五章 5/5 〈丹波百合〉
喫茶店〝月の黒〟を後にして、僕たちはしばし食後の散歩に出かけた。決まっていた予定ではある。天気も予報に外れずの雨だ。
狭い路地を、僕と有子は傘をさして二人並んで歩けない。先頭を有子が歩いていた。赤い傘の下で彼女が歩調をゆっくりにして振り向いた。
「ねえ。ここ、確か家があったよね」
「そうだな。五年くらい前まではあったはず」
どんな経緯かは知らないが、今は畑になった元誰かの家の敷地を過ぎていく。左側は生活排水のための小川が流れていた。遠くに、小川のものではない、水の激しい音が聞こえてもいた。僕たちは矢部川に向かっているところだ。
「さすがに下には降りれないだろうなあ」
「近くに行くだけよ。公園みたいになったところあるでしょ」
榊木町の図書館の白い建物を左手に進んだ。
コンクリート造りの橋の前を左に曲がる。
川沿いの道は、三年前の河川敷の工事で舗装されていた。僕たちが中学生の頃は、ただの裏道で、雑草も生い生い茂ってコンクリートも所々が割れていて、散歩というより探検に近かったのを覚えている。まだ子どもだったが、それこそ子どものような遊び心を擽られる道でもあった。もちろん、半分悪い意味で。
そんな道も、数年経てば綺麗に舗装されて、立派な散歩道に様変わりしてしまっていた。探検の気分は味わえないが、これはこれで落ち着いた雰囲気のいい景色にもなる。柵を見下ろせば、いつもなら綺麗な水の流れる矢部川を見下ろせた。
今日はあいにくの雨で、水位は増加し、水質も濁ってしまっている。渓流ではなく濁流だ。柵があってこそ安心してのぞき込める迫力だった。
「今年の夏はね、釣りをしてみましょうか」
「釣り具は」
「渓流の餌釣りで十分でしょう。二人分くらい軽いわ。だからトモも付き合ってね。女性にひとり山を歩かせるわけにはいかないでしょ」
それは男性目線の意見であって、むしろ頼もしくもある女性には当て嵌まらないのではと思うが胸中に留めておく。
「まあ付き合うくらいいいけど」
「やった。約束だからね。魚釣りは、暁登の得意分野だったわね」
「……あいつは何でもできたよ」
「そうでもないわよ」
付き合ってたからこその台詞に聞こえて、僕は悔しさに黙ってしまった。妙な沈黙が失敗を訴える。濁流がうるさい。
天気が雨のため道の利用者は僕たち二人のみだ。
「私ね、トモがこの町に帰ってきてくれて嬉しかったよ」
「なんだよ。突然」
僕が逃げてきたのを、君は知っているだろ。働いていない。外を出歩かない日が多い。社会不適合者だ。
「突然じゃないわよ。前にも言ったわよ」
「そうだっけ」
確かに聞いた気もする。
あれは――――。君が。有子が泣いていて。
「トモ! どうしたの」
彼女に肩を揺さぶられて、僕は自分が蹲っていることに気づいた。
有子は僕が濡れてしまわないように自分の傘を僕にさしてくれていた。
頭がじくじく痛む。掻きむしっていたのか。乱れた髪を雑に整えるが胃のムカムカが止まらない。気持ち悪い。
いけない。油断した。フラッシュバックしたようだ。
「大丈夫。ちょっと気分が悪くなっただけだ」
「本当に? でも……。何か、あったの?」
お前がそれを問うのか。
胸ぐらを掴んで怒鳴りつけたい衝動が僕の内で暴れる。知っているくせに!
「今日は、もう帰ろっか」
「そうだな。ごめん。家で休む」
うん、と有子は哀しそうに頷いた。
冷たくあしらってしまった。ばつが悪くなる。
「途中まで送るよ。せっかくの散歩なんだから、そのあとで休む」
「ありがとう」
素直に受け取ってくれたのは、彼女の気遣いだ。わかるだけ惨めになるが、ありがたい。
また有子が少し前を歩いて、僕はその後ろを行く。会話はない。
次の道路を横断すれば大通りに出られるところで、僕たちは子どもたちの声を聞いた。学校も終わっているであろう時刻だ。下校しているのであれば珍しくもない。
ただ、僕が耳の神経に意識を集中せざるを得なかったのは、嫌な言葉と声音を拾ってしまったからだった。肌に感じる錯覚が蘇る。
身体が覚えている。
いじめだ。
からかい声。笑い声。馬鹿にしている。挑発している。見くだしている。
多数対少数。おそらく複数でひとりだ。全員女の子のようだが、いじめられている子までは姿を見ないとわからなかった。
僕たちが横に通り過ぎようとしていた細い路地からだ。そこにも生活排水用の小川が通されている。道前に電信柱が立ち、道全体が微妙にうねっていて外からだと覗かない限り道の中間が見づらかった。
子どもたちはここが外からの邪魔が入りにくいのだとわかっているのだ。意思を持って悪意をぶつけている。
姿が見えづらく、声だけしか聞こえなくとも、加害している空気が道から伝わってくる。
嫌で、耳障りな笑い声だ。聞いているこっちの足が竦みそうになる。
僕のよく知る空気があそこから漂っていた。
「――――トモ、ちょっとごめんね」
「有子!」
止める声はすでに遅かった。
早足で、怒る背中で、彼女は路地に踏み込んでいた。綺麗な赤い傘が有子の手から小川に落ちても、もう彼女は止まらない。
そうだ。有子はそういう人間だった。
彼女の眩しい背中があった。
傘を差してランドセルを背負う女の子たちの隙間から、一人だけランドセルのない女の子がいた。傘もない。その女の子のものと思われるランドセルと傘は、小川に流れているところだ。
僕は、その女の子を知っている。確か、百合と呼ばれていた。
丹波さんの娘。朽ちた神社でひとり遊んでいた女の子。彼女の境遇が、おそらくは他と違ってしまっているのも。金銭的余裕のない家庭であるのも。それらを面白く噂している近隣の住人も。
つまるところ、百合ちゃんを囲む女の子たちは、面白がっているのだ。彼女を使って遊んでいるともいえた。
「楽しそうに何してるの。お姉さんにも見せてくれないかな」
そこへ。有子は敵意を潜ませた明るい声音で、女の子たちに歩み寄る。
女の子たちが一斉に振り向いた。驚きのあまりに目を見開いている。まさか部外者が声をかけてくるとは思っていなかった、まさにそのようなわかりやすい反応だった。
「何もないですよ。私たちただ昨日のテレビの話をしていただけです」
女の子の四人いるうちでひとりが、有子の前に出て、百合ちゃんを隠した。ただ、まだ子どもだから隠蔽も幼稚でわかりやすい。他三人の隠しきれない狼狽と、ひとり黙る百合ちゃんと、小川で流れ切れていないランドセルが物語る。
ひとりだけやけに物わかりの良さそうな態度で応対をするのも、歪すぎた。
「そうなの? ランドセル流れてるから、落っことして困っているのかなとも思ってたのだけど。いらないモノなの?」
雨天が続く天候のため、用水路の上流の水門は閉ざされて水位が大幅に下がっている。ランドセルは川底の砂に引っかかっていた。傘はゆっくりと川底をこすりながらまだ流れている。
女の子は、ちらりとランドセルと傘を見やってから、大人向けの笑みを一切変えず。
「この子、学校嫌いだから。もういらないってさっき捨てたんです。面白い子でしょ。ねえ、丹波さん。そうだよね」
「……」
百合ちゃんは呼ばれて、こちらに顔を向ける。僕に気づいたようだが、感情らしい表情は見えなかった。何もかも興味のなさそうな力のない目で、小川のランドセルを捉える。ばちゃん、と小川に飛び込んだ。
他の女の子たちが小さく声を漏らす。
有子の前の女の子も、百合に振り返っていた。憤るのが顔に出ていた。
百合ちゃんの服はすでに雨で濡れているのだとしても、川に流れるのは道路を伝って流れてきた雨水だ。塵や砂で濁って汚れている。そんな水に躊躇わず靴のままで浸かっていた。
泥水でズボンもシャツも汚れてしまっても構っていない。彼女は、ランドセルを拾い、中身の具合を覗き込んだ。
僕と有子だけでなく、いじめていた女の子たちすら、百合ちゃんの眼中になかった。雨に見舞われたから傘を差すといった具合の、単なる一連の作業をしているようだった。
しかし、そんな態度に感情を抑えきれなかったのがいた。いじめているリーダー格の女の子だ。
「何してるのよ。そんなのいらないって言ったよね。捨てておきなさいよ。いらないって言ったでしょ! ねえ、確かに丹波さんはいらないって言ったよね」
他の女の子にも賛同を求める。半ば強制だ。
自身の体裁のためでもあり、同調圧力を強めて百合ちゃんを従わせたいのだ。ところが、百合ちゃんは気にも留めていない。声さえ聞こえているか怪しい。
「聞きなさいよ!」
甲高い、嫌な声。
立場の関係性が傾いていた。
この女の子は、百合ちゃんをいじめて楽しんでいた。面白がっていた。笑っていた。それは百合ちゃんを苦しめて、困らせて、悲しませていると思っていたからだ。
ところが百合ちゃんに動揺らしい反応が見られない。
むしろ無視どころか見えてすらいない。
だから、女の子は優位性が勘違いだと気づかされて、辱めを受けていた。顔を真っ赤にして百合ちゃんを睨んでいる。
「百合ちゃん手伝った方がいいかな」
「……」
とうとう有子も目の前の女の子から視線を外した。百合ちゃんは一瞥しただけで応対はしない。この場で一番哀れなのは、いじめていたはずの女の子だ。
「お姉さんは手伝わなくていいですよ。私たちでやりますから。この子、構って欲しいだけの嘘つきなんです。付き合ってたら疲れますよ」
「手伝うね」
有子も川に入ってしまった。
女の子の取り繕う笑顔が崩れかけていて醜くて、お世辞にも見られたものではなかった。この場での弱者が誰なのか明白だ。おそらく、僕以外の子どもたちの目にも。
「萌。ねえ、もう帰ろ、っ、……ごめん」
どうにか女の子の立場を守るためにも逃げる選択を提示してきた友達でさえ、彼女にとっては敵視する対象になっていた。
ただ、謝らせてしまったことで、一旦冷静にはなったようだ。
気まずい顔が女の子に浮かんでいた。
「……なんかつまらなくなっちゃった。飽きた。嘘つきは知らない。丹波さんはいっつも臭い服着てるからちょうどいいのよ。そういうことでしょ、ねえ、丹波さん」
「……」
「っ! いいわよ。もう知らない。誰もあんたを守らないから。私のお母さんは学校の先生より偉いんだから。あんたのお母さんも困らせてやる!」
――まずい。
僕は本能で悟った。百合ちゃんを怒らせてはならない。百合ちゃんに失礼極まりない暴言を吐き散らす愚行よりも、畏敬の念に近い静かな恐怖が僕の中で警鐘を鳴らせと知らせてくれる。
雨音が遠くなる。川の流れが止まったかのような錯覚が訪れる。
あれが来る。神楽鈴の音が近づく。
丹波百合は、はじめていじめっ子の顔を見つめたのだ。無に光が灯る瞬間、百合ちゃんの雰囲気が得体の知れない何かに変わる。
「――ッ」
僕以外も、有子も、いじめっ子も他の子どもたちも、百合ちゃんの異変を感づいているようだった。明確に何かが変異したわけではない。
ただ、何かが、彼女の内側から覗き込んでいた。
見開かれた目は、いじめっ子を捉える。
百合ちゃんは小さな口で言葉を発しようとした。
だが、すぐに口を閉じてしまった。また川に落ちている教材を拾いはじめた。もう女の子たちを見ていない。
来るはずだった脅威がどこかへ消えたようで、身構えを空振りで終わらせられた。
女の子たちは解放されても元の勢いを完全に失ってしまっていた。
いじめっ子も。
「……っ、ほら、帰ろう。みんなも。こんな気持ち悪いやつ放っておこうよ」
「う、うん」
いじめっ子は他の女の子を引き連れて、僕たちとは反対側の道路へ路地を出て行った。ひとりふたり、僕たち大人を気にして、ちらちら振り返ってもいたが足を止めはしなかった。
「あんなのと仲良くしないほうがいいよね! だってあいつらがこの町に来てからおかしくなってきてるって言ってるんだもんッ!」
去った先からあの少女の声が響く。こちらに聞かせるための嫌みだった。
路地には僕と、小川に入ったままの有子と百合ちゃんだけになる。
川に落ちていた教材も、どこかで引っかかっていた傘も、すべて拾いあげていた。僕が女の子たちの去って行く背中を何もせず眺めている間に、やるべきことが終わっていた。いつだって僕はいざというときに動けていない気がして、力不足で惨めになる。
「トモ、百合ちゃんを手伝ってあげて」
何か言われてやることがようやくだ。有子はただ立っているだけの僕を咎めもしない。
百合ちゃんは小川から出ようにも身体が小さく、力も足りていないようだった。僕が手を差し伸べると、一旦僕の目をじっと見た。自分だけでは無理なことはわかっていたのか、少しだけ表情に不服そうな顔をしつつも、僕の手を取る。
有子が下から手伝ってもくれたから、普段運動していない僕でも子どもひとり川から引き上げることができた。
続いてあがろうとする有子にも手を伸ばす。彼女は嬉しそうに笑みで僕の手を掴んでくれた。有子を引き上げたとき、百合ちゃんはびしょ濡れの教材を、中身の水を捨てたランドセルに入れているところだった。
「服も教科書も、ノートも濡れたままだね。コインランドリーあるから乾かしに行こうか」
「もう何もしないで」
「でも。ならせめて家の近くまで送ろうかしら」
「しないで」
「わかりました」
いつもの有子ならもう少し粘りそうなものだけど。
百合ちゃんは最後に傘を拾った。雨は傘を差して歩く形式をなぞる動作で、びしょぬれの頭上に傘を広げた。
傘の下から、僕を見やる。有子ではなく。
「もう関わらないで」
彼女は小走りで僕たちから去って行った。
帰り道は、百合ちゃんが走った方角なので、このまま帰路につくとなればまた彼女と出くわすかもしれない。百合ちゃんは望んでいないし、余計なお節介と誤解されるだろう。
有子もわかっていて。
川に入る際地べたに置いた傘を拾いながら提案してくれた。
「ちょっと回り道しよっか」
「そうだね」
雨に濡れた服ではあるが、有子も傘を差す。百合ちゃんの先ほどの姿と重なった。
そうしなくてはならない形をなぞっているだった。
僕と有子は、一度来た道を戻って路地から出る。
「どうしたの?」
振り返った僕を、有子が声をかける。
路地の向こう。神楽鈴の音を、遠くで聞いた気がしたのだ。間違いなく。百合ちゃんに続いている。近づいている。
「トモ。関わらないでって言われたばかりでしょ」
「そうだな」
僕は、後ろ髪を引かれるそれに目隠しする。
有子の言葉の意味も何もかもを見えないことにした。
「トモはさ、もっと自分を信じてあげてよ」
「なんだよ、突然」
「なんとなく、言っておきたかったの」
歩く有子の後ろを行く。
彼女の言葉だからこそ、なおさら彼女の顔を見る勇気がなかった。
傘を叩く雨の音が僕らの無言に寄り添ってくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます