六章 2/4 〈本性/狂気〉

 吐瀉物まみれの床で目を覚ます。

 鼻に刺す胃液の臭いが意識の奥を刺激してくれた。覚醒して間もない胡乱うろんな意識ながらも、僕は洗面台で口と顔を綺麗にした。

 僕は確かめなければならないことがある。まだ百合ゆりちゃんの叫びが耳に残っている。宏太こうたがどうなったのかが気がかりだった。家の場所は大まかにわかる。百合ちゃんの方も、以前母親を送った団地を捜せばどの部屋かはわかるだろう。

 洗面台があるのは風呂前の脱衣所も兼ねた部屋だ。僕はその場で汚れたシャツを脱いで、洗濯機の中に投げ入れた。

 自室で着替えを済ませてから、僕は家を飛び出した。

 天気は雨。小降り。

 夏空は雲に覆われている。気温も少し涼しく感じた。

 宏太から捜すべきだろう。意識が途切れる瞬間で、彼が最も危険に置かれていた。数日に一度乗る愛車を起こした。車庫だしするとき、僕に、有子の母親の言葉がフラッシュバックする。あのときは遅すぎたのだ。

 今度も、遅いかもしれない。それでも僕は駆けつけなければと思い正した。

 そのとき、発進する寸前の車の前に少年が飛び出した。慌ててアクセルに置いた足をブレーキに踏み換える。僕がこれから無事を確かめようとしていた宏太だった。

 下手をすれば引いてしまっていたかもしれないのを叱る間も与えてくれず、ましてや無事なのか問わせてもくれず、彼は運転席のドア側に回ると窓に拳を叩きつけた。窓越しで怒鳴る。目に涙を溜めているのが窺えた。溢れんばかりの感情を抑えているようだった。


「おい。百合はどこにいるんだ。あいつ、消えちまった!」


 消えた?

 宏太の言葉の意味を図りかねる。車のエンジンを止めた。

 車から降りる僕の前で、彼は拳を握りしめて顔を俯かせている。


「消えたってどういうことなんだ」

「あんた、知ってるんじゃなかったのかよ。有子さんと一緒にいたんだろ。何も聞いてないのかよ。クソ。なんで俺、何にもできなかったんだ!」


 とうとう泣きだしてしまう。

 彼の姿が子どもらしくて、僕は羨ましいとさえ思う。


「もういい。あんた、何も知らないなら当てにしない。有子さんも見る目ないんだな」

「君は有子と知り合いだったんだな」


 祭り準備のとき確かに顔見知りではあるようだった。

 宏太は涙を拭うと僕を睨んだ。まだひくついているが眼差しは強い。


「あんたには頼らない。百合は俺が助ける」

「ちょっと待って」


 僕の声は届かず、彼は走り出して行ってしまった。

 あの子は僕ならもしかしたら百合ちゃんの行方を知っている、と思ったのだろう。有子が宏太に何を話したかはわからないが、僕に百合の行方を知る心当たりはない。

 あるはずがない。

 一人だけの心当たりから目を背けた。

 僕ではあの霧の世界にも行き方はわからない。できれば二度と行きたくはない。


「消えた、か」


 どこにもいないや、見つからないとは違った意味合いだった。

 まずは宏太の言葉の意味を確かめるべきだろう。

 僕は車を戻してから傘を取りに帰ると、丹波たんば親子が住んでいる団地に向かった。

 とはいえ、僕は丹波親子の部屋を知らない。表札を見て捜していくしかないだろう。団地の玄関口をひとつひとつ眺めながら歩いて行く。こうしていけばいずれは見つかる。

 百合ちゃん、もしくは亜美あみさんに昼まで会えるとは思っていない。でも下調べくらいはできる。

 ヒソヒソ。

 傘を叩く雨音の裏に、聲が聞こえる。見られている。姿はない。気配はある。

 昼間、人の集合住宅地。団地。平日の昼間は人が少ないとはいえ、誰かに見られてはいるのは当然で、何かしらの気配もあるものだろうが。

 陰の目。光のないところが蠢いている。あの窓のカーテンで隠れている眼は果たして人間のものか。遠くの犬の吠える声はどちらに向けられている。どこか近くでドアが開けられて、閉められる。何かが出入りしているようだがやはり姿はない。


「……」


 いつだったか、百合ちゃんの母親、丹波亜美さんを送ったときに感じた団地の異質さが色濃くなっている気がする。

 化け物が潜んでいてもおかしくなさそうだ。


「何を、いまさら」


 自分の言葉に自嘲が零れた。

 陰の嘲笑が遠ざかる。雨音が残された。

 人の気配に振り返ると、丹波亜美さんがいた。買い物帰りのようだ。

 傘の反対の手には買い物袋がさげてあった。今日は仕事が休みのようだ。以前倒れたときと比べて顔色もよく、健康そうに見えた。


「あら。櫟、さん。どうしたの」

「丹波さん。娘さんは、今、どうされていますか」


 我ながらおかしな問いかけだ。

 だが、気の利いた言葉なんて思いつかない。

 ところが。僕の思慮とはかけ離れて、丹波さんは別のことで戸惑っているように見えた。


「娘、とは。あの何を言っているのですか」

「百合ちゃんですよ。丹波百合。あなたの」


 はっとする。

 寒気がした。宏太の言葉を理解した。

 消えたのだ。


「ゆり……? すみませんが


 丹波さんがすべてを証明している。

 嘘はついていない。本当に困惑している。僕を怖がっている様子も窺える。


「あの、突然どうされたのですか。何かあったのですか」

「いいえ。何でもないです。さっきのは忘れてください。僕はこれで失礼します。変なことを言ってしまい、すみませんでした」

「あ。はい。わかり、ました」


 丹波さんに追求される前に立ち去る。ちょっと怖いものを見る顔だったのが傷つく。

 だが、宏太の言葉の意味を本当に理解できた。百合ちゃんは、。いなくなったことになったのだ。それは、死人の成り代わりが消えたとき、関係者などから元の死人の記憶が消えるだけでなく、記録や痕跡も消失してしまうのと似た現象だ。

 僕と宏太が彼女を忘れていないのは、あの霧の世界にいたからだろうか。共通しているのがそれしかない。

 いずれにせよ、行くべき場所はわかっている。百合ちゃんは霧の世界にいる。

 方法はわからないが。一度は行けた場所だ。何かしらの条件が揃えば再び行けるはずだ。確信はただの感に過ぎないが、僕は予感がしていたのだ。

 いずれそこに立つ時を。

 身体に力が沸く。

 感情が使命感を伴う。

 

 ――ああ。そうだ。行かなければならない。

 大切なことを失念していた。


「ヒッ……」


 我らは導きに従い、集わなければならない。

 百合ちゃんの、いや八女津姫の声がまだ僕の中に残っている。歓喜が囁く。まだ姫君の元で祝福が得られると。

 誰かの弱々しい制止が聞こえもするが、些細でしかない。

 傘の下で、笑いが漏れる。


「ヒヒッ――――」


 あの子どもを導き、供物にせねば。

 不浄は滅する。供物にするのだ。

 血は海に。肉は大地に。心の臓は我らが緑の神に。

 すべては先導者、八女津姫様のため。


「ヒヒヒ!」


 恍惚。

 あらゆる不純が僕の頭から消え去っていく。ショゴスが僕の内側で脈動する。

 辛抱堪らない。あの子どもを追いかけるべきだろう。

 逃がすなんて勿体ないことをなぜ許したのだろう。猛省せねば。


「おや? 櫟さん。こんなところで奇遇ですね。大変喜ばしい様子は窺えますが、何かいいことがあったのですか」


 宏太を捜そうと、町を歩いていると声をかけられた。十字路交差点の信号機前、銀杏の木の側で振り返る。

 つなぎの男、梶雄馬かじゆうまが立っていた。傘をさして首にタオルをかけている。

 僕のショゴスが囁く。彼の瞳の奥が蠢くのを見逃さない。〝大いなる種族〟。こいつの目的は図りかねている。


「ああ。梶さん。あなたこそ、こんなところで何をしているのですか。あなたのような人に彷徨かれると、こちらも警戒をしなければならないのですが」

「おやおや? なるほど。その心配はありませんよ。邪魔はしません。私は単なる観察者であり続けます。私が留まる唯一の理由です。こうしてあなたと接触しているのは、私個体の興味からなので安心してください」

「そういうことにしておきましょう」


 梶さんは何かを納得した顔で頷くと、無抵抗の意味で両手を広げて見せた。

 どうあれ、邪魔をしないのであれば彼は放置していくのが最善だ。こちらも手を出してはならない。


「櫟さん、あなたはそれでいいのですか」

「……」


 何を言っているのか理解できなかった。

 これ以上の悦びがどこにあるというのか。僕は、あのときから、父親に必要ないと言われたときから、この瞬間を願い、恋焦がれてきたのだから。


「ご武運を」

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