七章 1/5 〈歪形〉
どうするんだよ、と少年の投げかける視線が痛かった。
早速どうすべきかの判断に迫られている。
他に〝神えらび〟がわかる人を知っている。僕の叔父、櫟静夫さんだ。しかし、彼は分家に当たるため、以前話したとき詳しくは知らされていないようだった。僕の父がいろいろ知ってはいたようだが、僕は彼から何かを聞かされた覚えはない。
この家独自の古い習わしくらいならわかるのだが、それも知識というより形だけだ。儀式的なやり方は知っていても、意味を知らなかった。
父は形しか教えてくれなかった。
ともあれ、父をよく知る人物はやはり静夫さんだ。もう一度あたってみるというのも、考えられない手ではなかった。
「僕の親戚に昔の〝神えらび〟を知っている人がいるから、そこに行ってみよう。何かわかるかもしれない」
「……わかった」
宏太は何か言いたそうな顔をしていたが、頷いてはくれた。
櫟家のいきさつは説明せず、とりあえず簡単に身支度を整えた。シャワーも浴びたので少し時間がかかる。よほど臭ったのか、宏太に風呂入っているのか聞かれたからだ。
外は真夏の
櫟静夫宅に二人で歩いて向かった。
「あんたは、どこで百合と知り合ったんだよ」
「偶然だよ。話したわけでもないし。彼女の母親が倒れたのを看病したときも、その子の母親だなんて知らなかったよ」
「百合のお母さん倒れたのか!」
「もう数日前のことだよ。元気にしてたの見たのなら大丈夫だよ」
僕にだけあたりが強いだけで、宏太という人間の根は優しいのだろう。百合ちゃんも母親のことを話さなかったのは、この少年に余計な心配をかけるとわかってのことかもしれない。
「そういう君は、有子と知り合いだったようだけど」
宏太は、有子さんが話しかけてくれたんだと漏らすように答えた。
「友達がいなくなった話をしただろ。そのとき出会ったんだ。まだ百合から死人と入れ替わっている話を聞いたばかりで、あんまり信じてなかったとき。約束の漫画の本を持って公園で待っていたらさ、有子さんが心配して声をかけてくれたんだ」
なるほど、と納得する。有子は放っておけなかったのだ。あいつらしい。
「俺の話も、百合から聞いた話も、有子さんは聞いてくれた。わからないとかおかしいとか言わないでくれて。嬉しかった。有子さんも、こうなることをたぶん今思えば知っていたんだと思う。そういう感じだったから。二、三日前に何かあったらあんたを頼るようにも言われていたんだ」
有子が僕にどんな信頼や期待を寄せていたか知らないが、僕は自分にそれほどの能力があるとは思えない。
彼女の櫟朝一が遠くて哀しいのを誤魔化したくなった。
「あいつ、お節介だろ」
「わかる」
宏太は少しだけ笑ってくれた。
櫟静夫宅に着いた。ブロック塀を抜けて、コンクリート舗装された庭をいく。玄関周囲は土のところがあり、狭い範囲でありながら松や広葉樹の植えてある日本庭園風に整えられていた。
呼び鈴を押した後、目的の人物の応対する声が玄関戸の向こうから聞こえた。
戸を開けた静夫さんが目を丸くする。
「どうした。清原のところの子どもを連れて」
「こんにちわ。ええと」
とりあえず玄関内に入る。さっそくだが話題を切り出すのに手間取った。そもそも人と話すのを得意としていない。
時間にしてみると数秒でしかないが、その手間取りで、奥からもうひとり顔を見せた人がいた。静夫さんの奥さんだ。櫟綾子。
小柄でふくよか。白の割烹着が似合っている。膝を痛めているらしく、よたよたと廊下を玄関の上がり口まで歩いてきた。
「あら。朝一君、それに宏太君も。どうしたの二人で」
まずます話しづらくなる。
人間二人対応は、人間ができていない僕に負担が大きすぎた。当然だが宏太は後ろで見守る役に徹している。ここは僕が話さなければならない。
「ええと、ですね。聞きたいことが」
「ちょっと待ってくれ。おーい。わかってるよ! ちゃんとしてるから。……すまない。母さんがうるさいだろ。信仰熱心なのはいいが周りに迷惑を考えないものだから」
「え?」
うるさい音も声も聞こえていない。
どちらかというと、この家を訪ねるといつも玄関まで聞こえていたお経を唱える声がないことに、今気づいたくらいだ。ここまで漂っているはずの線香の香りが弱い。いや。これは残り香だ。
古い家は夏の暑さを逃すため、家中の
であるのに。
静夫さんの言動は。そこに何かがいるみたいだ。
あそこには彼の母親の成り代わりが毎日お経をあげていたはずだ。
その姿はない。
否。居るのだ。彼の中では。まだ、あそこに母親が。
「大丈夫だよ。母さん。ちゃんと僕でもできるから」
心なしか子どもっぽい声色だ。
自分の親相手だからなのかもしれないが。とはいえ、普段の静夫さんから考えづらい仕草さは違和感よりも、何かしらの怖さがあった。
隣で静夫さんの奥さんが慌てたように仏間とを繋いでいる部屋の戸を閉めた。
「ごめんなさいね。静夫さん、最近疲れてるみたいで。その、独り言が多くなってきて。いろいろ歳だから、そのせいだとも思っているのだけど」
「そう、なんですか」
僕はなんとか応えることしかできなかった。
こうしている間も、静夫さんは閉められた戸の向こうのいないモノにむけて言葉を投げている。戸を隔てていないかのような言動だ。
おかしいというより、歪な光景だ。異様だ。
「あの、静夫さんにお母さんは」
「あの人が生きているのだから居たには居たのだろうけど。でもね、この家には遺影も位牌もないし、私、あの人のいう母親の葬式にも参加した覚えもないの。結婚してから、あの人の母親にはあったことないし。たぶん、昔の記憶がそうさせているのだろうと思っているのだけど。ごめんなさいね」
もう歳なのよ、と申し訳なさそうにつぶやいた。
静夫さんの母親も死後に成り代わりが現れていた。それが消えたのだ。その空白が現実に歪な跡を残してしまっている。あまりに大きすぎてか、僕みたいに忘れたくないためか、静夫さんは耐えきれず壊れてしまったのかもしれない。
詳細はどうあれ、もう静夫さんから〝神えらび〟を聞き出すのはできそうにない。静夫さんの対応に憔悴している綾子さんにも、これ以上ここに居るのは迷惑だろう。
僕は引き下がろうとした。
ところが。ずっと僕の後ろで控えていた宏太が前に出て、こちらを向いてくれなくなった静夫さんに聞いた。
「おじさん。〝神えらび〟を知っていますか。友達が大変なことになっているんです」
「かみ……えらび……?」
静夫さんがぴたりと止まった。
ぶす、と襖に指が食い込む。猫の爪とぎみたいに襖を破いた。
「列を成せ。契約の時が迫る。綻びは滅びを生む。虚の歪み。鼓動が聞こえる。目覚めを許すな。許すな。今一度ここに楔を打たねばならん」
破く。破く。破く。破く。破く。
襖が破かれていく。
「静夫、さん……」
「打たねば。打たねば。くさ、楔を、楔を打たねば」
「やめて。あなた! もうやめてよ!」
僕は、綾子さんが必死に静夫さんの奇行を止めようとしているのを見ていることしかできなかった。
ここもだめだ。
この人も、もう壊れてしまっている。
「うた、うた、ウタタ、ウタタタタ、打たねば、打たねばババ」
「ごめんなさい。この人最近ずっとこんな調子なの。今日はもう帰って。ごめんね。でも今日は無理だから。お願い。お願いしますッ」
僕たちは、綾子さんの泣きながらの懇願に迫られて出て行くしかなかった。
どのみち、もう静夫さんから詳しい話ができそうにない。
櫟静夫宅の敷地から出て、隣を歩いている宏太が漏らすように言った。
「ごめん。余計なことしたみたいだ」
「仕方ないよ。どのみちあの人はもう壊れていたんだ。君のせいじゃない」
「……うん」
とはいえ、手詰まりだ。
目的がないまま歩いている。夏の蒸し暑さが鬱陶しい。このまま何もできず僕たちは帰るしかないのだろうか。
この町さ、と宏太が町を眺めながら溢した。僕たちが今歩いている道路は丘に沿っている。さほど高くないが盆地である町を見渡せた。
夏の喧騒にまぎれて潜む薄気味悪さが、今にも溢れて、化け物の姿を成しそうだ。昼間の人気の無さがそれを際立たせている。
「人が消えはじめておかしくなっているんだ。なんか、変な動きする人が増えた気がする。みんな怖がっていて、噂にもなっている。でも相談とかそういうのは仲がいい人同士でやってる感じだ。こんなにおかしいのに、隠そうとしていて、気味が悪い」
商店街のほうでも、店主が誰も居ないところに話しかけている姿があり。笑い声などの賑わいがあっても人の姿がどこにもないこともあった、と宏太は話した。
静夫さんのときみたいに、壊れたレコードのように言動を途切れ途切れに繰り返す人さえいたそうだ。
「もう元には戻らないだろうね」
「たぶんな。で、これからどうするんだよ。朝一さんは、他に何か知らないのか」
「
「いや。本当に何も起きなかったんだよ。なんなら近くの神社にもいったぜ」
「白い奴らも現れたなかったのか」
「白い奴らって……ああ、俺を押さえつけてた奴らか。ぜんぜんだ。どこにも声も形もなかったよ。あいつら百合を八女津姫とかいっていたな。なんなんだよ。神社や道路に現れる噂は知っていたけど。本当にいるとか冗談過ぎる。あんときは心底怖かったぜ」
「僕にもわからないよ。でも、もしあいつらが現れてくれるなら」
たぶん、僕も。あいつらだ。
だがこの事実以上に知っていることはない。
知らないことで試せる予感はあるが。どうなるかもわからず、そうなったとき、僕が少年の味方の保証がない。この身体に未だ残る歓喜の残滓は、身の毛がよだつ気味悪さがある。
「あの霧の世界まで運んでくれるってことか」
というか。
思い出したようになってしまうが、言わなければならないことがある。
「もし日向神ダムであいつらに遭遇してしまったらどうするつもりだったんだよ。ひとりじゃ危ないだろ」
「ひとりであってもなくてもあいつらのところに行くのだから危ないのに変わらないだろだいたい誰も話を信じてくれないし。仮に協力を誰かに頼むとしても、あいつらをどうにかできそうな人なんて警察くらいしか思いつかないぞ」
現実的手段が思いつかず、かといって何もしないのをできないからひとりで行動に至ったということらしい。
最善かの議論は必要なところではない。
もう過ぎ去ったのを論じたところで現状に変化はない。
「ともかく、日向神ダムでもなかったのなら他にどうするかだ。あの霧の神社をどこかで見た覚えはあるか」
ない、と宏太は簡潔に答えた。
霧の満ちる薄暗い世界で、石の鳥居の最奥に拝殿を構える神社を、僕も榊木町で見た覚えなかった。
前提の間違い。そもそもこちらから何かしらの接触すらできないのではないのか。
一方通行。
出口を探すのではなく、出入りしている連中を見つけることが最善ではなかろうか。つまるところ、この少年の行動はあながち間違いでもなかったかもしれない。
とはいえ、だからといって、この現状の打開が転がってくるなんて幸福はない。
あいつらの気配を感じた神社なら僕でもいくつか知っている。そこを行ってみるのもいいかもしれない。
「いくつか神社を回ってみよう。それを試してから、だめだったらもう一度日向神ダムに僕と行こう」
特に別案があるわけでもないのか、宏太はわかったと頷いた。
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