四章 4/4 〈ネクロノミコンの断章〉
風呂で汗を流してさっぱりしていたところ、携帯電話の着信に気づいた。夜の帳は下りきっていて、壁掛けの時計を見やれば二一時を過ぎていた。
有子からだ。
どうしようかとも考えてみたが、結局うまいやり方なんて僕には思いつかなかった。愚行を繰り返すのだ。有子に電話をかけた。
「着信あったけど。何かあったのか」
『ううん。一緒に飲みたいなと思って。だめかな』
「君のお母さんが黙ってないだろ」
彼女の母親は門限が厳しいのだ。
『友達の家に遊びに行ってくると伝えてあるわ。明日の午前中に帰るって。許可も貰ってあります』
すでに手を回したあとのようだ。
たぶん、君ならここで断ってもまた明日何食わぬ顔で会いに来てくれるのだろう。なんて醜悪で自分勝手な考え方だ。僕の望みに純朴であることをわかっていてなお、こんな醜態だ。
もはや甘えも腐りきっている。
彼女としては、僕が飲み会に参加しなかったのを気にしての行動かもしれない。そういうところは君らしいと苦しくもある。僕はせっかくの気遣いを無駄にしたくもなかった。
これも悪辣であるのを自覚している。
「いいよ。何かつまみ用意するよ。酒は、どうしようか」
『言い出しだから私が買ってくる。お掴みもいくつかついでに買ってくるけど、朝一の作ったのも食べたいから準備してくれると嬉しいな』
「わかった。じゃあさっそくはじめるから。もう、すぐに出るだろ」
『うん。美味しいのをお願いね』
わかった、ともう一度答えて僕は通話を切った。
つかの間の後ろめたさに、もういないかつての
「大丈夫だよ。勘違いなんてしない」
あいつはいつだって、ただこっちを心配したり、可愛がりたりしたいだけなのだから。お前のときとは違う。――それでも、僕の自制心は僕に後ろ指をさしていた。
気持ちを切り替えたくて、ため息をひとつ。
僕はキッチンに向かった。とびっきり美味しいのをつくってやろう。これは友人の気遣いのお礼だから。夕食はすでに食べ終わってしまっていたが、酒を飲むのならまだ食べる余裕はあった。
ほどなくて有子が買い物袋をさげて玄関をあけた。呼び鈴で玄関まで迎えにいった俺を、にかりと笑ってくれる。きっと有子も風呂上がりだ。シャンプーのいい香りがする。化粧も眉毛くらいしかしていなかった。Tシャツにショートパンツ、サンダルと恰好も簡易だ。
「さ。飲みましょう。ビールと酎ハイ、あとウイスキーも買ってきたわ。焼酎と日本酒は買ってないから飲みたかったらごめんなさい」
「日本酒はある。いいよ。どうせそんなに飲めないから」
「量じゃなくて好みの話よ」
「ビールも酎ハイも美味しく飲めるよ。ウイスキーはわからない。とりあえずあがって。グラス用意する」
「はーい」
居間のテーブルに作って置いたつまみを持ってくるべく奥に戻った。
有子はさっそく居間の扇風機の前を陣取った。薄着でも外はまだ暑かったようで、シャツに汗が滲んでいる。
僕はテーブルに並べられていく側からつまみの皿を置いた。ニラや春菊の炒め物と、ジャガイモの茹でただけのやつ。あとは、ベーコンやウインナーなどなど。味付けも調理もほぼ必要ないものばかりだ。男の料理なんてそんなものだと甘んじたりはしたくないけど、急に器用になれるわけもないので、できる範囲での準備をするしかなかった。
でも、見る人には落胆してしまうかもしれない素朴な料理を、有子は嬉しそうに眺めていた。こそばゆいのでさっさと乾杯して飲み始めることにする。
と、開幕スローペースで祭り準備中のことを話題にしつつ、テレビでも流し見していたのだが。
「で、さあ。もう本当に大変だったの。いいえ。大変なんだから」
「うん。わかってる。お役所はそういうところだから」
「絶対わかってない。あれから役場に戻って大変だったんだから。電話対応の応援には呼ばれるし窓口でまったく知らない人から責められるし。何! ちゃんとしろって! 殺人事件なのよ。行方不明事件なのよ。事件よ事件! 捜査は警察の仕事なのよ。そもそも警察が誰や何を調べているとか、どの資料持って行ったとか、こっちが詳しく知るわけないし、話せるわけないじゃない。役場の立場もあるのだから憶測も下手に言えないこともあるのよ! そりゃ大橋さんは上司で同じ部署だったけども、あの人のプライベートまで知らないわよ」
「この酎ハイ、ブラッドオレンジか。美味しいのか」
「話逸らさないでよ。事情聴取なんて貴重な体験どころじゃないのよ。なんなのあの空気。橋本さんと最後に話していたのも私かも知れないけど。本当になんにも知らないんだから」
何も、ね。
酒はよくないと反省する。僕の口は滑りやすくなっていた。
「本当に。なあ有子。本当に何も知らないのか」
「――――ええ。シラナイワ」
雑音、ノイズ、音割れ。なんか男か女の声かも童子の声かもわからない有子の声だ。一瞬、こいつの顔に、あの気味の悪い文字のような模様が描かれた白い布が現れたのは、気のせいじゃない。なんだか二十数年見慣れたはずの屋内が歪になっているのも。木製は人を押し固めた柱に、床は赤黒い内臓が鼓動を打ち、戸は黄ばんだ歯のある口を広げている。バラエティーが映っていたテレビは無数の目玉が敷き詰められた箱になっていた。柱からは嗚咽が、天井からは手が、床からは絶叫が。
飲みかけのグラスに注いでいたはずのウイスキーは真っ赤でどろどろした液体だ。アルコールの臭気はなくて、代わりに生臭い鉄の臭いが鼻をついた。吐きそうだ。
たぶん、僕がここでもう一度問い返したら、壊されるだろうと僕自身が警告している。手が震え出しそうだ。もしかしたらもう絶叫を一度でもあげた後かもしれない。自分が自分でなくなるのを自覚しながら、今がどうして何がどうなっているのかも僕は認識を溢しつつある。
「そう、だよな。知らないよな。ごめん」
なんとか絞り出したのは、喉が乾いたときのような声だった。責められたわけでもないのに謝ったのは、命乞いに等しかった。相手が断言したことを再度追求したのだ。不快に思うのも当然と言えた。歪められてしまったが謝るのは不自然でもない。
「わかってくれればいいのよ」
途端、現実のピントが戻された。
いつもの見慣れすぎた居間で、いつもよりは有子がはちゃけている。酔いが回っているようだ。僕のグラスのウイスキーもお酒に戻っていた。口直しに一口。
でさあ、と有子の愚痴は続けられる。
「ここに来る前もちょうど刑事が家に来てね。行方不明前日の私のアリバイを聞かれたのよ。約束があるって言ったからその日の行動を簡単に話して、あとはまた後日にしたんだけど。もうストーカーみたいでなんか気持ち悪い。もう二度も経験したくないわ」
「有子はストーカーをされた経験があるのか」
「うん? ないようなあるような? でも男の人にあとをつけられたかもしれないと思ったときはあるわよ。買い物とかそんなときに。時々だったけど。トモ、どうしたの。お腹痛いの。顔色、すごい悪いわよ」
具合が悪いのは本当だ。
僕の頭の中で、あの日の記憶が何かと結びついたのを知ったからだ。……泣いている有子。謝っている。僕は叫んで追い出した。それで。それから! それから!
「トモ。落ち着いて! 落ち着きなさい朝一ッ!」
頬を引っぱたかれた。痛い。
床に散らばるガラス片と液体。テーブルは居間の壁まで寄っていて、つまみやお酒は部屋中に散らばっていた。ガラス容器は割れていて、缶容器は転がっている。中身が溢れて床を汚していた。部屋中が酒臭くなっていた。
僕の正面で涙目の有子がいた。怒っているようで哀しんでいる顔をしている。居間が散らかってしまったありさまよりも、有子の存在を確かめることのほうが僕には求められた。
「ゆう、こ……。ぼく、ぼく……」
抱きしめられた。
柔らかく、いい匂いがする。いつまでも包み込んで欲しい温かさがあった。僕は彼女を抱きしめ返した。このぬくもりを手放したくなかった。
「有子、有子、あああ! ああああああああああああああああああああああ」
幼い子どものように泣くのを止められなかった。もっと伝えるべき言葉があるのだが言葉にできるだけの精神が足りなかった。
どうしようもない僕を、有子はいつまでも抱きしめてくれていた。
†
ぼんやりしているのは飲み過ぎているからだ。
酒のせいで意識がはっきりとしてくれない。アルコールが身体に残っているのがわかる。よほど目がかすんでしまっているのか、家の中なのに霧のようなものが籠もっていて視界が悪い。
あまりものを捉えきれない意識と目、視界の中で、僕は動く何かを見つけていた。霧で視界が悪くても、ここが実家の居間だとは認識できている。肌に感じられる空気に似た感覚的な何かが僕にそうだと教えてくれている。
そういえばなぜ僕は真っ暗な空間を光もなく把握できているのだろう。明るさのようなものは感じているし、目も見えている。だが、僕のぼんやりと捉えられている視界には蛍光灯が光っている様子はない。常夜灯もついていない。
真っ暗な空間に霧が立ち籠めていて、ここが居間だと把握できているのはなぜだろうか。酒のせいで視界以外のどこかの感覚が鋭敏になっているのだろうか。そもそもどうして室内に霧がある。この霧も酒のせいかもしれない。なんだかわからなくなってきた。
ともかく。僕ははっきりしない意識のままで居間で動く何かに気づいた。たぶん、僕が起きたのはこいつの気配を感じてのことだろう。
神棚に、誰かが何かしようとしている。テーブルを踏み台にして手を届かせて、神棚の社を動かしているようだ。苔に似た臭いが部屋中に満ちた。
途端、僕の感覚は鮮明さを得ていく。相変わらず視界は役に立たないが、一種の俯瞰のような感覚で空間を把握していた。
見えていないが。
視えている。
散らかった居間でテーブルを踏み台にして、神棚の社の裏側をいじる何者かを捉えた。その人物は、丸い物体を取り出すところだった。紙に包まれている。ざわめく囁き声のする紙にはびっしりとミミズ文字が書かれていた。
父親があのとき僕から取り上げたはずの緑の実だと、直感が結びつける。捨てたのではなく、隠していたのだ。しかし、なぜと浮かぶ疑問も、緑の実をつまみ上げる人物で消えてしまう。
他の何よりも優先された。
その人物は意外でよく知ってもいたので、ほとんど無意識で名を呼んでいた。
「ゆうこ……?」
彼女は弾かれたようにこちらに顔を向けた。頭部が二つに裂けて勢いよく僕に食らいついた。
†
「あ。起きた」
味噌汁の香りが鼻孔をくすぐる。タオルケットが僕のお腹にかけてあった。どうやら泣き喚いて、そのまま居間で眠り込んでしまっていたようだ。醜態を晒してしまった。申し訳なさと恥ずかしさで自責の念が凄まじいが。
「……」
僕は有子に聞かねばならないことがあった。確かめなければ。お前が昨晩、神棚で何かしていたか。
「もうちょっとでできるから、顔洗ってきてねー」
「有子、昨日」
「なにー。何か言ったー?」
洗い物の音で僕の声は聞こえづらいようだ。その隙を、僕の弱気があっさり口を塞ぐ。言葉に詰まってしまい、結局何も言えないのだ。
「なんでもない」
これまで何度繰り返したかわからない後悔の前準備を済ませてしまう。僕は顔を洗いにいくしかなかった。
ほどなくして、有子が味噌汁や目玉焼き、サラダなどを居間のテーブルに並べて朝食になった。僕も皿や箸を並べたり、客用の茶碗と、醤油とドレッシングなど出すのを手伝った。自分の家だが、彼女が率先してやってくれていて手際もいいので、僕は下手にでしゃばらず手伝いに徹した。
有子との朝食は楽しくていつまでも続いてほしいと思った。その想いが重なるにつれて、苦しくもなる。いつまでも、なんて都合のいいことはあり得ないと教えられたからだ。
食事あとの片付けは僕がやっておくと言って、洗い物までやろうとする有子を止めて帰らせた。彼女には今日も仕事があるのだ。
ひとりになった家で、洗い物をきっちり終わらせたから僕は居間の神棚を正面から見据えた。
有子に直接問いただすことはできなかったが、自分で調べる気力まではなくしていない。
子どもの頃、初めて目にした謎の緑の実を父親から取り上げられた。お前には必要ないのだと、家族の断裂を感じられるほどに突っぱねられた原因が、捨てられもせず、隠されていた事実は驚くしかない。しかも、ずっと十数年暮らしてきた家の居間にあったのだ。
灯台もと暗し。遠ざけたいのならば、なぜ父は破棄するなどの手段を取らなかったのか。つくづくわからない。僕に〝神えらび〟のことを黙っていても、それに関係する風習は覚えさせるあたりもだ。
考えても腹立たしくなるだけで、答えは出ない。
僕はため息をついて、気持ちを切り替えた。何にせよ、まずは確かめなければならない。昨夜の有子の行動が事実かどうかも含めて。ぼんやりした意識で体験した昨晩が現実なのかは、これではっきりするかもしれない。
テーブルを踏み台に、昨晩の有子と同じように神棚を持ち上げる。が、何もなかった。数十年の埃と汚れ、風化が見られるだけの壁しかなかった。
予想が外れてかと思った時、僕は囁くような声を近くで拾う。神棚からだ。裏側。作られた窪みに、ソレは収められていた。丸い穴にぴっちり嵌まる形で、紙に包まれた球体と思わしきものを発見する。
手が震えた。運が悪ければ神棚を落としていたかもしれない。
半世紀以上使われてきた古びた神棚に、歪な穴が開けられていた。一度神棚を分解して背板を二つにあり、その割れたところに窪みを二つ作って、一つの穴にしたのだ。僕の分析力なんて高が知れている。そうでなくともわかるほど、あからさまに劣化年数が若すぎる傷や釘などが無様に目立っていただけだ。
つまり、父は、僕からこの緑の実を隠すためにわざわざ半世紀大事にされてきた神棚を改造していた。彼に、これを捨てる選択がなく、不器用に手の届くところ、かつ目の届くところに留めたのはもはや意図があるとしか思えない。
彼は常に見張っていた。確認していた。コレがここに変わらずあるのを。
どんな意味があるのかはわからないが、父親は、少なくとも緑の実に脅威か、あるいは捨てきれない何らかの感情を抱いていたことわかる。
だが、結局、僕の手元に戻ろうとしている。
僕は神棚を丁寧にテーブルに置くと、穴に入れられいるソレを取り出した。指で引っ掻くだけで簡単に外れた。ミミズ文字の何かが書かれている紙に包まれた球体がテーブルに転がる。
囁く声のような音が、目の前のソレから再び聞こえてきた。
昨晩、有子が取り出したときと同じ音だ。外の蝉か神棚に虫でもいるのかと考えたが違った。緑の実を包む紙から聞こえているようだ。
「…………」
僕の手は自然と、触れようとしていた。
そもそも疑問を持つべきだった。
なぜ、気味の悪い紙から囁き声のような音がしているのか。
紙で包まれている中身を目視してもいないのに確信を持って、緑の実だと断定しているのか。そして、僕の手が、また子どもの頃のように、緑の実へと吸い寄せられているのか。
触れてはいけない気がするのだと僕の感覚が正常に働いたときは、もはや遅すぎた。
僕は、紙の包みを解こうとしていたのだから。
囁き声がいっそう五月蠅くなる。布をこすり合わせる音に似ているが、幾重にもなっていて、戸を震動させるほど大きかった。
「うわ、うわ!」
紙をつまんでいた両手の指先から、ミミズ文字が皮膚を這っていた。無数の
なんだ。何が起きている。
恐る恐る手を確認する。文字なんてない。僕の手だった。だが、幻覚にしては生々しくて怖気が止まらなかった。
ふと、手の向こうから、水で腐った木のような、苔のような噎せ返る臭いがした。
僕が幼いころ目にしたときそのままの緑の実が、紙の封の隙間から覗いていた。硬い表皮のためか干からびているようにも、劣化しているようにも見えない。僕の記憶に違わない緑色が、僕を見つめ返していたのだ。
二十年前の過去から今に届けられたようだった。
――――僕に食べろと言っている。
緑の実と、ぎょろりと目が合った気がした。
だから、僕は応えなくてはならない。再び、緑の実を掴もうと手を伸ばす。囁き声がまた喧しく鳴り出す。警告音でも何でもいい。僕は、あの頃からソレを食べなければならなかったのだ。
父親がなぜ取り上げたのかさえ考える余地はない。あの日から僕は家族という感情を失った。これを食べれば僕は家族を知ることができるかもしれない。父親が押しつけた理不尽をはねのけて、本来の有るべきものになれるのだ。
「あつッ!」
いざ緑の実に触れたとき、包みの紙が途端に燃えだした。
火の気がなかったのに赤く燃えて、瞬く間に緑の実を熱と赤い火で包み込む。内側で黒くなっていくのが見えたとき、僕は慌てて、火傷の恐れを忘れて両手で握りしめた。
ともかく火を消そうとした。
熱い。手の平が焼ける。ところが、あるはずの感触が消えていく。失う恐怖に震えそうになりながらも、そうっと両手を広げてみた。
なかった。
灰も塵も残さず、緑の実は燃えだした紙と一緒に消えてしまっていた。確かに火ごと握りしめたはずだったが、文字通り消失していた。手の平には軽い火傷しかない。噎せるほどの苔の臭いもなくなっているのが、緑の実がもはや存在していないことの証明を僕に突きつける。
僕のものになるはずだったものが、なくなってしまった。
何がどうしてこんな悲惨な結果になったのかはわからない。だが、誰の士業かは改めて検討するまでもない。父しかいない。
あの人はそれほどに、僕から家族を取り払いたかったのか。
この痛みを心にも刻みたくて、火傷の手を握りしめる。
「あんたは、いったいなんなんだよ……!」
僕はたぶん、父親をはじめて憎んだ。
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