七章 3/5 〈神域〉

「なんだよこれ。なんなんだよ。ここは、日向神……ダム……?」


 知識の檻を知覚できれば、物理的距離はさして問題に当たらない。しかし、移動は移動のはずなのだが、少年に知覚できるものではなかったようだ。

 なるほど。知覚できなければ一瞬と感じてしまうのか。

 時計の針は数分進んでいる。

 冷静であればまだ時間の概念から外れてないのはわかるだろう。

 現在地は、物質表層世界の榊木町最奥、矢部村の日向神ダムだ。

 八女津姫様が拝される神殿の最寄り。日向神村を水にて封じている。夏か干ばつ時期は過去の背景を窺えるが、ここ数日の雨でダムは満水に近い状態だ。

 私と少年は、日向神ダムの赤いトラス橋の中央に立っている。神殿領域に近づけているため霧が浮かび上がっているが、ここがどこなのかは一度来た者なら把握できるくらいは視界が通っている。

 少年は思い出したように私の掴む手を振り解こうとする。


「なんで、どうして、朝一さんどうしたんだよ。戻ってくれよ。あんたまでおかしくなったんじゃ、クソ! 離しやがれ!」

「どうにもしていない。単に戻った……いや、還ったというべきか。人の原典、開かれた頁を最初まで読み返したに過ぎない。人の人格が魂からでなく、環境や経験から錬成での成り立ちならば、私は今、半分を得た。現在と過去。この身があとの半分をめくれないのが口惜しい。これが知識の檻か。しかし触れたぞ。確かに知覚した。あとは突破のみ。これまで繰り返された刻の積み重ねの一路に並ぶ。これで私の軀のみだが、また一つ先に進めた」

「それがおかしいって言っているんだ。ちくしょう。これじゃ俺が間抜けじゃないか」

「安心しなさい。君の目的はちゃんと果たされる。八女津姫様にご覧いただく」


 しゃん、と神楽鈴が鳴らされる。

 どうやら揃ったようだ。

 霧より浮かび上がる同族たちはダムに沿う道路に現れ、日向神ダムを一同で囲んだ。肉眼で確認できる以上の数が集っているのは、霧に阻まれていても肌に伝わっている。

 しゃん、と神楽鈴が今一度、全員で鳴らされる。重なりに重なった音がダム地で反響する。音圧で山の木々が揺らされたのは決して過ぎた表現ではない。


「ヒッ!」


 重圧に耐えかねて悲鳴が上がる。身を固くし震えだした。

 自身の置かれた状況を感じ取ってか、涙目の子どもは顔を青ざめている。今にも腰を抜かしそうだった。

 座り込まれたところで進行に支障は無いが。


『神えらびを許し給う。我らはここに今一度の穢れを贄にし、屍を連ねて、星を繋ぐ』


 祝詞が謳われる。ダムに集う信徒たちが声を揃えて、重ねている。

 紙垂が鳴る。神楽鈴が鳴る。


「こんなの、呪いだろ」


 おっと。たまらず自嘲が漏れてしまった。

 少し混じってしまったか。些細で問題に至らないだろう。


『この大地に安寧を留めよう。

 我らは盟約の刻までを紡ぐ。

 奴隷の楔から解き放たれるまで、仮初めに我が身に楔を穿とう。

 森の黒山羊へと列を成せ。

 すべては原初に還るために。仮初めの末路を連ねて紡げ。

 我らにはじまりを。

 我らにおわりを。

 この墓標がまた一つの原初までの一歩を築く。

 なればこそ、神えらびをせねばならん。

 神えらびを許し給う』


 今現在でも、知識の檻は壊せず、抜け出すのも不可能だ。

 だが、知識の檻から観ればいい。

 この肉塊の器官にそこに在るものを知覚させるのだ。

 例え脆弱で泡沫のような感覚でも、こうして集い紡ぎ、連ねれば。一筋の道を造れる。

 では。八女津姫様の御前に参ろうか。


「え。なんだよ。おい、おいって。離せよ!」


 無造作に少年を肩に担ぎ上げる。

 トラス橋より眼下には、ダムの水面の代わりに暗黒が満たされていた。

 落下防止のための柵に立つ。

 私の支配権に優位のある身体は、ちょっと無理をすれば、子どもひとり抱えても足と腕一本ずつ余っていれば難なく柵に上れた。筋肉に支障はできるがどうせすぐに治るのだから気に留める必要も無い。


「おいって。痛い。痛い! 離せって言ってるだろ!」


 少年が暴れるので誤って落とさないように力を入れすぎてしまっていたようだ。


「暴れなければ痛くしない。もっと締め上げてもいいのだぞ」

「っ、……あれはなんなんだよ。あそこに俺を落とすのか」


 子どもにしてはまだ頭を働かせる余力を残していたか。


「違う。お前と私が行くのだ。お前のしている心配は起きない。今見えているアレはただのパスだ。光源に依存する目では暗黒に見えているだろうが。舌を噛みたくなかったら静かにするといい」

「まさか、ちょっと、おいやめろ、おわあああああああああああああああああああ!」


 私は清原宏太を担いだままで、柵から飛び降りた。

 事態を速やかに進行させるため、耳元がやかましいのは我慢しよう。

 そもそも、いつまでも悠長に会話をするほど人間的ではない。私に寄生していた人格もあまり会話を好むタイプではなかった。

 眼下の暗黒面に足先が触れたとき。

 私たちは、八女津姫様が御座す、もう一つの世界に立った。

 物質表層世界のダムの底ではない。

 いわゆるところの亜空間。

 緑の神の寝床。降臨時、かつての日向神村を基盤にしている。

 霧の世界。

 約束の地の起点。

 希望の出立地にして。墓標の塔。魂の灯台。

 ――――そのはずだが。

 


「違う」


 私の記憶のとにズレが生じている。

 入り口は日向神村近辺からだから、霧の世界でもほぼ同じ地点に繋がるはずだった。霧で視界が阻まれているとはいえ、解放された感覚がここがどこでどの位置かを把握している。

 その私が訴えている。

 ここは日向神村ではない。

 おまけに。


「少年は……」


 子どもの身体を固定していたはずの腕には、目的の少年はいない。間抜けにコを描いているのみの左腕だけだ。腕から好き抜けた感覚はなかった。逃げられたわけではない。

 考えられるのは。

 八女津姫様、か。

 なるほど。彼女は少年にご執心だった。であれば納得がいく。未だ執着があるとみえる。

 嘆息が漏れる。

 ため息? 私が? どうやら私にも人間が残っているようだ。

 なぜだか愉快になる。


「――さて。私も向かわねばならん。これもこれからの道のりと思えば瞬きにも満たない」


 私が目の当たりにしているのは、大きな岩山を通したトンネルだ。

 トンネルまでの道の両隣には石灯籠が闇の中で静かに佇んでいる。

 薄暗い霧の世界でぼんやりした視界でもわかる。

 榊木町の入り口だ。

 疑問はある。

 私の記憶とのズレだ。

 いつから緑の神の寝床はここまで拡大していた。膨大というほどではないが、これでは隠し通すどころか晒す痴態だ。


「……いや」


 肯定というより、疑問を打ち消す思考が流れている。

 緑の神の意志なのかもしれない。

 この疑念もいずれ霞のごとく消えるだろう。

 やはり、まだ私の中にはこの人間が残っているようだ。完全になりきれていないことが、この疑念を抱かせている。

 これが正しいことかただの杞憂かは、八女津姫様の御前でわかるはずだ。

 霧の世界で一歩を踏み出した。

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