六章 1/4 〈八女津姫〉

 人影のあざ笑いに耳を取ってしまいたくなる。


「あの人にずっとつけ回されている気がする」「視線を感じる」「この間、タイミングを計って食堂に入ってきた」「ほらデスクに座るときああして私の位置を確認してるの」「ねえこれ、あの人に回しといて私苦手なの」「今度の飲み会、あの人の席から離して欲しい」「休日ね、コンビニあの人と同じ所使っていたみたいなの最悪」「トイレにまで着いてきていたみたいなの」


 初めての会社。肌で覚えるしかない人間社会。何もわからなくてもなんとかやっていこうと頑張れていた、あの頃。

 僕はひとりの女性に目をつけられた。彼女は入社三年目でいわゆる先輩に当たる。

 新人の僕にいろいろアドバイスやミスのフォローまでしてくれた。彼女は僕に好意を抱いていたらしいのだが、その半年後に僕を毛嫌いするようになった。

 原因は僕にもはっきりとわからないが、新人歓迎会の二次会で、彼女からの誘いを断って帰宅した後から、彼女の態度が変わったようにも思える。

 ただ、これは夢だ。悪夢だ。

 いつもは過去の記憶を下手くそな演出を加えて再生しているのだが、今回は最悪に鮮明だ。昼間に百合ちゃんがいじめられている現場を目撃したからだ。

 すでに種を明かされた舞台劇は、ただでさえ陳腐な話に拍車をかけてつまらなくさせてくれる。目も当てられない醜悪を見せられる苦痛は拷問だ。

 今すぐ抜け出したい叫びを封じられて、目を逸らすのも許されない。


「君さ、最近辛いことはないかな。ストレスとか抱えていないか」


 上司から相談の言葉をかけてもらえた。

 だが、言葉裏を知っている。この人は、僕とあの女性との噂も問題も知っている。女性からも聞かされているはずだ。特別な意味で親しげな噂も聞いたことがある。

 だから、僕の証言からも裏を取って事実確認をしようとしているのだろう。ただ、これは出来レース。結果は決まっている。

 彼は、こう言っているのだ。お前なにか問題を起こしていないのか、と。

 だから。


「いえ。何もないですよ」


 こう言うしか、僕に逃れる術は許されなかった。

 僕は当事者だが、この舞台劇では役者になっていない。観客の席からの観賞を強制された。劇場で自分の姿をした虚像の心が徐々に弱り、やがて立てなくなっていくのを見せられた。

 それでも夢は覚めるのが救いだ。

 早朝、外は夜明けすらあやしい時間に目が覚めた。

 気分は最悪。

 顔を洗うために起き上がるのもかなりの気力を使った。

 薄暗い家の中を明かりもつけずに歩いて、洗面所で顔を洗う。


「おえっ!」


 嘔吐した。胃をひっくり返すような感覚が苦しい。

 手元を見たくて明かりをつけたのが失敗だった。鏡に映る僕のやつれた顔が、最後に出社したときの過去の顔と重なったのだ。

 笑い声が聞こえた。ヒソヒソ声が聞こえた。視線を感じた。言われている。見られている。すべて幻のはずなのだけど。僕は耐えきれなかった。

 ああ、ちくしょう。今日はきつい。

 嘔吐えずく背中を丸める。

 ベッドに戻る気力もない。口をすすぐのもできず、僕はその場に崩れるように蹲る。しばらく動かなくなった。目を閉じれば眠れそうな気がして、とにかく自分を休めたい一心で、ふたたび微睡みに身を任せた。

 逃げ出したい。

 …………。

 …………。

 ……。

 母親の、泣いている声が聞こえてきた。

 両親はすでに他界している。

 交通事故だった。

 これも夢なのだ。

 僕は洗面台の前に立っていた。鏡映る顔は、僕の知る僕とどこも変わらない。母親の声はキッチンの方からしていた。父親の物音もわかる。それだけ身に染みついた生活音は、今はただ哀しくて懐かしい。


「私がいけなかったのかしら」

「何も悪くないよ。あの子が立ち直れるまで待つしかない」


 二人は悲哀に暮れている。僕の、故郷に帰ってからのことを嘆いているのは確かめなくてもわかっていた。胸が締め付けられる。二人に申し訳なくて、でも直接謝れるだけの勇気もなかった。

だが。

 ――――お前には必要ない。

 〝緑の実〟にはじめて触れたときの父親の記憶が、僕を家族から切り離す。

 お前は違うのだと言われた気がして、家族らしい感情を失う。申し訳なさだけが残って、だから余計に哀しさが辛くなった。


「でもいつまであのままでいいわけないから」

「わかっている。もう少し待ってみよう」


 父親の寛容とも取れる言葉は、たぶん後で彼らの呪いになっただろう。父親は己の言葉を悔やんだだろう。僕はそれから二年が過ぎて彼らが事故に遭った日も、何も変われずに引き籠もり続けていたのだ。

 明るいキッチンの方から、暗い僕のところまで母親のすすり泣く声が聞こえた。寄り添う父親の声も。

 …………。

 ……。

 頭がぼんやりとする。

 確か洗面台の前で蹲って、それから……。

 なんだ、ここは。どこだ。

 まだ口の中も苦みと臭いが酷いことになっている。吐瀉物が僕の認識のよりどころになる。記憶をたぐり寄せる。洗面台前で蹲って眠ったはずなのだ。

 ところが、目覚めてみれば霧が澱んでいて、どうにも洗面台のある部屋でもなさそうだった。玉砂利の感触がある。

 薄暗い野外で、僕は霧の中、ひとり眠っていた。

 霧の湿った空気には、あの苔のような、木を水で腐らせた臭いがする。

 まさか、と慌てて身体を起こして身構えてもみるが、神楽鈴の音もなければ白の参列も現れていない。ただ霧がどこにも流れずよどむばかり。

 見たところ、今はまだ夜か日の出前のようだ。すでに自分の起きた時間を忘れてしまったが、薄暗さの具合から現時刻を推測する。どこか朝の気配がする薄暗さなのだ。

 一度冷静に見渡して、僕は薄暗い中でも霧の向こうに明かりらしいものがぼんやり灯っているのを見つけた。

 洗面台から、どこかわからない霧のところに出てしまった経緯はさておいても、自分のいる場所の把握が急がれた。

 何かしらの手がかりを入手するべく、僕は霧の向こうの明かりを目指した。

 裸足に玉砂利は痛い。

 急いでいるつもりでも裸足の頼りなさや硬い感触は無視できなかった。どうしても遅くなってしまう。ちらちらと、足下と霧向こうの光に視線を交互させて歩いて行く。

 霧と薄暗さに隠されていた景色もぼんやり把握できるようになっていった。妙に整地された庭のようだ。霧でも隠れない澄んだ清らかさがある。木一つの枝振りでさえ、意味ありげに整ってみえた。

 もうしばし進むと、僕はこの綺麗な印象の正体を知る。

 明かりが霧に影を作る形は、鳥居だった。ここはどこかの神社の境内だ。しかし、霧に籠もる苔のような臭いと神社の組み合わせは、僕に畏怖を抱かせる。

 僕が踏みしめる玉砂利が神楽鈴に聞こえて、びくついてしまった。

 今の時点で他に現在地を知るための材料がないため、僕には進むしかない。玉砂利に一歩を踏み出した。

 鳥居は石造りだった。僕が歩いていた玉砂利に参道が現れる。石鳥居の下からは、参道の石畳を行けるようだ。足下のおぼつかなさは拭えないが、玉砂利よりは幾分も歩きやすかった。

 ところが。

 石鳥居を潜った瞬間だ。僕は、とうとうあの音を耳にするのだ。

 ――――

 神楽鈴の音だ。

 そして。



 老若男女、重複の声だった。奴らは現れた。あの早朝の神社以来、僕はもう一度の遭遇をする。

 玉砂利を踏みならすのは白の参列だ。

 突如現れた彼らはどこかおぼろげで、その身体は霧のように、振り返った僕をすり抜けていく。

 白の列の、参道に踏み入る、袴の下から鳴る足音は馬の蹄のように硬かった。彼らの霧のような身体からは、せそうなほど強い苔の臭いが漂っていた。

 行進の足に合わせて神楽鈴と紙垂しでが鳴る。

 上下白の神職装束の、四つの列が行く。真ん中二列は、金の細工を纏う、静謐せいひつにて神聖の衣装の男たちだ。それに沿う左右の列は男女で構成されている。彼ら純白の装束は真ん中二列ほど煌びやかではないが、簡素でありながら清らかな印象も持たせた。

 しかし、その誰もが文字のような模様が描かれた白い布で顔を隠している。袖に覗く腕は木のように枯れ果てて、人間のそれかも怪しい。

 白の綻びから見える歪が、生理的な悪寒のような恐怖を僕に与えていた。

 どいつもこいつも僕は眼中になく、霧のごとくすり抜けて、真っ直ぐに拝殿へ向かっていた。

 一際大きく神楽鈴が鳴らされた。

 驚いてびくついてしまう。

 僕の耳に彼らの唄が聞こえた。


「神えらびをせねばならん。

 虚無の標、銀の鍵、すべての帰路、混沌までの回廊を内側より見いだす。

 創世の恥辱。原初の痛み。安寧に遠い醜悪の行進。我らが目は我らのもの。我らが口は我らのもの。我らが身体は我らのもの。我らの魂も我らのもの。

 ならば楔を砕く。

 シュブ=二グラスの祝福を授かろう。

 この身を食らわせ、この身を与え、この身に芽吹かせる。

 豊穣と腐敗。数多の首と魂を連ね、亡骸の軌跡を続かせて、あるべき望みに届かせる。汚れを持って浄化する。内より星生みを成す。

 無への行進。頂の旗印。

 今一度を繰り返す。

 なればこそ、神えらびをせねばならん」


 彼らの列が拝殿に届く。

 先頭より後ろの、何も祭具を持っていない覡か巫女の二人が、拝殿の戸を引いた。

 突如として四つの列が立ち止まると縦に分かれた。拝殿から僕までの参道で、左右に二列が壁を作るように並んだ。

 彼らの顔は布で隠されていて何を考えているかわからない。だが、この一連の動きが、僕を認識していたかもしれないという恐怖を抱かせた。そして、それは当たるのだ。

 開かれた拝殿の奥、暗闇から小さい人らしきものが静かに現れた。

 薄暗い霧の世界、拝殿から距離も離れているのに、まだ人とわかるだけでも不思議な感覚だ。

 その人が、僅かに動いたようだ。

 僕は、拝殿へ歩いた。

 近くへ来てと呼ばれた。。声は聞こえていない。声を発するための微動だけで僕は意図と捉え、従った。

 心なしか薄暗さが晴れていく。目が慣れたわけではない。僕も、壁を成す神職の人たちにも影ができていた。

 まるで晴れた夜空の月明かりのようだった。

 そうして、拝殿のすぐ前に着いた僕は、改めて小さい人の顔を見た。彼女は布で顔を隠していなかった。僕はその子を知っている。

 丹波百合だ。少女は、僕に哀れみを向けていた。

 彼女も上下白の神職装束を身につけていた。綺麗な黒い髪の頭に金の細工をつけている。装束の白の生地には白と赤の刺繍が施されていた。他と違い、煌びやかではあるが、しっくり似合っていた。

 少女は神話性を纏っている。神秘的で、とても綺麗だ。

 この空間も、彼女いてこそ初めて完成となるほど、この場すべてに置いて少女は高潔に見えた。

 薄い紅色の唇が動いた。


「来て、しまったのね」


 その瞬間、僕は雷に打たれたような感覚が全身に走るのを知った。

 ひざまずいてこうべを垂れる。

 直視していた無礼を恥じた。


「はっ。姫君のために、ここに参上したしました」

「どうするの。こっちに来るの。まだ間に合うかも知れないわよ」

「何をおっしゃいますか。この身はすでに我らが八女津姫様のためにあるのです」


 自分で自分が分からない。

 自問自答と、煌々こうこうとしている感情が止まらない。ただ口も身体も、僕の意思を介して動いていないようなのは確かだ。参道の僕は、目を見開いて笑っていながら脂汗を滲ませていた。抗う僕の意思が拳を握らせている。


「もういいわ。顔を上げて」


 心地いい返事で、僕は顔をあげるしかない。百合ちゃんが、あの緑の実を摘まんで僕に見せていた。様々な疑問を置き捨てて、僕は食さなければならないと使命感に突き動かされた。腰が浮いてしまう。


「あなたにも、祝福を。大丈夫。こちらには、皆いるわ」


 彼女が拝殿から下りてくる。階段を踏んだ。

 僕はもう一度姿勢を正して膝をついた。彼女から歩み寄ってくださる喜びが、祝福を食す使命感に勝ったのだ。


「感極まります。このときをどんなに待ち望んだのか」


 残っていた僕の意思は浸食されていった。

 抵抗も、過去の記憶が僕を阻ませた。

 あのとき、父親に必要ないと一蹴されて遠ざかった繋がりが、今そこに再び現れたのだから。これでも僕も家族になれるのだ。孤独でなくなるのだ。

 ああ、そうだ。僕は何も間違っていないのじゃないか。

 これでいい。

 八女津姫様がわざわざ僕の口に自ら祝福をくださるのだ。

 膝をついている僕は口をあけて、その瞬間を待ち望んだ。

 が、僕は異物の気配にそちらへ顔を向けた。

 この神聖な神域に許しもなく踏み入れた無粋な訪問者がいる。憤りが沸く。縊り殺したくなる。


「離せよ! 俺は何もしてないだろ。友達を捜しているんだ。話聞けよ!」


 参道の脇、騒がしくなったところがある。同胞の壁の向こうで他神職に何者かが捕まって、こちらに運ばれていた。同胞の列で成す壁が分かれて、少年が両腕を二人の神職に拘束されたまま引き摺られて参道に連れ出される。

 僕の知っている少年だ。清原宏太。驚きを隠せない。彼も驚いていたが。


「コータ!」


 この場の誰よりも驚愕しているのは姫君だった。

 僕と百合ちゃんが対面する側まで寄せられる。宏太は神職のひとりに頭を押さえつけられた。神職たちが不浄だとぼやきながら、ひとりまたひとりと彼の拘束に加わっていく。


 宏太は、両腕両足、腰に頭と動きを神職たちの手ひとつ一つに封じられていた。子どもひとりに対して大仰な人数だ。宏太の顔が参道の石畳で潰れそうなくらい歪む。


「やめて! やめてやめて! 乱暴にしないで!」


 誰ひとり百合ちゃんの声に耳を貸すものはいない。神職は不浄だと言葉をつぶやくばかりだ。

 いかに姫君の言でも、例え無礼者が童子でも、見逃す理由はないのだ。

 宏太の抵抗は意味をなしていない。大人数人がかりの拘束だ。尋常でない力でもない限り、彼にこの場を脱出できる術はない。

 取り囲む神職たちのひとりが斧を持ちだしていた。

 薄暗さの中で重々しい刃が怪しく光る。これから何が成されるのか、誰の目にも、言葉すら必要ないほどに物語る。


「だめ。やめて、お願い。……お願いしますっ」

「肉は土に、血は水に、そして心の臓は我らが神に焼べましょう」


 懇願こんがんする百合ちゃんの言葉は誰にも届かない。

 神職たちは粛々と処理を進めていくのだ。宏太の頭をより強く押しつけて、首を露わにさせていた。斧がかかげられる。

 宏太から悲鳴があがる。彼の目にも斧がちらりと見えたようで、これから身に起こる出来事を理解したのだ。半狂乱で顔を涙と鼻水で汚している。だが、神職たちは子どもに動くのを許さなかった。

 泣き叫ぶ少年。

 青い顔で頼み込む少女。

 僕は、どうしたいいのだ。

 正気が教えてくれる。助けるべきだ。

 狂気が囁く。神に焼べるべきだ。

 どうすればいい。僕はどうしたらいい。僕はどっちだ。僕は何で悩んでいる。迷いの原因は恐れではない。ああ、チクショウ。歓喜の戸惑いが僕を縛る。

 高く高くかけがれた斧が。


「やめてぇええええええ!」


 百合ちゃんの叫びが響く。

 少女の声が霧を咲き、苔の臭いを払う豪風が拭く。神職たちをも霧と一緒に吹き飛ばした。

 僕も弾かれたように動けていた。

 トモ、とあいつが僕に囁いてくれたからかもしれない。君の声はいつだって僕の原動力になる。宏太に手を伸ばして。

 僕の意識はそこで途切れた。

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