七章 2/5 〈知識の檻〉

 まずは近くの神社から行ってみた。

 素盞嗚神社だ。ここは須佐之男命が奉られている。

 樹齢六百年の藤が境内に蔓を這わせている。春の開花時期は何かと話題にもなるくらいは有名だ。矢部川が近くを流れていて、清流の音も聞こえている。

 僕たちは裏口から境内に入った。ここの正門の鳥居は石造りで、夢や霧の世界に出てきた印象もあるが、同じものではないだろう。

 この境内を、最近夢で一度見ている。死人の参列、女の子の制止の声、そして有子が現れた。ただの夢にしては覚えているし、何よりあのときの感覚をまだ思い出せそうで薄ら寒かった。

 ここでは、ひとりのおばあさんが摂社に乗っているのを見かけたことがある。

 苔に覆われた石造りの小さな社だ。年代物だ。

 あのとき、おばあさんは確かに〝神えらび〟を言葉にして、この石の社に必死に祈っていた。おばあさんの姿はない。

 残念なのか、ほっとしたのかよくわからないが、おばあさんがいないのでは詳しい話は聞けない。僕では、社を調べてたところで得られるものはなかった。

 また場所を移動する。

 道路を跨ぐ大きな赤鳥居。稲荷神社まで続く参道を示している。時々修験道も訪ねているらしい神社だ。

 宇迦之御魂神が奉られている。

 通称のお稲荷さんといえば、誰しもが一度は聞いたことのある神様だろう。日本で一番神社が多いことでも知られている。山の斜面を這うように拝殿までの階段が長く、道が枝分かれもしていて、摂社や末社が道中にぽつりぽつりとあった。

 子どもの頃、僕は罰当たりにもここを遊び場にしていた記憶がある。

 しかし、ここも何も起きなかった。拝殿までの長い道のりの疲れを少しだけ癒やしてから、僕たちは再出発する。近場二つを埋めてもなければ、また別を当たるしかない。

 足下に気をつけながら長い階段を下りていった。


「こうして見ると、神社っていろんなところにあるなー」

「そうだな」


 宏太は麓に下りたところで、携帯電話の地図機能で神社を検索した。

 古くは精霊信仰に近い形をしていた時代のものも、どこかに残っているかもしれない。摂社や末社の形で残される産土の末路もそれだ。

 とはいえ、今回は神社や信仰の歴史の探索ではない。

 僕が百合ちゃんと出会い、白の参列を見た神社は、まだ行っていない。よほど古く忘れ去れているためか、宏太の地図を覗き見たとき、画面上の地図のあるべきところにその神社はなかった。


「津江神社も行ってみるか」

「うん。次はそこに行こう」


 臆病な心が勝る。

 なんとなしに次の目的地を決めたようで、僕は、忘れ去られた神社を避けた。この後に及んで、というよりは躊躇いや弱音に頼って逃げたがる性根だからだ。

 確証はない。ただ、近寄りたくなかった。

 津江神社は、創造の二柱、伊邪那岐命と伊邪那美命が奉られている。境内には、樹齢八百年以上の神木、空を仰ぐほどの大きな樟がある。


「初詣と相撲大会以外で来たのはじめてかも」


 祭りなどの時と違って人の姿をほとんど見かけないのが珍しいらしく、宏太はここに来てからキョロキョロしている。たぶん七五三のときも来ているだろうが、覚えていないのだろう。


「何もない、か」


 津江神社では、あの神楽鈴の音を聞いた覚えがある。

 あのときは、有子とのの後で、ここに立ち尽くしていたっけ。

 これはいよいよ、あそこに行かなければならないのかもしれない。僕と百合ちゃんがはじめて出会った神社へ。

 人に忘れ去られてた、神と人のかつての境界に。

 不意にで誰かが笑みを浮かべた気がした。

 嫌な予感がした。不安の息吹が頬を撫でる。

 僕がそれを恐怖と名付ける前に、瞬きよりも短い抗いすらも許されず。僕は塗り替えられた。別人の誰かとの切り替わりではない。

 僕を変革する。

 せめて宏太を遠ざけたくても、もはや手遅れだった。


「朝一さん……?」

「実は、もう一つ心当たりがあるんだ。そこを回ってから日向神ダムに赴いてみよう」

「う、うん。なあ、大丈夫。ちょっと目が怖いぞ」

「至って大丈夫だよ」


 ――――ほら。神楽鈴の音が聞こえるだろ?

 なれば探す手は愚の極み。

 すでに成している。

 視点を切り替えろ。

 重なるフィルター。知識の檻を超えろ。

 古きは星の瞬きから。

 新しきは星の終わりまで。

 万物はすでにある。

 なれば、経過の手立てに趣向を凝らすのは興でしかない。

 ――結論を提示する。


「霧……? 昼間に?」


 朝から明瞭だった視界を、白い霧が遮っていく。

 それはまるで、帳のようで。ゆっくり、だが目でわかる早さで、霧が空から蓋をするように落ちてくる。

 道中、人気のないバイパスの道路はホームセンターやスーパーマーケットが建っている。ここは本来であれば、平日の昼間でも買い物客でそれなりに人気があるはずだ。田舎でも人の営みや賑わいがわかる、数少ない場所だ。

 しかし、今は珍しく人気がまったくない。

 道路や駐車場に車が一つもない。少なくとも店の従業員くらいの車はあってもおかしくないはずが、それすら見当たらない。

 人の熱がないためか、霧に太陽の光が遮られてか、夏の空気に空虚の冷たさが漂う。

 心なしか蝉の鳴き声も遠くなっていた。

 落ちる霧は蓋にあらず。知識を眩ます万華鏡。

 外界を閉ざし、内側より外を見いだす。


「なんだ。なんの音だ。鈴……?」


 宏太は足を止めて、周囲の霧の向こうを窺った。

 しゃん、しゃん、しゃんと音が近づく。神楽鈴の音が大きくなる。


「なあ、朝一さん、なんかやばくねえか……朝一……さん……?」


 少年が私の顔を、ぎょっとしている。

 どうやら顔に出てしまったようだ。

 もはやすでに遅い。

 切り替わる時だ。

 知識を裏返す。

 今一度足下は崩れ。なれど世界は平然と醜悪に横たわる。

 であれば我々はただの一つの目でしかない。

 知識の檻より向こう側を開こう。


「やばいって。朝一さん。なんでさっきから黙ってんだよ! あいつらが白い奴らなんだろ。なあ! なあて!」


 ――十メートル先の見えない濃い霧から、まるで浮き出るように、白い装束の同族が現れた。この町を埋め尽くさんばかりの人集りが僕たちを中心にできあがる。道路も田んぼも駐車場も、すべてが白で溢れる。

 顔を白い布で隠し、紙垂と神楽鈴を鳴らして。

 いよいよの刻を唱えるのだ。その時が近づいている。


 「――――――ヒッ、」


 少年の顔が引きつった。

 私と少年を囲う同族に驚いてもいるが、彼にはどうにも私の顔が恐ろしくてたまらないようだ。こんなにも喜ばしいことはないのに共感できないのは哀しい。

 笑みがこぼれてしまうのは仕方のないことだ。

 少年を逃がすまいと、腕を掴んだ。


「さあ。〝神えらび〟をはじめよう」


 霧が閉じる。

 神楽鈴が重なる。

 同族がさらに集う、迫る。


「なんだよ。お前ら。近づくんじゃねえよ! 来るな! 朝一さん、頼むから手を離してくれ。頼むから! お願いだ。こいつら近くに、迫って………!」


 では、さっそく帰ろう。

 道を探すから見つからないのだ。

 なぜついさっきまでわからなかったのか。自分の間抜けぶりが恥ずかしい。

 ――すぐに参りますよ。我らが八女津姫様。

 少年の叫び声が聞こえる。とても怖がっている。それがただただ、愉快でならない。余興という人間らしい必要性を少しばかり考える一幕だった。

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