市内の様子が紹介され、その景色にどうも見覚えがある。あれ、と思って見ていると、近所の動物園の門扉が映った。
「なにこれ、あそこの動物園?」
唖然としてつぶやいたカナエの前で、アナウンサーは近隣住民へ警戒が呼びかけられたことを伝え、次のニュースに移った。
そういえば帰り道、宣伝カーのようなものがスピーカーで何か言っていた。遠くてよく聞こえなかったが、これのことだったのだろうか。
一応戸締りぐらいは確認しておこうかと立ち上がり、寝室の窓を開けたままだったことを思い出した。換気しているのを忘れてカナエはさっきまで買い物に出ていた。ちょっとの間だったし、比較的治安のいい地区ではあるけれど、ここは一階で、猛獣がうろついていようといまいと危ないことには変わりがない。うっかりしていたと反省しながらドアを開け、カナエはそのまま固まった。
ライオンがいる。
ライオン。金色だ。大きい。部屋に。本物。子どものころに動物園で見たのと同じ。
金縛りにあったように動けず、ものも考えられない。ライオンはゆっくりとカナエに顔を向けた。息遣いが聞こえるがそれがライオンのものか自分のものかわからない。見上げるライオンとカナエの目があった。
頭が働く前に膝が笑った。逃げなければ。逃げなければ。けれど体はいうことを聞かない。ドアノブから手が離れないままがくがくと腰が抜けてカナエはその場にへたり込んだ。
ライオンが口を開けた。食われる。死ぬ。カナエは目を閉じた。
「落ちついてほしい、君を食べたりはしないから」
低い声が聞こえた。
「勝手に入ってしまって申し訳なかった」
カナエが目を開けると、ライオンはまだそこにいた。狛犬のような姿勢で座っている。声の主をさがしたがカナエとライオンのほかには誰もいない。
「ベランダの窓が開いていた。君はもうすこし用心をするべきではないのかな」
わたしがいうのもなんだがな、とライオンが言った。カナエはぱくぱくと口を動かしたが言葉はひとつも出てこない。
「どうした?」
ライオンが聞く。
「しゃべ、しゃべって、だって、ライオンが」
「ヒトの言葉か? 生まれた時から聞いていれば、こんなもの誰でも覚える。君もそうして話しているだろう」
そんなバカなと思ったが、実際に今こうして言葉を交わしている。カナエはもうものも言えなくなった。事態は理解を超えていた。
(そうだ、電話、電話しないと)
床に座ったまま受話器を探した。電話はテーブルの上が定位置で、椅子にすがるようにして受話器をとったが、頭が真っ白で警察の番号が出てこない。動物園の番号も知らない。
ライオンはカナエの様子を黙って見ていて、そのうちまた口を開いた。
「すまないが、連絡はしないでもらいたい」
「な、なんで」
「せっかく脱走してきたんだ。いま捕まるのは困る」
困ると言われても。
「や、だっても、猛獣でしょ」
「わたしは人を襲うつもりはない。さっきも言ったとおりだ」
絶対に君は食べない、落ちついてほしい、とライオンはもう一度繰り返した。カナエは深呼吸をした。ようやく落ちついてきたような気がした。
「それで、君さえよければ少しの間ご厄介になりたい。今外にでるのはまずいんだ」
やっぱり気のせいだった。
「で、でも、このマンション、動物禁止だし……」
「その理屈では人間も住めないことになるな。心配しなくても明日にでも出ていく」
ライオンは平然として答えた。どこか面白がっているようにも聞こえた。
「それに、だって私、ネコも飼ったことないのに」
ネコと聞いてライオンは少しムッとしたような顔をした。
「飼う? わたしはネコより手がかかると思うぞ」
「知ってるって! 無理無理、私明日も仕事だし!」
「……そうか、確かに急な話だったな。おいとましよう。最後に一つ頼みがある」
ライオンはじっとカナエを見た。
「わたしは草原に行きたいんだ。近くにあるなら教えてほしい」
「草原?」
予想外の質問だった。カナエは思わず聞き返した。
「草原だ。一度でいいから見てみたい」
「あ、あのね、ここは日本で、残念だけどサバンナはないの」
ライオンはそれを聞いて笑った。
「知っているよ。そんなに大きくなくても、囲いがなくて、走れるようならそれでいい」
心当たりはないだろうか、と聞かれて、一つ思い浮かぶ場所がある。
「……この辺でいうと、そうね、西に一か所空き地がある。あそこはけっこう広いと思うな」
「そうか。そこにはどう行けばいいのかな」
「車で行けばいいんじゃない? 私運転するから」
深く考える前にそう口走り、はっとした。会話しているうちにカナエは一瞬相手を人間と錯覚していた。ライオンはカナエが突然意見を変えたことに驚いたようだった。
「そうしていただければありがたいが、いいのか? さっきは……」
「やっぱり気が変わったの。でも一日だけね」
言ってしまった以上は仕方がないとカナエは腹をくくった。窓を開けたままにしておいたのは自分で、ライオンを招き入れたのはつまりカナエ自身だ。なにより他に行き場はないであろうライオンを、ここで閉め出してしまえば後悔するような気がした。
次の日カナエは職場に電話し、体調不良を理由に休みをとった。ちょうど閑散期だったのが幸いし、急な話にしてはすんなりと休むことができた。電話を切って、おそるおそる隣室を覗くと、ライオンは部屋の隅に横たわって眠っていた。
(そういえば、夜行性? なんだっけ、ネコ科って)
少し迷ったが、結局そのまま出かけることにした。ライオンが目を覚ました時のために、とりあえず水と牛乳、それと冷蔵庫の中のありったけの肉を置いておいた。ライオンはカナエを食べないとは言っていたが、空腹で気が変わるようなことがあっては困る。横目でテレビを流し見た。全国区版のニュース番組では、脱走した猛獣の話題はあまり詳しく報道していないが、いま山狩りをしているらしいことは分かった。
それから車で図書館に行き、ライオンの生態について調べた。夜行性、一日のうち約20時間ほどを寝て過ごす、主食は生肉、動物園では日に7キロ、毎日食事をしなくても生きられる、などなど。使えそうな情報を手帳に写した。
帰りに精肉店に寄り、さっそく鶏肉を10キロほど買った。肉屋の主人は呆れて言った。
「なんだいそりゃ。パーティでもあんのかい」
「そんなところかな」
まさかライオンが家にいると話すわけにもいかない。車に乗り込んでからなんだかおかしくなってきて、カナエはひとりでくっくと笑った。自分は案外この状況を楽しんでいるのかもしれないと、そのときはじめて気がついた。
家に戻ると昼前だった。ライオンは出て行った時と同じ体勢でカナエを迎えた。カナエは呆れた。
「ホントに20時間くらい寝てるんだ」
「そうでもないぞ。ライオンとしてはこれでも起きている方だ」
ライオンは寝そべった姿勢のままゆったりと頭を持ち上げて言う。悔しいが、やはり絵になる。
「なんでそんなにエラそうなの」
「百獣の王だからな」
冗談めかしたライオンの、“百獣の王”という言葉に、ふと思いつくことがあった。
「ねえちょっと一回吠えてみてよ」
「なにをいきなり」
「百獣の王なんでしょ? 見てみたい」
「それは……君が困ったことになるんじゃないのか」
「え?」
「このマンションは動物禁止なんだろう。ばれるぞ」
「ああそっか。それもそうね……残念」
「そんなに聞きたいものなのか?ヒトにわたしたちの言葉は分からないだろうに」
「あれは言葉なの?」
「ライオンの言葉だ。一声で様々な意味をのせられる」
「知らなかった。でも聞きたいな。そりゃ分かんないとは思うけど、なんてったってあなた、本物のライオンなわけじゃない?」
「そうだな……それじゃ、ここでは無理だろうが、草原に着いたら思いきり吠えることにしようかな」
「え、ほんと。やった。楽しみにしてる」
ライオンと昼食をとる。カナエが台所に立ち、ライオンの分の鶏肉10キロから200グラムほど取り分け、それを自分の分として塩をふって焼くのを、ライオンは興味深そうに見ていた。
「火を通さなければ食べられないのか。ヒトも手間だな」
「もとは同じ肉なのにね。食べてみる?」
「いや、それは君の分だ。気持ちだけいただいておく」
普段はテーブルで食べているのだが、お喋りの相手を見下ろしながら食事するのもなんとなく居心地が悪い。結局カナエは座卓を用意し、ライオンと向い合せに寝室の床に座った。窓からカーテン越しの日光が入って明るい。
改めて見てもやはり大きなライオンだ。鬣はふさふさとして濃いし、目は本当にきれいな金色をしている。立派だなあとカナエは思った。生肉を押さえる前足も、それを噛むときにのぞく牙も、今は不思議と怖くなかった。
「それにしても、思い切った話ね」
「脱走か?」
「そう。やっぱり動物園て窮屈だった?」
「いや……そんなことを考えたこともなかったな。草原に行きたいというのも半分はまあ、檻を出てからの思いつきだ」
「そうなの?」
「あの園からずっと逃げたかったわけではないんだ。種のルーツとしての故郷がどうあれ、わたしという個体が生まれて育った故郷はあそこで、わたしは幸せだったと思う」
ライオンはゆっくりと、一言一言を確かめるように話す。
「誰かが檻の鍵を開けたままにしてしまったときも、気が付かなかったことにすればずっとそのままでいられることを知っていた。だが、もう二度とこんな機会はないということも知っていた」
「迷った?」
「どうだろう。自分でもよく分からない。あの時はなんというか、逃げなくてはいけないような気がした」
「そう」
なんとなく、カナエは自分がライオンを追い出せなかった時のことを思い出した。
「後悔はしていないし、これでよかったとも思う。今もう一度あの場に戻ったとしても、やはり同じことをしただろう。ただ」
この騒動で園はどうなるのだろう、檻の鍵をかけ忘れた職員は処罰されたのだろうかと、ライオンはひとり言のように付け加えてそれきり黙った。
あなたはこのあと、とカナエは聞こうとして止めた。
カナエもライオンもしばらく何も言わなかった。やがてカナエが口を開いた。
「あのね、お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「さわってみてもいい?」
「もちろん」
「ありがと」
手を伸ばして鬣を撫でる。思っていたよりも硬い毛だった。肩に触り、背をなぞる。ライオンは目を細めた。体熱と脈拍が手のひらを通して伝わってくる。ああ、動物だと思った。
「あったかい」
「君もな」
とろとろと眠たくなってきた。カナエは寝そべっているライオンに寄りかかった。
「このままちょっと昼寝しない? あなたも睡眠時間がいるでしょう。起きたら草原に向かおう」
「わたしはかまわないが、君は暑いと思うぞ」
「いいの」
「そうか」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
起きると日は傾いていた。部屋に差し込む光が目に染みる。出発だ。
カナエはまずあたりの様子を確かめた。猛獣がまだつかまっていないとのことで、案の定出歩く人はいない。この分ならいけると踏んで、車をマンションの前の道路に止め、部屋に待機していたライオンを呼ぶ。
なにもかも順調に進んでいるように思えた。そのとき向かいの家から、けたたましい吠え声が聞こえた。
犬。首輪をつけた犬たちがライオンを見つけ、塀の中から吠えかかり、何事かと出てきた飼い主がライオンに気づき悲鳴を上げた。見つかった。頭が真っ白になった。飼い主が電話をとった。ライオンは走り出しカナエも後を追った。
西に向かう長い坂道に差し掛かった。犬の吠え声はいまや町内中に伝染していた。そこに混じってすぐにサイレンが聞こえ出し、そこここの角から車が出てきた。ハンターがライオンに銃を向けた。カナエの血の気が引いた。
「撃たないで!」
ライオンはカナエの脇をすり抜けた。カナエは坂の下で、ハンターとライオンのあいだに割って入ったかたちになった。無我夢中でライオンに叫ぶ。
「みんなに説明すればきっと分かってくれる! それで――」
それで。
カナエの言葉はそこで途切れた。
それでどうなるというのか。ライオンは説得され、檻に帰り、今度こそ二度と開かない鍵を眺めて暮らすのか。草原は与えられるだろう。しかし人の手で用意された草原に囲いのないものなど存在するのだろうか。
ライオンの夢とは一体何だったのだろう。ヒトの言葉はそれを表すことができるのか。
途方に暮れた。
悲鳴や怒号の渦巻く中から、それでもライオンはカナエの声を聞き取ったようだった。ぴたりと足を止め、振り返り、坂の上からこちらに向き直る。見上げるカナエとライオンの目があった。ライオンは湖面のような目をしていた。
カナエにはそれで分かった。ライオンは彼の草原を見渡している。いま、そこに帰ろうとしているのだ。
自分が何を言うべきか理解した。
「走って!」
その瞬間、ライオンが咆哮を轟かせた。
それは辺りに響き渡り、体の芯を震わせる。恐怖からくる震えではない。落ちかかる日を背にして吠えるライオンは、身震いするほど美しかった。
百獣の王の姿だ。
一瞬の間の後、ライオンは走り出し、カナエの視界から消えた。
「ライオンは民間人の女性を威嚇して逃走」
「もうすぐ日没です。時間がありません」
「許可、下りました」
威嚇。それは違う。ライオンが爪や牙でカナエを脅したことは一度もなかった。
ライオンは知っていたのだと、カナエは思った。ライオンの言葉がカナエに何を伝え、カナエ以外の人間にどう聞こえるのかを、そして檻から出て走り出した時から、自分がそこに帰るつもりのないこと、それがどのような結果をもたらすのかも、おそらくすべて知っていた。だから吠えた。
やがて遠くで銃声が聞こえた。それから何もかもが静かになった。
日が落ちた。
ふいに耳の奥で、遠雷のように咆哮が鳴った。燃え立つ鬣と、力強く漲る四肢、静かな瞳、それらを金色に縁どる西日が目に浮かび、カナエは両手で顔を覆い、声をあげてひとりで子どものように泣いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます