五章 3/5 〈傘の下、〉

 有子が待ち合わせの時間に遅れるらしい。

 天気は雨だ。待ち合わせの体育センター駐車場の蒸気機関車前で、傘をさしてぼんやりしている。

 明日の花火大会は来週に延期が決定している。まだ橋本大紀行方不明の件は解決しておらず、人体一部発見事件との結びつきもしていない。決定打が欠けているらしく、捜査は難航していると噂になっている。

 有子も役場職員の立場だから忙しい身だが、リフレッシュも必要だ。というわけで、休日を満喫するべくまたいつかの喫茶店に出かけようということになった。あいにくの雨だが、散歩もするつもりらしい。

 有子がここに来るまでまだ数分かかるだろう。暇つぶしがてら普段は素通りしている蒸気機関車をまじまじと観察してみていた。子どものころ以来だ。のぞき見える駆動部だけでも楽しくなる。時間も潰せそうだ。

 元々は僕の家で合流してから一緒に出かける予定だったが、有子の遅れる連絡が入ってその時間どう使おうかとふと考えてみた結果、蒸気機関車前にいる。有子にはここにいることを連絡してある。

 僕は車輪部分を見ようと屈んでいた状態を起こして、腰を伸ばした。


「こんにちわ。この雨は明日まで続くようですね」

「梶さん。こんにちわ。この間もここで会いましたね」


 いきなり声をかけられても驚かない。この人は人の間合いに入るのがうまいのだ。隣に顔を向けると、以前この場所で出会ったつなぎの男、梶さんが傘をさして柔らかい笑みでいた。


「あのときはお疲れ様でした。機関車が好きなのですか」

「いえ。待ち合わせまで時間があるから。まあ、好きですけど。こういう駆動部を眺めてるの楽しいです」

「わかりますわかります。エネルギー伝導の仕組みを考え、試行錯誤してきた歴史が見えて、とてもわくわくしますね」

「いやー。そこまで深くは考えてなかったです。単によくこういう仕組みを思いつくなと思っていたところまででして」


 僕は、この人は素の表情をはじめて見ているかもしれない。


「エネルギーの原型を知っているかいないのか、それに近づこうとしているようで、遠ざかっているところがなんとも。まだまだ」


 何の話をしたいのかはさっぱりだけども。

 梶さんの意外な一面が見られて僕も楽しかった。


「ところで。なぜ、今になって、シュブ=ニグラスの祝福を受けようとしているのです?」

「シュブ……なんです?」

「ほら。もう聞き取れるでしょう」


 ざー、とノイズのような音がした。雨音も激しくなった。

 傘の下、梶さんの笑みの内側が見えなくなって怖く思ってしまう。であるのに、僕はこの人から離れようともしていない。

 警戒心を抱かせない何かが働いている。そこまで気づいて、僕はようやく梶さんから身を引く挙動ができた。一歩引けた。

 梶さんは柔らかな笑みに底知れない冷たい目で、こちらを観察していたのだ。彼の瞬きのとき、眼は宝玉のような、人間の目ではない球体がぎょろりと動いて見えた。


「また、からかいがすぎましたね。しかし、これは面白い現象だ。うまく二つに保たれている。祝福を受けるのであれば、この形は瓦解するところがおしい」

「梶さん、いったいなんの話をされているのですか」

「あなたのショゴスに問いなさい。自覚のないのはあまりにも哀しい。そろそろ時間ですね。また機会があったら話しましょう」


 傘で顔を隠して去って行く梶さんを、僕は引き留めることができなかった。かける言葉もわからなかった。彼が怖くて、彼の言葉の意味を図りかねていて、動けなかった。

 ただ、思い当たることだけはなぜかはっきりしている。

 祝福と聞いて、僕はあの緑の実が連想できていた。

 雨音が弱まる。梶さんが去って十数分も経たず、待ち合わせしていた有子と合流できた。有子は赤い傘をさして、水色のシャツと白いパンツルックの明るい恰好でいた。彼女の眉に皺が寄っている。僕の家についてから改めて携帯電話の画面を確認していたらしく、約束の場所を勝手に変更したことを怒っていた。

 ごめん、と謝る。

 有子は僕の表情から読み取って、何かあったのと聞いてきた。

 なんでもない。

 そう答えたくて。誤魔化したい心だけが僕を動かす。


「なあ、有子。昨日夢でさ、」


 ――お前にも。


「暁登に会ったよ」

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