第十幕 標準時はお昼 下
四
民家の明かりがぼちぼち消えるこの時間になっても、山本はまだ仕事場にいた。
豪華ではないが立派なな椅子に座り、上にコタツが広げられるほどでかい机に、沢山の小さな書類をばらまくように広げ、独り読みあさっている。
静かにその部屋唯一の扉がノックされた。
山本は顔を上げもせずに「入れ」とだけ答えた。
「お呼びですか、長官どの」
「おお、宇垣君か。ごくろう」
山本はようやく顔を上げた。
部屋に入って来たのは、参謀長の宇垣少将である。
「ジミーとやらの話は役に立ってるかね?」
「ええ。あの英国人、現場ともうまくやってるみたいで、よくやってます」
「その件で、今更だが作戦に変更点などでたかね」
「戦術面では。主に現場レベルの問題でありますが」
「そうか……では、基本的な方針に変更は無しだな」
そう言って山本は手元にメモに書き込んだ。
「しかし、あの青年はタフだな。何千キロも飛んで、最後に来てあっという間に三機も落としたって言うじゃないか」
「栗田中将の差し入れが効いたみたいですよ。何をもらったか知りませんが」
山本は「ほぉ」ととぼけた返事をした。
「ところで宇垣君。彼の持って来た資料には、独ソが不可侵条約を結び、同時にソ連が極東に兵を移動しつつあると書かれてあった」
「ソ連が虎視眈々と南下を狙っているのは前々から掴んでいるので、陸軍さんが中心に北の守りはかためはおりますが……時期的にきついですね」
「ああ、海軍は出発前だしな。それに夏なら、長門や山城を北海に『でん』と居座らせて、ソ連の艦船など片っ端からオホーツ海なり日本海なりにたたき落としてやれるのだがな。わるいことにこの時期、北の海は流氷が残っている」
腕を組み、椅子にどっぷり背を預ける山本。眉間にしわを寄せて目を閉じた。
「お疲れですか?」
「疲れてないわけないだろう。それに、満州がなぁ」
「日本軍が居座ってるわけも無いですし、南部には米国資本も入ってますから、深入りはしないと思いますが」
「だ、な。ま、攻めてきても、直接には無理だが間接的にはどうにかなりそうだ」
そう言って山本は目を開き、宇垣の方を見上げた。
「ところで、こんな状況だ。小沢君たちにつきあってやってくれ。トップが小沢、次が山口。少々血の気が多いやつらでな」
「現地の栗田中将も……では、私に冷却剤になれと?」
「あはは、そうだ。それと、政治的なアタマが必要でな。なに、こっちは亀さんに頑張ってもらうさ」
そう言って山本は、宇垣に中将への昇進辞令を渡した。
「がんばってくれ」
五
「おれ、偉くなっちゃったのかな~」
ジミーことジム=ハリス少佐は、手に持ったコップに向かって言った。
中は暖かく、アルコールの香りが漂って来ている。
彼の座った木製のカウンターの向こうには、ちょっとした兵隊よりも良いガタイの親父が料理している。
横須賀の一角にある古びたこの店「どぼん」は、海軍士官達御用達の隠れた名店だ。満員、と言うわけではないが、十五人は入れるこの店に、十人くらいは入っている。
「ヘイ、ジミー。昇進おめでとう」
「あ、淵田中佐。いいのかなぁ、いきなり少佐なんて」
例の「黒ヤギ」文書を抱えて日本に着いた所、日本駐在武官からいきなり昇進を言い渡されたのだった。死んでもいないのに、中尉からいきなり少佐である。
文書に司令長官名で正式な辞令が同封されていたようだが、どうにも変な気分だった。
「素直に喜べって。ほら昇進祝いだよ」
ジミーの隣に座っているのは、ここに誘った張本人の淵田だった。会話はもちろん英語。空母「翔鶴」飛行隊長の淵田にとって、英語など朝飯前だ。
「ホームシックはあるか、ジミー?」
「ちょっとあるかな~。あと、俺なんかのハナシが役に立つのかな~なんて」
ややため息まじりのジミー。振り返って、またコップを見つめた。
「なに言ってるのさ。本場の撃墜王の話が、役立たんわけない。追加の訓練は少ししか出来なかったが、作戦面での貢献は大きいぞ」
そう言った淵田の顔は少し赤い。
「どうも、中佐どの。……しかしまー、ものすごい大艦隊でしたね」
「まったくだ。直接陣容は知らされてないが、俺たち飛行機乗りは空から見てるわけだしな」
ジミーが思うに、小さな極東の島国のどこにしまってあったのか、というような大艦隊だった。海面一杯に広がった船フネふね、そしてイワシの群れのように固まって飛び回る飛行機。
「空母だけで、大小合わせて十隻以上居ましたかね」
「そこまでは……居たかもしれんな。全部が全部行くわけじゃ無いだろうが」
「これだけの大艦隊で動き回ったら、潜水艦につきまとわれそうなものですが」
淵田は「そうだな」と答え、「おっちゃん、焼酎!」と追加を頼んだ。
「あ、なんだっけ……潜水艦か。今時、潜望鏡を上げた瞬間にレーダーが捕まえてくれるから、昔ほどは心配いるまいて。油断は禁物だが」
そう言っている間に、コップ二杯ぶんの焼酎が出て来た。
それを見ながら「ん? おサケと違うのですか」とジミー。
「ま、飲んでみ」
ジミーは淵田にそう言われると、ぐいっと大きく一口のみ「ぷは~」と息を吐いた。
「ヒュー、キますね、これ。いいな、日本は。こんなに美味い物がごろごろしてて。そういや、英国にきてた日本のパイロットさんたちも、『日本には美味い物が沢山ある』って言ってたな。あれもこれも、みんな美味しい」
ほかにも、カウンターには淵田が勧める日本料理が沢山並んでいる。
ジミーは舌鼓をならしながら、不器用ながら箸を使ってつついては喰っている。なりふり構わず喰っているようだが、(淵田には信じがたいことに)近海物のマダコだけが奇麗に残っていた。
「よく喰うな。まぁ、戦場が遠いぶん、こっちは食い物には不自由しないがね」
「戦場になる前から、英国にはこんな美味い食い物なんてないですよ」
「あはは、そうかな。いい土産話が出来たってもんだ。だから、タコ喰え」
淵田は声を出して笑った。
「そのパイロットさん達と、戦争が終わったら日本に行きたいな、なんて話してたんですけどね、終わる前に来ちまうなんてさ……」
ジミーはこんどは焼酎のコップを見ながら言った。コップの向こう側に、英国にいる仲間や、メリーのことが見えたような気がした。
そこへ『どぼん』の親父が「あい、さっきご注文のおウドンだよ」と、熱くていい香りのするスープのような物を、ドンブリにいれて持って来た。
「熱いうちに喰ってな、外人さん」
「これも『おどん』? オヤァジさん、さっきーのとチガウ」
それを見たジミーが、下手な日本語で訊いた。
親父が「外人さん、違う違う」と大きく手を顔の前で左右に振った。
「さっきのは『オデン』、これは『ウドン』。いいから喰ってくれ」
にこにこしながら、ウドンを勧める親父。
「『どぼん』デ『オデン』と『ウドン』食ベル。ニホンゴ、ムズカスィ」
ジミーは慣れない箸を使い、もそもそと食べ始めた。
隣では淵田が豪快な音を立ててウドンをすすっている。
「淵田さん、きたないなー」
「ばっきゃろー、ウドンはこうやって喰うもんなんだ。やってみろよ」
ジミーは何とか真似ようとしたが、うまくできない。
「う~ん、無理です。それに、ハシを使うのがたいへんで」
「あはは、無理スンナや」
「でも……美味しいですね」
もそもそもそもそ……
ごそごそ。
ジミーが思い出したようにポケットから小さなビンを取り出した。
「淵田さん、これなんて書いてあります? 日本語らしいのですが」
ビンには何やら手書きで字が書いてある。
「ん~、どれどれ。『マムシ薬。極メテ高濃度ニテ調合。依テ一気ニ飲ムニアタリ 極度ニ興奮シ、鼻血ヲ伴フ畏レアリ』とある」
淵田は日本語まじりで答えた。
「英語にできますか?」
「『これはものすごく濃く作った気付け薬です。一気飲みすると興奮して鼻血を吹き出すので気をつけろ』ってことだ。ジミー、どうした?」
ジミーが引きつった笑顔を浮かべている。「鼻」血まみれになって着艦したのを思い出したところだ。
「いや、なんでもない。淵田さん、ありがとう」
そういや英仏海峡の時といい、今回といい、ずいぶん血を垂れ流してしまったなぁ。今日だけは沢山喰って血を増やさなきゃ。出航まであと二日しか無いもんな。
日本時間一九四一年三月三日夜。
世界のごく一部の地域で女の子向けの人形が仕舞われつつある頃、世界中で多種多様な思惑が交錯していた。
そして、二日後。
小沢中将率いる第二次遣欧艦隊が呉と横須賀で碇を上げる。
それは、歴史を押し流す空前の大艦隊だった。
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