五章 4/5 〈陰は澱む〉

 そうなんだ、と彼女の表情に哀しさが陰る。

 ばつの悪さがいたたまれない。


「霧の向こうに行く列に歩いていて、何か話すべきかなと思って、追いかけたんだけど。結局、何も伝えられなかった」


 誰かに制止されたからなのだけど伏せておく。

 有子がぽつりと聞いた。


「暁登に、なにを言いたかったの」

「……」


 謝りたかったなんて、君に話してしまったらすべてを察してしまうだろうか。

 話出してみたはいいが着地点を見失っていく。ただ、これは夢の話だ。都合のいいようにぼかせる。そうするしかない。


「夢だから、たぶん、そこで何しているのかとか。元気にしているかとか。そんなくだらないことだったと思うよ」

「そっか。でも、どうして伝えられなかったの」

「夢から覚めたからだと、思う」


 歯切れが悪い。自分でも思える。

 有子は、私もね、と言った。


「夢でもいいから会えたのなら。同じ事を暁登に聞いてるかな。あと、謝ってるかも。気づけなくて、ごめんねって」


 胸が締め付けられる。

 僕は、有子にその言葉を言わせたくてこんな話をしたわけではないのだから。


「あれは、あいつも隠していたからお相子だろ」

「うん。でも、気づいていたらもっと違った結果になっていたかもしれないから」


 そうか、としか言えなかった。


「とりあえず。行こっか。喫茶店」


 有子が言ってくれなければ、僕はいつまでも動けなかっただろう。

 数日前にも行った喫茶店へ向かう。僕は彼女の少し後ろを歩いた。人通りも車通りも少ない道路は、雨が傘を叩く音と、水を跳ねさせる靴の音しか聞こえない。

 二人だけの空間を錯覚しそうだった。会話はない。特別何かを話さないと場が保たない仲でもないのだ。

 有子とは、中学生の一年のときに出会っている。

 中学生になってからの友達で、親友と呼べた暁登と教室で楽しく談笑しているとき、たまたま話題のテレビ番組を近くで耳に拾った有子も知っていて、話に参加したところからはじまっている。

 僕たちは最初こそ戸惑ったが、有子の明るさに僕たちも自然と彼女を受け入れるようになった。そうして、学校以外でも三人で遊ぶことも増えていった。

 川遊びや釣り、いわゆる男子が好む趣味に屈託なく付き合ってくれた。もちろん、僕たちでもお菓子作りなどの女子が好きそうな趣味や買い物にも付き合った。お年頃のデリケートなところはうまく誤魔化して、かくして、あの頃の僕らはいわゆる青春を楽しい子どもでいられたのだ。

 夢見心地で、それこそ現実の思春期が霞んで欲しくなるほどで、三人でいるときほどの幸せな時間は今もないと思っている。

 しかし、その幸せに永遠はなかった。

 現実は僕も有子に恋心を抱くようになっていた。暁登も、有子に惹かれていた。

 中学二年の三学期、有子と暁登が付き合うことになった。

 二人が付き合いだしたのを隠さず教えてくれたのは、彼らが友情を大切にしてくれていたからだろうと思っている。

 でも。夢から覚まされた気がしたのだ。

 僕の、二人には隠したままでいて欲しかった醜さと、教えてくれたことの嬉しさが、ぐちゃぐちゃに入り交じって惨めな気持ちだった。彼らとの時間を振り返ると、二年生の修学旅行のときから違和感はあったのだ。僕と、彼ら二人との距離感が違っているのに気づいていた。

 僕は、ただ幸せでありたい臆病者だから、確かめもせずに彼らから聞かされるまで三人でいる瞬間を甘んじた。

 彼らの恋人の報告から、僕は少しずつ二人から距離を取るようになった。二人だけの恋仲を見たくもなかったし、見せて欲しくないのが本音だった。

 自分だけが不変を望んでいたみたいで惨めにもなった。

 僕の態度を察してか、二人も少しずつ離れていってくれた。

 一時期間をおいて、暁登がまた以前のように距離を詰めて絡んでくるようになる。しかし、その傍に有子の姿はなかった。そのときには中学三年生になっていて、彼女とはクラスが別れていたこともあるのだが、暁登が僕との話したいのを彼女が気遣ってあげているのはあからさまだった。

 僕は、暁登とは元の友人に戻りたくなる一方で、有子に大事に想われていることを見せつけられているようで嫉妬の感情が沸々と胸中で騒いでいた。

 もう以前のようには戻れない哀しさと、有子を取られた悔しさもあって、いつしか暁登に憎しみのような感情の笹波が立つようになっていた。

 ――――

 暁登は、中学三年生の冬、路上で倒れているのを発見される。持病の喘息の悪化が原因だった。僕たちは彼の持病をこのときはじめて知った。

 彼は帰らぬ人になった。


「ねえ。聞いてるの」

「あ。えーと」


 信号の待ち時間、横断歩道の前で立ち往生していた。俯いていた顔を上げれば有子が眉根を寄せていた。


「暁登、何か言ってたの」

「何も。こっちを振り向いてくれなかったよ」


 そっか、と溢す有子の声は寂しそうではあった。たぶん暁登が話すことがあるとすれば、僕への糾弾だろう。憎しみで済まされるはずもないが。

 僕の内心など彼女は知らず、ぱっと表情を切り替えた。


「さあ。行こう行こう。今日はランチを食べるわよ」


 敢えて明るく言ってみせる彼女に続く。そういえば、前回はランチを食べ損なっていたのを僕は思い出した。



 喫茶店〝月の黒〟は、無骨なコンクリート造りの古民家を改装したものだ。

 灰色の外壁を伝う蔓が二階のベランダの柵を完全に埋め尽くしていて、くすんだ灰色と青々としている緑のコントラストが綺麗だった。

 改装時に風化の月日を感じさせるところをできるだけ残すようにしたらしく、窓やドアの錆や壁のひび割れも外から見受けられる。

 入り口脇の傘差しに傘を入れると、僕はしっかり手入れされている古くさいドアを押した。

 少し暗めに調節された店内は、外装の雰囲気を壊さず昭和の古き良きで整っている。コンクリートの内壁に昭和レトロ画風のポスターが飾られている。天井には無骨な配線が貼っていた。レリーフが施されたテーブル席にはいぐさの座布団があった。アンバランスに西洋東洋が入り混じっている内装は、その不揃いゆえ、ひとつの世界観を作り上げていた。

 今日も古いラジカセから音楽が流れている。古いスピーカーの音はなぜだか聞いていると落ち着く。

 いらっしゃいませ、と柔らかく優しい男性の声が、僕と有子を迎えてくれた。マスターだ。長身に黒いYシャツにモカカラーのサロンエプロンが似合っている。ちょうど料理かコーヒーを運び終えたところのようだ。そのテーブル、出入り口傍、ひとり用の席では前回と同じ男が本を読んでいた。ホットのコーヒーとイチゴのショートケーキがまだ手つかずで置いてある。マスターが届けたコーヒーよりも男は読書に関心が向いていた。

 店内で、読書男の対角線上のテーブル、この店で一番奥のテーブルは四人くらい座れる大きさだが、これも前回と同じ男がノートPCを睨みつけて占拠している。唸りながらボサボサ髪の頭をかきむしっている。

 さて。では、残された席はカウンターと窓際のテーブルのふたつだ。窓際のテーブルは二つあるのだが、これも前回と同じの主婦二人がせっかくのコーヒーを飲まずに世間話に励んでいた。

 お世辞にも広い店ではないので、テーブルの数も少なかった。半ば常連に占拠されている状態であり、残された席に座るしかなくなる。僕たちから後の客はカウンターか相席のどちらかになった。

 僕としてはコーヒーの過程をじっくり見ていられるカウンター席でもよかったのだが、マスターとの応対をやってくれていた有子がすでに窓際のテーブルに歩いていたので、着いていくことにした。

 楽しみの機会が奪われた気がして惜しい。歩いて来ることができるお店なのだからと、今度ひとりで来たときにでもカウンターに座ればいいと心の隅に置いておく。

 今日もこの店はマスターひとりで経営されているようだ。裏の様子までは窺い知れないが。それでも店内は特に手間取っている様子は見当たらず、マスターも忙しそうな顔もせず優雅に手早くカウンターで作業していた。手元が食器洗いやドリップなど、ずっと動いているのは、カウンター越しでもわかる。

 僕たちが席について間もなく、お冷やが通される。マスターは慣例句の挨拶や説明も終えると、またカウンターに戻った。有子はメニューを開いて、さっそく僕に見せながらランチを指さしていた。

 窓からの雨の降る様子を横目に僕もメニューに視線を落とした。


「今日こそ食べるわよ。トモもこれでいいでしょ。コーヒーは何にする?」

「僕はまたアイスの深入りを頼むよ」

「じゃあ私は浅煎りにしようかしら」


 有子は喫茶店に近づいてきたあたりから上機嫌だ。待ち合わせ場所を返答も待たずに変えたいたことの機嫌はなおしてくれただろうか。彼女のことだから、今を楽しみたいだけにも見える。

 有子が手をあげてマスターを呼んだ。ほどなくしてマスターが伝票を持って僕たちの席まで来た。

 今度こその期待を込めて頼んでみたランチセットは運良くまだ残っていて、僕たちは無事食べる機会にありつけた。カウンターに戻るマスターを尻目にして、有子は僕に話を振る。

 時間つぶしか、僕の退屈を気にする彼女の気配りか、単に話したいだけか。おそらくはぜんぶだろうと、僕も彼女の話に付き合うのだ。

 いつもの会話だ。どこか煩わしいとさえ思えてくるありきたりなやり取りだ。

 代わり映えのないことの息苦しさの幸せを、僕は哀しみと一緒に噛みしめている。心の奥底では、この一時を大切にしているのをわかっている。

 だからこそ、申し訳なさで嫌になるのも事実なのだ。

 途中、有子が僕に気遣う言葉をかけてくれるのだから、隠し通せていない。もしかしたら、それすら彼女に甘えているのだろう。


「お待たせしました。本日のランチセットになります」


 こちらが驚かせない自然な動作で、視界の脇からマスターが料理を運んで現れた。テーブルにトレイから、料理とコーヒーを並べていく。

 フキと青じそと生ハムのサンドイッチ、僕にはアイスの深入りコーヒー。有子は、今回はホットの浅煎りが置かれた。


「デザートは後でお持ちします」


 マスターが再び離れていった。ランチセットのデザートは日替わりだ。今日は牛乳プリンらしい。


「早速食べましょう」


 待ちきれないとばかり、有子はさっそく頬張った。

 僕はまず自分のコーヒーを一口のんでから彼女に続いた。フキと青じその香りが、ハムの塩味の強い肉の味にうまいアクセントをつけてくれていた。

 おいしいと上機嫌な彼女に僕も頷く。有子が嬉しくて何よりだった。

 それから食後の牛乳プリンを食べながらゆっくりする。今日訪れる客は僕たち以外に入ってきた様子はない。たまたまなのかもしれないが。

 食後の一時。僕らの間で会話が途絶えたとき、ぽつりと僕の背中から雑音が耳をさした。


「え。いなくなってるってどういうことなの」

「知らないの。最近、引っ越しとかそういう話もなくて急にいなくなって連絡も途絶えた人が増えているそうよ。家に帰ってなくて、いつの間にかもぬけの殻になっているとか」

「行方不明ってこと。役場の、ほら、ひとり行方不明らしいじゃない」


 殺人事件かもしれないって話だけど、と付け加えられる。


「そうじゃないの。そうじゃなくて……」


 後ろから聞こえる二人の女性の話し声。

 僕たちが来たときから座っていた客だ。前回のときもいて、この店の常連に思える。そのひとりが、奥歯に挟まったような、言葉を選びかねている様子だった。


「誰も気づいていないというか、いつの間にかいないことになっている人がいるのよ」

「誰も気づかずいつの間にか、ね。だったらどうしてあなたは気づいているのよ。そこはおかしいでしょ」


 相手の女性は、気弱そうな女性の言葉を真に受けてはいないようだ。

 転がるボール怖がる子どもと、それを見守っている大人くらいに認識のずれがある。見ているものは一緒かもしれないが、視点も認識も、考察も違っているのだ。


「田中さんの、この間の話、覚えている?」

「ええと。最近、なんだかまた元気がなくなったこと?」

「……奥さんがいたの、知ってる?」

「え。田中さんに奥さんがいたの」


 僕はこの女性ふたりのやり取りを覚えている。

 この前、喫茶店に来たとき、偶然聞いていた。

 田中さんの奥さんは亡くなってるはずだが、最近その奥さんらしい人が彼の家にいる気配があるらしい、そんな話だ。よく似た他人か、もしくは本当に死人が蘇ったのかというので話は終わったはずだ。

 ところが、相手の女性は、こちらも前回と同じ人と思われるが、田中さんの奥さんの話を覚えていないどころか、そもそも奥さんがいたことさえ記憶にないようだった。

 ――――

 つまりそういうことだ。消えたのだ。記憶からも。何もかもから。

 しかし、僕も気弱な女性と同じく覚えている。僕に他と違う何かがあるのかもしれない。僕と気弱な女性と共通点は何だろう。

 気弱な女性の疲れ切ったため息が聞こえた。


「そうよね。そうなっているのよね。じゃあ、隣組の……」


 彼女が、消えたと称する人たちの名が四、五人呼ばれるが相手の女性はひとりも覚えている様子はなかった。これも気弱な女性は驚かず落胆で受け止めているようだった。


「ねえ、悪いけどね。私の方が、段々あなたを怖いと思えてきたのだけど」

「私も本当は私の方がおかしいんじゃないかと思いたくなってきたわ。もう疲れた。あれを見たときからそうなのよ、たぶん。ぜんぶあれが何かを呼び込んでいるんだわ」

「あれって、何の話よ」

「白い参列……もし、もしもよ。全身白い装束の宮司や巫女の行列を見かけたら近づかないで。祭りも行事もないのに神社に大人数で参列する集団がこの町に潜んでいるみたいなの。近くの人たちに聞いても誰も知らなくて。結構な人数が、見たこともない恰好で参列してるの」


 彼女も、あれに遭遇してしまったのか。

 では、聞いたのか。神えらびを。

 

「え。それって。もしかして」


 カルト集団、と女性の一層顰められた声が聞こえる。

 宗教の話を公の場で話す行為は褒められたものではない。不特定大多数に伝播してしまった場合、望まない入会を薦められたり、それの反思想派に攻撃されたりするからだ。

 だからこそ、後ろの席からは息を潜める気配が感じられた。


「わからないわよ。私たちの知らない古い儀式かもしれないし。この町、古い風習とかでお年寄りしか知らないのも結構有るでしょ。子どもたちの〝神えらび〟だって、おじいちゃんから最近聞かされたばっかりなんだから」


 彼女は〝神えらび〟を知らない。

 白の参列を目撃しただけのようだ。


「そのおじいちゃんに白の集団って聞いてみたの」

「もちろんよ。知らないって。惚けた様子もなかったわ。でも、おじいちゃんも全部知っているわけじゃないらしくて。矢部村の知り合いなら知っているかもしれないとも言っていたわ」

「危なそうなら気をつけるけど。それとあなたのいう消えた人たちと、何か関係があるの?」

「同じ時期なだけの短絡じゃないわ。参列している人に、消えた人と物腰が似ている人がいたのよ。ううん。絶対同じ人なのよ。だって、あそこには……」


 言葉に詰まっている。

 相手の女性が、わかったわと言った。


「ともかく気をつけてればいいのよね。行方不明の件もあるし。危ないのは確かだもの」

「うん。ごめんね」

「いいわよ。会計してもうでましょうか。家のこともあるし」

「そうだね。あ、私、トイレ寄るわ。私の分もお願い。あとで払うから」

「はいはい」


 席を立つ音がして、僕の横を気弱な女性が通り過ぎていった。見るからに真っ青で、何かの恐怖を必死に押さえている顔だった。

 何かを言い淀んだのではない。

 怖くて言えなかった。

 気弱な女性が言い淀んだのはどのあたりだったか。彼女は白の参列に何かを見たのだ。怯えて言葉にすらできなくなるものを、だ。

 そう。例えば。――――。

 拗ねた顔の有子がいた。


「ねえ。さっきから私の話、ぜんぜん聞いてないでしょ」

「あー。ごめん」


 もしもの話だ。

 だから確かめない。

 トイレから戻って僕の隣をすぎていく女性に問いただすこともしない。彼女たちの行く末に関わらない。はっきりしていないほうが幸せだってこともある。

 彼女たちふたりが店を出て行くのを背中で察しながら、僕も準じた。


「ええと。もう一回話していただきませんか」

「急に誰かのおごりでケーキもう一つ食べたくなったなあ」

「畏まりました」


 僕はマスターを呼んで、それぞれひとつずつケーキを追加で注文したのだ。飲みかけのコーヒーを干して、新しく同じのを二人とも頼んだ。

 雨はまだ降る。今日一日は止むことがないらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る