七章 5/5 〈子どもの涙〉

 ここでの霧も一種の認識エラーだが、先ほどまでのものとは根本が異なっている。霧は結界との境界の蜃気楼化でもなければ、細小の歪みでもない。

 ここは

 皮膜と例えればわかりやすいだろう。

 明確な意思と視線があった。しかし、皮膜同様に希薄で干渉できるほどまでのもではない。そうだ。観ているのだ。ただそれだけ。

 もはや神の一部まで潜っているのだ。

 じゃり、と馴染みのない、しかし記憶に残る感触を僕は靴を介して感じていた。視線を下にやれば、玉砂利のように見える、小さな頭蓋骨がいくつも敷き詰められた地面があった。

 石のように固いが、生き物であったこと語るには十分な生々しさが頭蓋骨のがらんどうから伝わってきた。いつまでも見つめていると、ある種の永久に捕らわれてしまいかねない。

 意識を通して、一歩を踏み出せば、僕は参道に踏み入る。

 神域の最奥に辿り着く前に通過した石鳥居とまったく同様の鳥居を、僕の認識外で通り過ぎていた。

 小さな頭蓋骨がひしめき合う境内に一本の参道が通る。

 石畳は紛れもない石だ。しかし、一枚一枚に文字がびっしりと彫られている。漢字のようで読めない。文字だとかろうじて認識できるものが並んでいる。

 不思議だが、読み方がわからないが読めてしまう。頭に直接言葉が響く。言葉の音はわかるが意味はわからない。言葉の羅列が理解を超えて頭にたたき込まれている。

 読んでいると目眩を起こしそうだ。

 そもそも読む物ではないと、僕は知った。参道のそのままに足で踏んで通るだけで意味はある。そういうためのものなのだから、視覚情報でこれを読み取るのは正しい使い方とはまた外れる。

 人間が神と崇める存在にまで謁見えっけんを可能にする参道なのだ。

 謎の文字が書き詰められた参道の末端。奥に拝殿があった。

 榊木町最奥にて太古までの遡っていたのが一転し、この神域の有り様は、現代の神社に見受けられる境内に酷似している。細部の不気味さは物質表層世界のものと乖離しているが、概要的形式がそのままに近いのは、知識の檻がここまで浸食しているのだろうか。

 答えは否。

 物質表層世界側が、意識の深層から長い年月をかけて掬い上げたのだ。似せているのはあちらだ。とはいえ、人の為すモノで有る限り、本質には近づけないだろう。こちら側まで肉薄させたところで、皮膜に等しい隔たりは、技巧を尽くす度に近づくがまた遠ざかる。永遠に触れ合えない。

 参道を歩く僕の両側には、同族が僕を他の道から隔たるように参道の両端に立ち並ぶ。顔を隠す白い布と、上下白装束の神職たち。白い列が、僕に逃げ場のない道を示す。

 彼らの最奥で拝殿の戸は開かれていた。

 月ほどの明るさしかない暗い世界だが、視界は光源に依存したものでも認識できている。この肉体の器官が得た情報を、脳に視覚映像として認識させている。

 すべての人間の器官で拾った情報が、私に伝えていた。

 拝殿には女の子が立っていた。あそこにいる彼女こそ、八女津姫なのだ。

 わかっている。

 知っている。

 見えている。

 人間の五感すべてが、そして変異による発現途中の器官をも、実感として伝えている。

 だからこそ歓喜が止まない。

 湧き上がる。

 我らが八女津姫様。

 彼女はこちらを見つめたまま動かない。

 白と赤の刺繍が施された、上下白の装束。綺麗な黒髪には金の細工をつけていた。純白の生地にも目映さが曇らない神々しさを、彼女に幻視する。

 目頭が熱くなる。涙を流しそうだ。

 僕はこれからどうなるのだろう。

 私はいよいよ一体になるのだ。


「どうしても、また来てしまうのね。あなたも、もうだめなのね」


 白の装束のせいか、彼女は幾分大人びた印象に見える、哀しい顔を浮かべていた。

 私は八女津姫様の祝福を受けるべく、拝殿まで歩みを止めなかった。同族が見張る参道を行く。

 祝詞が謳われる。神楽鈴が鳴る。紙垂が鳴る。

 私は再びの祝福の機会を歓喜に満ちた顔で、八女津姫様に跪いた。


「あなたに、祝福を根付かせましょう」


 八女津姫の美しく白い手には、緑の実があった。愛おしく細い指に包まれている。

 私が見上げる彼女の顔は哀しく曇っているが、次期になくなるだろう。これも必要な工程だ。私の完全変革を贄にして、八女津姫様もまた一つ指針に近づかれるのだ。

 惜しいのは、あの少年を捉えていないことだ。

 血肉を糧に、魂を贄にして、八女津姫様に更なる高みへ行っていただくのだ。まだよりどころにしようとしがみつく人間性を、手放していただく。

 彼女の手が。緑の実が、私が少し腰を浮かせるだけで触れられるところまで近づいていた。

私は、いよいよ変われるのだ。


「だめだ、百合。お前がそんなことしちゃだめなんだ!」

「……」


 歓喜の時の横やりにやや興ざめだが。

 こちらの望んだ供物が自らやってきたことをまず喜ぶべきだろう。

 清原宏太。

 八女津姫を留める楔の一つ。

 跪いたままの私は視認していないが、私たちで感じ取っている。私の後ろ、彼は石鳥居を超えてすぐの参道で立っていた。どれほど走っていたのかわからないが、彼の上下する肩や流れている汗の量から懸命さは量れた。

 八女津姫の意志に反して、彼はここまでやってきた。


「――と」


 捕らえろ。

 私たちの意思が私の口元まで上がってきたそのときだ。


「止まれぇ!」


 必死の叫びが、私たちをその場に押しとどめた。

 彼女だ。

 丹波百合が、私たちを八女津姫の力で縛っている。まだ未成熟でありながら、なるほど強力な権能だ。期待を持てる素体。彼女の力で、今代の八女津姫の、その一端が垣間見えて嬉しくなる。


「コータ。逃げて。ここから。早く!」


 よほど大事に想っているのだろう。

 感情を押し殺したような、普段の彼女の振る舞いからすると驚くに値する。彼女は両の腕を我ら同族にむけて広げて、指には力が込められている。我らの抗いに抑え込んでいるため、それに耐えている彼女の額には汗が滲んでいた。

 あと数刻も待つ必要はないようだ。

 解放後、速やかに儀式をはじめられる。

 私も八女津姫の権能を破るべく、足と腰とに力を入れる。


「お前も来い! 一緒に帰ろう! 亜美さんも帰ってくるのを待ってるんだ」

「だめ。あまり抑えきれない。もう飛ばす力も残ってないの。お願いだから、ここを出て。お願い……! いやだ。コータ。あなただけでも」


 潰れる音と、砕ける鈍い音があった。参道を囲む同族たちは全身を震わせていた。赤い血を吹き出し、首が外れ、腕が捻れ、足があらぬ方向へ曲がる。


「生け贄を。不浄を払う。生け贄を。不浄を払う」


 この拘束の権能を力任せに打ち破ろうとしているのだ。

 我ら同族の抗いは自壊を構わない。肉も骨も砕けるのを厭わない。なれば、私も急がねばならないだろう。奥歯が割れ、足の骨が砕けても。私は抗った。

 霧が白みを濃くしていく。玉砂利のように小さな骸骨がカチカチと歯を鳴らし出す。いよいよ感知されたのだ。気づかれてしまった。

 少女の懇願にも宏太は引かない。訴える目で立ち向かおうとしていた。


「なあ。百合、亜美さんは本当にお前を待っているんだ。この間さ、お前を探してアパートに行ったんだ。亜美さん、俺のことはちゃんと覚えていて、部屋にあげてくれてお菓子もくれたんだ」


 そしたらさ、と紡ぐ言葉は涙に濡れていた。


「百合のこと忘れているのに、お菓子が三つ、三人分出てきたんだよ。あの人、百合を忘れても、覚えていたんだよ。お前の帰るところはまだあるんだよ!」

「っ!」


 百合ちゃんは、はっとして、目には涙を浮かべた。


「……でも! でも私! どこにもいちゃ行けないの! 私がいたら、お母さんもっとみんなに嫌われちゃう。お母さんもっと苦しい思いしてしまう。みんなに嫌われて、私はこんなになってしまって、もうどこにも居場所なんてないんだもん!」


 彼女は泣いていた。

 どこにも行けないからここにいるのだと。

 ……泣いているんだ。

 必死に同族を拘束させている超常的存在は、まるでただの少女のように涙を流していたのだ。


「俺は、百合が好きだよ」


 宏太が、絞り出すように叫んだ。どうにか届かせようとしていた。

 その場からは動かずにいて、彼女の意志を確かめようとしている。彼には見えているのかも知れない。彼女の仮面と本心が。

 だからこそ。


「亜美さんもお前のことが好きだよ。それじゃ、だめなのかよ」

「私が帰るとお母さんもあなたも、危ない目に遭うかもしれないのよ。私は嫌だ。私は、私の好きな人が、これ以上危ない目に遭うのも、傷つくのも、見たくないの!」

「お前はどうしたいかを聞いているんだよ」

「……ッ」


 彼女に動揺が駆け巡る。小さな身体から溢れそうだ。

 少女の必死に押さえている感情が、私にも見えた。


「っ、帰りたい。帰りたいに決まっているじゃない! お母さんと一緒にいたいよ! でも私が帰って、何も終わらないの。これはずっとずっと続いていく。どうあっても私じゃ止められないのよッ!」

「だったら、そういえよ」


 苛立たしく吐き捨てられた。

 少年が、とうとう踏み出した。

 駆け出した。

 決死の覚悟を秘めた顔をして、地を蹴った。


「来ないでぇ!」


 百合ちゃんが泣き叫んだとき、均衡が崩れた。

 参道の両端で拘束されていた同族が動き出す。八女津姫の力を破ったのだ。所詮は彼女もまだ不完全。どれほど強力でも使い手が未熟であれば綻びも限界も見えやすい。持久勝負であれば、強いも弱いも結果のための要因に成り下がる。

 その結論は、同族の解放を意味していた。

 百合ちゃんの顔が、現状から不覚を見せつけられて青ざめる。いくら彼女に権能があろうとも、一度破れたものを再度実行させるには、反動も未熟な肉体や精神面も含めて、タイムロスがあった。

 そして、ロスこそ、致命に直結する。

 白の同族が一斉に、この現状を作りだした発端である少年を狙った。同士討ちなぞ目的のための誤差に収める勢いだ。数十、あるいは百数体の同族は、自らの肉体で彼の捕縛具または圧殺する道具になるのを選んだ。

 もはや儀式すら簡略化させ、この場この時、この瞬間で生け贄として少年を、血と肉と魂とに分解するつもりなのだ。姫様には供物を献上し、これにて完結に至る思惑だ。

 で、あるのなら。

 次いで動くしかない鈍足から、直中に突っ込む最速までの瞬発を為す。

 は。


「――助けるよ!」


 振り返る動きで、月夜のような闇に支配された世界に、赤い軌跡を残す。

 僕の手には、があった。

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