六章 4/4 〈罪〉
あれからもう何日が過ぎただろうか。そういえば、昨日かいや一昨日からか風呂に入ったかも覚えていない。食事をしたかどうかさえ思い出せない。
ずっとぼんやりしている。疲れている。
何も考えたくない。
有子が、どこにもいないんだ。
ベッドで膝を抱えて丸くなる。動きたくない。
何も見たくない。
何も聞きたくない。
何も知りたくない。
何もしたくない。
僕に優しくしてくれ。
僕を助けてくれ。
僕を救ってくれ。
有子を。僕の日常を返してくれ。幸福な日々を。
なんてことない、鬱陶しくて、お節介で、五月蠅くて、暖かくて、面倒くさくて、苦しくて、嬉しくて、哀しくて、辛くて、有子のいる、幸せな日常を戻してくれ。
軋む音が聞こえる。締め切ったカーテンの隙間から差し込む光が、天井につるされた人影を作る。見たこともない絶望の幻だ。立ち尽くすこともできていない。
後悔よりも、自責よりも、恐怖よりも、怒りのような哀しみが襲う。
有子がいないとだめなんだ。
有子がいないと、僕は。
僕は、有子を自殺させた現実と向き合わなければならない。
ああ。違うんだ。僕じゃない。
彼女はあいつに犯された辛さから自殺したんだ。僕のせいじゃない。僕のせいじゃない。僕は悪くない。
あのとき彼女は僕に、犯されてしまったのを話したとき、僕は機嫌が悪くて突き放してしまったけど、彼女を自殺させたのは僕が直接悪いわけじゃない。
醜い。どうしよもない。ただのクズだ。もう許してくれ。僕に現実を突きつけないでくれ。どうか有子を返してくれ。僕の罪をなかったことにしてくれ。どうしようもない僕にこんなものどうにかできるわけないだろ。
僕を助けてくれよ!
……もう何もしたくない。
僕は、膝をきつく抱え直した。
外の天気は今日も雨のようだ。窓から聞こえる音は僕の気分を鬱にさせる。
雨が嫌いなわけではない。雨の日の記憶で、思い出したくないのがあるからだ。
あのときはもっと酷い雨だった。大雨だ。僕は両親を失った。
会社から逃げ出して故郷に帰ってから一年が経ったころだった。すでに僕は引き籠もりだ。
母親の身体の調子がおかしいから病院で看てもらうため、父親が車を出すらしい。そんな話を、僕は部屋の襖越しに母親本人から聞かされた。とても弱々しくて話すのすらしんどそうだった。
それでも息子に丁寧に伝えようとする心遣いを、僕は鬱陶しいと癪に障って、乱暴に、わかったと応えた。いってくるね、その言葉が母親の最後の声だった。
具合を崩していてしまったのを謝っているようにも聞こえて、僕はさらに機嫌を悪くして、舌打ちで返したのだ。
その日、しばらくして何度も携帯電話がなったり、自宅の電話がやけになっていたのを覚えている。インターホンも五月蠅いくらいだ。
僕は普段の引き籠もり生活から、それらを無視した。ただただ鬱陶しい雑音でしかないと耳を塞いだのだ。
それから夕方になって、曇りのせいかやけに真っ暗で。
夜かもわからなくなって空腹を諦めて眠ることにした。晩ご飯ができれば、どうせいつも通り部屋の前まで母親が呼びに来るはずだと思って。
ところが。
朝になっても両親は帰ってきた様子がない。
病院で、母親の容体に何かがあったのかもしれない。ともかく喉が乾いて、水道水で我慢して自室に戻った。
それから昼がすぎて、空腹もいい加減に限界で、いよいよ姿を見せない両親への苛立ちが頂点に達しそうだったとき。
誰かの、僕の家をもの凄く乱暴に歩く音を聞いたのだ。僕の自室の部屋をあけて、乗り込んできたのは静夫さんだった。
なんだなんだ、と起き上がる僕の胸ぐらを掴むと、静夫さんは僕を問答無用で引きずり出そうとする。
「お前はこんな時何をしている!」
「いきなりなんですか」
抗議のつもりで睨みつけるが、それ以上に静夫さんの鬼気迫る顔が怖くて気後れする。静夫さんは僕の弱気に呆れてか、手を離した。
「すぐに準備をしろ。病院に行く」
「母が、どうかしたのですか」
「兄さんが、お前の母親と父親は事故死したんだ! 川に落ちて溺死だそうだ。なぜ電話に出なかった。なんどもあったはずだろ。警察側から俺に伝わるまで、何度もだ!」
後で知ることになるのだが、静夫さんの言葉はすべて事実だ。
警察側が同居人の遺族で僕に連絡をしていたのだ。自宅を訪ねていたのも警察だったのだろう。
それから携帯電話には、警察以外の着信もびっしりあった。
静夫おじさんと、母からだった。
時間は、家を出てから二十分くらいだ。まだ病院でも道中だ。
激しい雨の中、カーブを走行中、中央線をはみ出した対向車と接触して弾かれ、ガードレールを突き破り、道路沿いの支流に落ちてしまったと話を聞かされた。たぶん、このときの着信だ。
新しい着信のいくつかに留守電が残されている。
『助けて。事故に遭っちゃったの。お父さん、起きてくれない。どうしていいかわからないの。お願い』
……。
『警察の人にもね、消防の人にも頼んでね、でも場所がわからなくて。目印がここからじゃ見えないの。ねえお願い。お願いします。お父さんとお母さんを助けて』
……。
『家を出たくないでしょうけど、ごめんなさい。お母さんひとりじゃ、どうしていいかわからないの。お願い助けて。水がね、水がどんどん入ってきて、止まらないの』
……。
『お願い。怖いの。怖い。助けて。場所はね、わからないけど、赤橋は過ぎたの。ええと他には。ごめんなさい。お母さんじゃ何もできない』
……。
『ごめんなさい。もうだめかも。あんまりみっともないから、これで最後にしますね。朝一、今日のご飯はね、あなたの好きなカレーにしようと思っていました。材料はぜんぶ冷蔵庫に置いてあります。使ってください』
……。
『忘れていました。銀行口座ね、凍結されるだろうから、水道もガスもぜんぶ止まってしまうと思います。手続きわからないのなら、静夫さんを頼ってください。櫟静夫さんよ。あなたの叔父さん。覚えてるかしら。それから、――助けてあげられなくて、ごめんなさいね。朝一。大好きです』
こんな
この留守電を聞いたのは、喪主とは名ばかりの両親の葬式が終わってからしばらくだった。葬式は静夫さんが全部手配してくれた。
留守電を再生したのは親の骨を納骨堂に収めた数日後だ。
それまで、どんな恨みが、憎しみが収められているか怖くて聞けなかった。何度か聞かずに削除するのも考えた。
だから、聞いて後悔した。
聞かなければよかった。
例えそれが家族愛でなくても、かりそめでも愛されていた記憶なんて、後悔を重くする。聞かなければ自分勝手の自責ですべて終わらせられたからだ。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
許してください。
僕はあなたたちに愛されたくても愛されるほどの人間ではなりません。どうしようもないほどに、自分勝手の小さな人間です。
父親が僕から家族を切り離した判断は正しかったのだ。
どうせならすべてから突き放して、世間体の親子愛とやらを演じずに捨てて欲しかった。
いつまでも、どんなになっても、自分のことばかりだ。
こんな僕が、有子のいなくなった世界をどうにかできるはずもない。
「呼び鈴鳴らしても出なかったから勝手に上がった。なあ、有子さんも消えたんだな」
少年の声がした。
目の前に清原宏太がいた。許可もなく家に侵入したどころか自室の襖を開けている。
「百合、見つけきれなかった。有子さんならもしかしてと捜していたんだ。でもあの人も、死んでいたんだな……」
「…………」
子ども相手に言葉を返す元気すらない。
ベッドの上の僕は彼に背を向けた。
「俺じゃもう何をしていいかわからないんだ。有子さんが困ったときはあんたを頼れっていっていた。この間の言ったことなら謝る。だから、俺に力を貸して欲しい。なんでもいい。知っていることを教えて欲しい」
悔しさが溢れそうな声だった。振り返らずとも、彼がどんな顔しているのか想像に難しくない。宏太は追い詰められている。
「うく……っ、う、うう、! もう俺じゃ、俺だけだとどうしようもないんだ」
宏太がぐすりと鼻を鳴らした。泣いてしまいたいのを必死に堪えているのがわかる。
僕からすれば、君は十分にできている。
なぜなら、今のこの状況を何とかしようとしているではないか。僕は何もしたくなくて閉じ籠もっているしかできていない。僕にはそんな足掻きをする力もない。
「僕にできることなんてないよ。有子から何を聞かされたか知らないけど」
「せめて、なんでもいいから、せめて知っていることを教えて欲しい。あんた、有子さんのこと覚えているじゃないか。なら、何か、他と違う何かを知っているんじゃないのか」
あるわけない。
こんな子どもにいったい何を吹き込んだのか。僕が何もできない無能なのを、有子が一番わかっているはずだろ。
親の助けを請う声にも応えず、君の自殺の背中を押した男が他に何ができるのだろう。
むしろ動かないほうがいいはずだ。何もせず、何も知らず、何も見ず、聞かず、こうして閉じ籠もっているのが最善以外にあり得ない。
何もしなければ、これ以上なんて起きないのだから。
……なのに。こんなにも胸の奥がちりちりと燻るのはなぜだろう。
僕は、やめておけばいいのにともう一人の呆れた声を聞きながら、少年に言葉を投げかけた。
「君は。どこで、有子みたいな死人の成り代わりがいなくなると、元の有子だけでなく彼女に関係するものまで消えてしまうのを知ったんだ」
「百合が教えてくれた。学校でさ、友達がひとり消えたんだ。百合や有子さんみたいに。俺、そいつと仲良くて、でも誰も覚えていなくて。あいつの机もなくなってて。俺がおかしいのかなって思いもしていたんだ。他の友達からも気味悪がられて、さけられるようにもなってたし」
そしたら、と少年は言った。
「この町にはそういう死人に成り代わって生活している人がいるから、その人たちが還るべき所に還った証拠なんだって教えてくれたんだ。物とか記憶も一緒に連れて行ってしまうんだと。なんでも戻り方がうまくいかないかららしい」
「百合ちゃんは、知っていたのか」
「あんまり教えてくれなかったけどな。あいつ話したがらないくせに、こっちにはいろいろアレは調べるな近づくなとかうるさかったな」
そういう少年の顔は少し嬉しそうだった。
百合ちゃんの現状から、彼女が話したがらなかったのは計り知れる。
彼女が死人かどうかは置いておいても、あの霧の世界での言動ぶりから〝神えらび〟の渦中にないし関係者なのだ。
否、と声無しのもう一人の僕が囁く。
お前はもう知っている、と。
八女津姫。
僕の知らない僕が歓喜に恍惚しながら、彼女をそう呼んだ。
あのときの高ぶりを覚えている。あれは異常で、狂気そのものだ。人間が持ち歩いていい類いの感情ではない。
「……町のいろんなところで、死人と代わっていた奴らが消えている。みんな普通に生活してるけど、俺からはちぐはぐに見えて。時々、動きを止めてまた動き出して。何もないところに話しかけてもいて。気味が悪い。……たぶんだけど、町がこんな状態なのも、百合と関係しているはずなんだ。あんたも知っているんだろう。〝神えらび〟を! 百合を連れて行った奴らのことを!」
「僕が知っていることはない。ただ、」
かつ、と何か硬い物が床に落ちる音がした。
「なんだこれ。石?」
「待て」
宏太と僕が寝転がるベッドの間で、直径四センチの黒い球体が転がっている。あの、父親が僕から取り上げた緑の木の実だ。ネクロノミコンの欠片に包まれて真っ黒い。燃えて消えたのを記憶しているが、そもそも僕の理解が及ぶものと思うこと自体が愚行なのだろう。
ただ、心なしかそれが僕のほう側に向かってきて見えるのは、偶然だと思いたい。
触れようとする宏太を止めて、僕は仕方なく身体を起こした。間違っても彼に触れさせないためだ。まだネクロノミコンが巻かれているため、僕も簡単には触れられないだろう。
「それはいいよ。触らないほうがいい。ともかく、あてはある。感に近いけどな」
まるで胸の奥で火が灯ったみたいだ。ぼんやり暖かい。
自室で宏太と対面する僕は、床に転がる黒い球を見やる。やはりじわりじわり僕の方へ転がって近づこうとしている。とはいえ、それはあまりに遅い。一メートルも離れていないが、僕の足に触れるには半時かかりそうだ。
ここは気にせず、宏太に意識を傾けた。
「あてって、どうすればいいんだ」
「〝神えらび〟と百合ちゃんが関係しているのなら、場所はたぶん日向神ダムだ。〝神えらび〟はあのダムの底に沈んだ日向神村の古い儀式なんだ」
「知ってるよ。だからじいちゃんにお小遣い貰ってバスでいってみたんだ。でも何も起きなかったぜ」
「――――――え?」
「ダムの底って話だけど、ここずっと雨だったから満水に近いんだよ。まさか潜るのか? あんな深いところを?」
「…………」
引き籠もりは今日の外の天気さえもわからないことがあります。
はい。ええと。どうしましょう?
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