六章 3/4 〈夢現の綻び〉

 ――――はっとする。

 銀杏いちょうの木の近く。横断歩道前で、歩行者用信号機の赤の点滅を眺めていた。傘を叩く雨音から小雨が続いているのはわかる。


「なんだ……?」


 意識が飛んでいた、気がする。

 違和感が僕に訴える。僕に異変が起きている。

 百合ちゃんが消えてしまっているのを知って、家に帰ろうとしていたはずだ。であるのに、僕の身体を向けている方角は家と反対に位置している。足に疲れもある。なんだか、ずいぶんな距離を歩いていたようだ。足の裏が痛かった。

 携帯電話で時計を確認すれば、丹波たんば宅から移動したと考えても時間が過ぎすぎている。以前もあった。津江つえ神社の神木前で立ち尽くしていたときだ。


「クソ。いよいよおかしくなっている」


 無理もない。

 異常すぎることが多々起きている。

 ましてや。


「いや。そろそろ限界が近いだけなのか」


 おかしくなっているのはうの昔だ。有子の、哀しく垂れ下がる影が脳裏にちらついた。

 自宅に着いた。玄関前の坂を上がったところで、僕は誰かが訪ねて来ているのに気づく。玄関前で、ひとりの男が傘も差さずにぼうっと立ち尽くしていた。

 僕の足音に気づいてか振り返り、疲れ切った顔にうさんくさい笑みを弱々しく浮かべた。

 刑事の東堂だ。つい最近出会ったばかりのはずだが、ずいぶんやつれていた。まるで数年の途方のない旅から帰ってきたようだった。


「ああ。ようやく会えた。捜しましたよ」


 昏い目が僕を捉える。

 こちらが近づくのを待たず、彼も僕の側まで歩いた。いや、詰め寄るといったが正しい。彼は何か焦った顔色で僕に問う。


「この町はおかしい」

「……」

「調べて調べてシラしらしらしら調べてみたみたたたタタタ、ら、」


 東堂刑事は自分の頭を殴った。二度、三度殴って、錆ついた玩具のようにガクガクと首を振った。途端落ち着いた。挙動がおかしいどころではない。

 

 そう例えてあまりに当て嵌まった。

 この男はもう壊れている。壊れてしまった。

 目が虚ろ。口からは涎が零れている。小刻みに身体を痙攣させていた。何かのきっかけでまた頭を振り出しそうだ。


「シツ、失礼しました。この町はおかしい。おかしいのです。時の虚ろ、綻びの末端、欠片の古城で砂金の夢を掬い上げなければなりません。忘却の記録、黄金の書庫、白銀の塔、蠢く砂、叫びのうろ、ああ、私はいったいどうして今までこんなにも大切なことを見落としてきたのでしょうか!」


「落ち着いてください。あなたは橋本大紀はしもとだいきの行方不明を調べていたのでしょう」

「ええ。そうです。そうですとも。そうですそうですソウデスソウデス! 一向に調査がすすみませんでした。完全に消息を途絶えていて、足跡を追えなかった。だから、彼がご執心だった神山有子の近辺調査に入ったのですよ。神山有子は、橋本大紀にストーカーされていました。その顔! ご存じでしたか。しかし、この事実はどうでしょう。彼女をシラ、シラベ、調べて、そうしたらなんということか、彼女は、すでに!」


 言うな。

 その先を言わないでくれ。

 頼む。お願いだ。

 僕が幾度となく目を逸らしてきた事に、こいつは許しもなく、踏み入る。何度も繰り返した自問自答と、それらから背を向ける返答で積み重ねた虚像の壁を、いとも簡単に壊すのだ。



 僕以外の人で、はじめて彼女の死に触れられた。有子の母親でさえ、かつてあったはずの日常を繰り返すことで埋没させた事実を、刑事は見つけてしまったのだ。

 そうだ。彼女は。神山有子は死んでいる。僕は刑事の言葉を、拳を握りしめて受け止めた。

 東堂は身体を不気味に痙攣させながら、語った。


「ああ。そうだ。私は何度も確認していたはずだ。ところが、ところがですよ! この事実を町に持ち込めなかった。私の認識が書き換えられている。何度もです。この町では、神山有子は生きている。生活している。しかしそれは、町のうちでだけなのです。現象だ。何らかの意思のある現象だ。彼女に関わる何かが、彼女の死を隠している。私は、そう睨んでいるのです!」


 涎で汚い口の端を曲げて、刑事はにやりと、僕を笑った。


「この町の住人は何かを隠している。少なくとも、隠している人たちがいるはずだ。あなたはもしかして、知っているのではありませんか。太古の儀式、生け贄の儀〝神えらび〟、この山に囲まれた土地を越えた向こうの山の神を崇め奉る、古きもの、深海の声、くく、いったいダムの底に何を沈めたのです。あの村に何が隠されていたのですか。こ、ココ、コココココ、ココ、ここに記されてます。このネクロノミコンの断章によると、日向神村には、奉られていた岩のことが。ヒト十人でも抱えきれない大岩は確かに鼓動を繰り返していたらしいですね」


 僕は、刑事の東堂が痙攣しながら熱心に見ているメモ帳を訝しむ。

 ネクロノミコン。それが?

 僕にはどうみても、手の平サイズのメモ帳にしか見えない。

 実物はもっと禍々しくて、悍ましく、例え閉じられていても気味の悪い声のような音が聞こえてきてもいいはずだ。


「これに記されている。確かに星はこの地を指していた。沈む過去を浮上に導き、黄金を土に落とし、銀を暗黒で研磨させる。煌めきは星の色を持ち、大地より虚空への旅立ちを得るのです。――――はて。なぜ、私はここに?」


 東堂はガクガクとしていた動きをぴたりと止めて、折れそうなくらい首を傾げた。

 壊れたおもちゃはどこかで歯車を食い違う。この男も、もはやその運命を回り始めたのだろう。

 もしかしたら、僕もすでにこの男のように成り果てているのかもしれない。

 今でこそ正気を保っているようで、実のところ一時に過ぎず、言葉にも及ばない声を連ねて、おかしな動きをしているのかもしれない。

 同情か、せめてもの救いの導きを欲してか。僕はこの男から正気を見いだしたかった。


「橋本大紀の件で僕のところに来たんですよ。知人である神山有子の聞き取りをしていたところです」

「かみ……やま……?」


 刑事の顔から感情が消えた。

 虚を突かれたようだ。

 聞いたことのない言葉を耳にした反応に見えて、ぞっとする。

 刑事は、はっとして、どこかを睨んだ。


「こうしてはいられない。空に蓋をせねば。大海の侵略ははじまっている。暗転をさせて、草花に生き血を与え、杭を立てるのです。急がねば。世界の軋みが迫っている」


 突然走り去って言ってしまった。

 ネクロノミコンと呼んでいた大事そうなメモ帳を、その場に落としている。今の彼にはさして重要なものでもなくなったのか、拾いに戻る様子もなかった。

刑事がぽかんとしたとき、僕の不安が問いかけるべき言葉を教えてくれるが、一瞬の躊躇いが、機会を永遠に失わせてしまった。

 ふと気になって、刑事の落としたメモ帳を拾う。中身を見て、呪いたくなるほど後悔した。驚いた拍子に落とさなかっただけでも僥倖だ。

 手の平サイズのメモ帳は、どこも真っ黒になるくらい、書き記されていた。

 〝ごめんなさい〟と〝ゆるしてください〟が震えた字でページびっしきり書かれていて、ほぼ塗りつぶしていた。どのページも真っ黒になるまで書かれている。

 彼は何に謝罪して何に許しを請うていたのか、もはや知る術はない。だが、何かに追い詰められて、狂ってしまったのだ。彼の代わりに、真っ黒に塗りつぶされた謝罪のメモ帳が語ってくれている。

 僕はメモ帳を玄関の脇に置いておいた。刑事が取りに戻ったときのためだ。

 落とし物を届けている場合ではない。

 僕は、確かめるために仏壇に急いだ。不安は焦りに変わっている。

 神山有子の名を聞いたときの東堂刑事の反応が怖い。何度かどこかで見てきた光景だ。丹波亜美さんのときも同じだった。

 死んだ人間の成り代わりが消えたとき、その人間だった記録や足跡が跡形もなく消えてしまうのだ。

 まさかまさかと逸る気持ちを抑えながら、畳を踏みつけて、仏壇の戸を開く。

 静寂の空間。涼しくもある一間の奥で、黒い漆に縁取られた長方形で黄金の祭具が僕を迎えた。

 仏壇の前棚、暁登と有子、僕との三人の思い出の品。中学生の修学旅行、三人で買った三つの熊ののキーホルダー。

 その一つがなかった。有子の、ピンクの蝶ネクタイをした熊のキーホルダーだけがない。

 誰かが持ち出した?

 あり得ない。

 この家には僕しかいない。あんなおもちゃをわざわざ盗む動機もないはずだ。有子が持ち出したのか。それもない。あいつは、例えキーホルダーの存在を知っていても、ここから無断で持っていかないはずだ。

 あいつは、どうあっても神山有子なのだから。

 考えられる結論はある。

 先ほどの東堂刑事の反応を思い出す。

 だがそれでも。

 僕は確証を得るべく、調べなければならなかった。認めたくなかった。

 携帯電話の画像データを閲覧する。昔の携帯電話からのデータ引き継ぎで、まだ三人で遊べていたころの写真画像を引き継いでいた。だが、見当たらない。

 有子の姿がない。

 写真で三人映っているはずのところを、暁登と僕との二人だけのものになっている。不自然な空白に背景が入り込んでいた。

 高校のアルバムは。

 中学のアルバムは。

 母親が思い出に撮ったアルバムは。

 どれもこれも、暁登の姿は残っていても、僕の好きな人だけが抜けていた。


「そんな! そんなそんなそんなそんなそんなそんなそんなそんなそんなそんな!」


 自分でもわかるくらい焦っていた。

 呼吸が短くなり動悸も落ち着かなくなっている。焦りは焦りをさらに生み、高ぶらせていく。止まり方を忘れて勢いだけが加速していく。


「有子が、有子が、有子が消える……!」


 成り代わりが現れたときから、この結末は暗示されていた。しばらくして気づいてからも、僕は考えないようにしてきた。だって怖いから。彼女のいない世界は、僕を残酷に独りにする。


「あ、ああ、ああああ!」


 たまらず家を飛び出す。

 まだ望みは残されている。その最善を選択する。

 神山有子の成り代わりが現れてからの、彼女への執着が異常になった、有子の母親だ。誰かの記憶から消えても、痕跡がすべて消失しても、ごく少数の記憶に残っている可能性があった。僕が、何よりの証明だ。

 せめて、有子との繋がりを少しでも保ちたかった。

 だが。


「ゆう、こ……? 私に娘なんていないはずだけど。朝一君、どうしたの。顔真っ青よ。凄い汗。休んでいく?」

「本当にご存じないですか。もう一度、よく考えてください。神山有子です」


 神山宅。

 僕は玄関口でインターホンに迎え出てくれた有子の母親に問い質していた。しかし、有子の母親は困った顔で首を傾げるばかりだ。

 あれだけ成り代わりに執着して壊れてしまっていた人が、今では普通の女性になっていた。僕を心配してくれる優しい人だ。


「わからないわ。同じ名字よね。でもね、私に娘なんていないわよ。誰に聞かされたの? ねえ、朝一君、何かあったの?」

「そう、ですね。どうかしてます。失礼します」


 有子の母親に申し訳ない気もしてきた。

 何より、有子を知らないと言い切ってしまう、この人をもう見たくなかった。

 僕が、もう、突きつけられた現実に耐えきれない。

 神山宅を離れてからの道中。

 僕はどこを歩いているかまったくわからなくなった。見覚えてのある町中のはずだが、何も考えられなくて、帰路に着いているのかさえわからない。

 彷徨う。


「有子がいない。有子がいない有子がいない。有子がいない!」


 何も考えられない。考えたくない。どうすればいい。わらかない。どうしようもない。何もできない。有子がいない。どうすればいい。ああ、どうしよう、どうしようどうしよう!


「有子がいない有子がいない有子がいない有子がいない! だめだ、だめだだめだだめだ! だめだ!」


 記憶の濁流が止められない。

 あのとき。

 四ヶ月くらい前のことだ。

 神山有子は、自殺した。

 夕刻の神山宅。二階の六畳部屋。窓からの夕日の逆光で影を作る、哀しい吊りヒト。ぎしぎしと軋む縄の音が最後の一息のようで。

 

 これは心地いい自責の幻想。

 僕が僕を痛めつけたいだけの夢でしかない。

 天井から頭を垂れてぶら下がる彼女と、僕だけで作り上げる、僕だけの世界の終わりだ。彼女の心境や境遇をすべて知っていたと思い上がりたいがための、絶望だ。

 そうではないのだ。

 僕をも置いて、彼女は命を絶ってしまった。置いていってしまった。

 神山宅に駆けつけた時には、有子の姿はなく病院に運ばれた後だった。霊安室で、綺麗にして、冷たく眠りについていたのだ。

 有子の母親が付き添って、遺体の有子と対面した。どうして彼女が自殺したのかを聞かれたが、僕はわからないと首を振った。

 だが、僕の胸中は、皆への懺悔でいっぱいいっぱいだった。どこからか漏れやしないか怖くて仕方なくもあった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!

 彼女が首を吊る前日、僕は有子と会っている。

 引き籠もって外に出なくなった僕をいつものように訪ねていた。自室の戸を開いても中には入らず、廊下から、その日に出来事や最近面白かったこと、休日の誘いなど、とにかくいろいろと気を遣ってくれた。

 僕はといえば、彼女の厚意に甘えっきりで、気分次第で返答を変えていた。彼女の気遣いなんてお構いなしだ。ノーをイエスに変えて、曖昧を有子のせいにもしていた。

 そんな僕を、彼女は愛想も尽きず、ずっと付き合ってくれていた。

 たぶん僕の両親から頼まれていたのだろう。それでもかつての友情もあったからだと思いたい。

 醜悪で、どうしようもない碌でなしの僕は、有子が首を吊る前日、いつもと違う彼女の様子に気づきながらも、その変化が癪に障って彼女を追い払うように冷たくあしらったのだ。

 いつものように彼女は自室に入らず、戸を開けたままでの会話で。

 出て行けとも言った気がする。

 あのときの有子は、元気がなくて、泣きそうで、無理して笑顔を作っているのがわかるほどだった。本当はもっと他に言いたことがあるのだろうと、わかっていた。

 で、ありながら、僕は捌け口にしてしまったのだ。

 あのとき、有子は泣きながら帰った。最後の、またくるね、といった言葉は震えていた。

 翌日、首を吊ったと報せを受けた。

 自責、後悔、恐怖、絶望。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! あああ、ああああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 できることならば、今すぐにでも、僕は脳みそを捨ててしまいたくなった。僕は弱いから、結局大それたことなんてできずに泣いて、壊れていくしかないのだ。

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