越境
@0and0and0and0
三日の恩
「おまえはむかし犬だった」
はいはいと相槌を打ちかけてやめた。犬? 台所仕事の手が止まる。食卓につく父を見る。
「えさをあげたらついてきたんだ。それからそのまま家に居ついた」
父は両手で顔を覆う。
「どうして忘れていたんだろう」
なにを言っているのと答えた瞬間に、なにもかも思い出した。
包丁を握る指に力が入らなくなった。見るとそれは毛むくじゃらだった。自分の鼻面が視界に入った。黒く濡れて光っていた。どうやって二本脚で体を支えていたのか分からない。目線は流し台より低くなり、見上げても鍋もまな板も見えない。
ああそうか、と思った。どうして忘れていたんだろう。私はむかし犬だった。むかしから今までずっと、犬でなかったことはなかった。それでも父の子どもになりたかった。それだけだった。
お父さん。父を呼んだつもりが、咽喉から出たのは吠え声だった。
伝えたいことを、人間の言葉で伝えるすべを忘れた。ふしぎと悲しくはなかった。ものをいいたければ尾を使う。これが本来のやり方だ。もうなにもかも思い出した。
父が私を抱き上げた。
父がいて、私がいる。これからも多分、しあわせだろう。
そう思って尾を振る私を、父が黙って撫でている。
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