七章 4/5 〈深淵〉

 成り果てにもなりきれなかった妄執もうしゅう残滓ざんしの列があった。

 私の歩みに反応してかは不明だが、トンネルに向かって歩き出した私の視界にはトンネルまで続く人の列があった。十人数十人どころではない。どこまでもいつまでも続く、数を例えに持ち出すのも愚かしほど延々と長い列だ。

 これに参列を促す小さな力を感じる。

 妄執ゆえ、少しでも積み重ねて、八女津姫様に拝礼しようとしているのだろう。私が混じり込んだところで、妄執に染まり果てるだけで、近づくのも叶わない夢なのだが。

 あれに素直に並ぶほど私も劣っていない。

 視線を巡らせて、トンネルの大岩を迂回する手立てにした。道らしい道はないがどこか傾斜の緩やかのところで、手と足を使い、無様によじ登るしかないだろう。

 とはいえ、今の私ならさほど苦労はしない。無様は、避けようのないことだが。


「よっと」


 予見していたとおりに、さほど問題なく岩山の頂上に立つ。

 霧に埋もれているが大まかの形容把握は難しくない。

 連なる山々の盆地。底に町を構えている。

 見覚えは当然。榊木町だ。

 ここから先が神域だ。広大な境内。やはりどうにも広がりすぎている。

 視線を下にやる。

 妄執の参列はトンネルをくぐり抜けてはいるが、さほど先に行かず、霧に飲まれるように消えていた。所詮は妄執。形になれず跡も残せず消えるのみ。

 岩山を過ぎてしまえば妄執の参列に引き寄せられる力は弱かった。

 私は麓まで下りると、町の中心を目指す。物理距離は意味を成さないが、ここでは望まなければ拝殿に近づくこともできないだろう。

 急げば早く着くというわけでもない。

 ふと意識を周囲に傾けてみれば、現在地は町の中心街。

 視界には変わらず薄暗い闇と霧が佇んでいる。だが、町すべてが見えないわけでもない。

 町の時代基盤は明治、昭和初期に近い。道の地肌は土で、人と物の往来の数だけ忙しく歪んでいる。線路も通っていた。まだ榊木町にも蒸気機関車が走っていたときのものだ。

 この神域の拡大時期のモデルだろうか。しかし随分近時代的だ。物質表層界の文明や知識は確かに世界の知見を広げるが、反対に我らの器官を衰退させ、目標の星を遠ざける檻でしかない。

 これは明らかな異常だ。現代を模倣まではいっていないが。

 後退の危険すら孕んでいる。


 トントン、

 カンカン、


 石工の石を削り、ノミを叩く、リズミカルで軽快な音が聞こえてきた。まるで祭り囃子だ。

 町を覆う霧と闇の暗幕の向こう、または建物の窓から、何やら職人が作業しているのは窺えた。職人の手元を照らすための行灯が影を作り、霧の暗幕に照らし出しているようだ。

 石灯籠と人の動く影絵が、通りの脇に浮かび上がっている。

 影絵のようになってしまっているのは、もはや実体がないからだ。

 ただ、この神域の維持を命じられたままに行っている精神体。永久に等しい時間を、この神域に従属するためだけに肉体を捨て、意思を行動主体までに研磨した。

 彼らは我らの宿望のため、自らの望みで、意思のない従属にまで墜ちた。

 ただ単純に。しかし純粋に神域の持続のみを行っている。

 怖さはない。

 我らが宿願のためとはいえ、かつて我らが最も憎悪した造形の末路を選ばせてしまったことの哀しみはある。自ら志願した彼らの意思には畏敬さえもあった。

 祭り囃子は徐々に柔らかみを帯びていく。

 なんとなく木材を加工している音なのだとわかる。ノコギリの木材を切る音や、鉋の音まで聞こえてくれば確信に至る。刷毛で塗っているところもあった。

 直方体の何かを造っているようだ。線香の香りを拾ったようで、それが幻覚だとわかると、ああと合点がついた。仏壇だ。

 もしかしたら他に仏具も造っているだろう。人の影絵の息づかいから、お経のような声も漏れてきていた。

 純度の高い祈りを造形に施して物質化させるのは、人間の限りある命で継いでいくのに効率はいいだろうが。これらは重ねる度に本質が歪んでいる。

 だが人の身を捨てても、人から為せるものは、この顛末に定められている。

 どれほどの時を要するのか推測は難しいが、この神域はいずれ限界が来るだろう。

 封印が解ける終末を想像に難しくない。

 職人たちの祭り囃子が遠ざかる。

 しゃん、と神楽鈴を音がした。

 反射的に視線をやれば、顔を白い布で隠した、上下白装束の神職のひとりが影絵の前を通過しているところだった。なぜかただひとりで、神楽鈴を鳴らしながら歩いていた。

 淡い逆光でよくは確認できないが、は確信して彼女を追いかける。


「有子!」


 顔は見えていない。姿形も、もしかしたら人ではないかもしれない。

 だがそれでも、僕は叫ばずにいられなかった。あいつに間違いない。

 声は聞こえている。こちらを認識していながら無視している。すでに僕でもそこまで彼女を知覚できる。意思の共有はできないから、彼女がどんな状態であるかはわからない。

 意思はあるのか。

 まだ成り代わりのままなのか。

 僕が彼女に追いつくよりも早く、彼女は影絵の向こうに消えた。知覚の外に逃げられては追うことができない。単に距離の問題でなくなっている。

 神楽鈴も聞こえなくなった。


「くそ」


 諦めて身体を休める。

 どちらにせよ、このまま奥地に行くしか僕に残されていないということだ。

 僕は、遠くの祭り囃子を背中に再び歩き出した。中心街をそろそろ過ぎるようだ。

 神域の中心地というよりは深層のほうが表現では近いだろう。より深く、さらに深く。霧と闇が濃く澄んでいく、更なる深淵へ。

 また、しゃん、と神楽鈴の音が聞こえた。

 有子のではない。いくつもの神楽鈴の音だ。近づいているのだ。積み重なって残滓に成り果てた思念も僕に届く。


『神えらびを許し給う』


 峡谷。

 川に沿う、街灯もなく舗装もされていない田舎道。

 視界の両脇に聳える黒の山々の分け目を進む。

 それにつれて山肌の時代が逆行に向かっている。時を遡るのではなく、時が断層でわかれているのだ。

 植林の人工性が薄れていき、原生の瑞々しくも危うさを孕ませる自然本来の顔を闇に潜ませていた。人間の目に見えなくても他の器官がそれを感じ取っていた。


『神えらびを許し給う』


 擦れる感覚を伴って、やがて日向神村に辿り着く。

 村入口に、石柱が二つ立っている。石柱の間には注連縄があった。僕がこの注連縄の違和感に察しがついたのは、通り過ぎたあと、振り返ってからだ。あれ、

 しかし、これもすぐに霧散する。

 あらゆる疑念が消えていく。

 私の意思の純度があがる。

 そして。

 霧が晴れていく。

 澄んだ闇が静かに佇む世界を、薄ぼんやりと照らし出されている。光源は見当たらない。まるで月夜色の夜空そのものが下界を照らしているような。

 瑞々しい枝葉を広げる木々の生い茂る峡谷の底は鉢のようで。小さな広場だ。

 神聖性を潜ませる空気こそあるが、目に見える光景はとても原始的な営みの跡だった。茅葺き屋根の竪穴住居が点在し、奥にさらに石鳥居が待ち構えている。人はいない。

 竪穴住居からこそするが彼らは出てこようとしない。こちらから干渉しなければ害のない寄生型の生き物だ。物質表層界まで浮かび上がれない彼らは、ここでこぼれ落ちてくる残滓を贄にしている。

 石鳥居は、材質こそ石に酷似しているだけで、妙な温かさと僅かな脈動を持っている。口や目、耳などに思われる形がいくつも表面に窺える。ともすればか細い呼吸も聞こえてきそうだ。

 僕はそんな薄気味悪い鳥居を抜けて、古池の前に立った。

 水深五センチもない、少し深くて大きな水たまりのようなところだ。まるで夜空の鏡のように澄んでいる。


「ああ――」


 堪らず声が漏れた。

 もうすぐ、ようやくに繋がれるからだ。

 これまでの小さな石の点人生が目的地までの目印だと気づかされた。


「――――――――――――、―――、――――――。―――」


 人の声がいくつも重なっているような詠唱。意味はわからない。

 父親との記憶から真似るのみ。

 記憶の海。累積した記憶の底から音を掬い上げる。言葉を掬い上げる。

 唄に昇華する。

 喉の負荷が酷くて咳き込みそうだ。だがやめるわけにはいかない。唱え終えるとき、僕は帰ることができるのだから。

 今、私の軀は人の形をしているだろうか。

 残念ながら古池の水面で確認するほどの興味はないが、いざ失いかけているとわかれば、感慨深くもなるのは当然だろう。

 今はただ、私は、神域のさらなる奥へ渡るための歯車に過ぎないのだから。

 水面は色を闇色に変えて、深淵を称える。

 ちゃんとできて内心ほっとした。

 まだ不完全の身だから、単独でやりきれるかはわからなかった。

 いよいよ。神域の最奥に辿り着く。

 そこに待つは。我らが導き手、八女津姫様。

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