四章 3/4 〈人形浄瑠璃〉

 人形劇のための台座の前に黒子姿に着替えた子どもたちが並んで、一礼する。

 いよいよ。人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり〝神えらび〟がはじまる。

 台座には、山と家屋の背景が用意されて、子どもたちの操る人形が動き出す。三人一組で動く人形は、古くは江戸時代に造られたものもあり、精巧さは時代の流れを感じさせないほどに形のみならず動きの隅々まで繊細だった。

 子どもながらのつたない発音で、物語大筋までのあらすじが語られる。時代の推測は人形の服装からしかできないが、江戸時代かどうかくらいしかわからない。語り部も詳しい時代まで言葉にしてくれなかった。ただただ、昔と。もしかしたら江戸よりも昔かもしれない。

 物語の舞台は日向神村。美しい渓谷に構えた小さな村だ。

 これからはじめられるのは、〝神えらび〟のはじまりではなく、〝神えらび〟に纏わる逸話のひとつ。日向神村でまだ〝神えらび〟がの儀式だった頃、選ばれたふたりの女の子と、ひとりの男の子のヒューマンドラマ。

 〝神えらび〟は山岳信仰さんがくしんこうに近い。四年に一度、山の神に豊穣を約束して貰うべく、女の子を山の神に嫁がせる儀式だ。選ばれた女の子は山の奥、神域のとある場所で、縄で縛られたままその他供物と一緒に捧げられる。

 〝神えらび〟で選ばれる女の子はふたり。生け贄の子を姫巫女と称し、次の〝神えらび〟まで神社に務める巫女を巫と呼んだ。

 このふたりと、神社の神主のひとり息子との物語になる。

 姫巫女と巫に選ばれる女の子ふたりは、同じ男の子に恋をしていた。三人は物心ついたときから一緒に遊んでいた。しかし、身体も心も成長していくにつれて、抱く感情にも変化があったのだ。

 あるとき、女の子ふたりのお気に入りの花草原で、姫巫女ひめみこに選ばれる女の子が神主のひとり息子が好きだと、かんなぎに選ばれる女の子に告げてしまう。そのときは応援すると答えてしまった巫の女の子だが、胸中は焦りと憤りでいっぱいだった。友情が表面の形だけになる。

 話の区切りで、〝神えらび〟の唄が人形を操らない子どもたちで歌われる。


――――……」


 そうだ。この唄だ。

 黒子たちで神楽鈴が奏でられる。


「神えらびをせねばならん。産土の力を繋ぐための楔がいる。この大地と、この安寧を、留めるため。どうか結び給う。我らとこの大地とを、また再び神々のお膝元で豊かのままに。―――神えらびをせねばならん。今一度の楔をこの地に穿つ。留めるため。先のため。我らが真に歩むため。一にして全、全にして一になる。我らにはじまりを。我らにおわりを。真の輝きを」


 僕の聞いた唄とちょっと違っている。これが教師の改編かはわからない。

 だけど、この抑揚と調子こそは、間違いなくあの白の行進で聞いた唄だった。

 物語は薦められる。二人のずれは、月日を重ねてさらに成長していくにつれて大きくなる。巫の女の子は日常の会話からも、姫巫女の女の子をどこか小馬鹿にしていた。友情が崩れなかったのは、巫の女の子の、男の子に嫌われたくない女心の弱さと、姫巫女の女の子の黙す優しさがあったからだ。

 姫巫女に選ばれる女の子は、巫に選ばれる女の子が何に苛立っているのか察していた。ところが、姫巫女の子は自分が男の子に選ばれるはずがないと思っていた。村で一番可愛くて人気があり、村長の娘でもある女の子に敵うはずはない。ただの農民の娘で、知り合えたのも二人から声をかけてきたからにすぎないのだ。

 巫の女の子が勘違いしているだけなのだ、と。

 姫巫女に選ばれる女の子は、時の流れがまた三人の仲を戻してくれると平和に願っていた。

 しかし、男の子の好意の表れが日に日にあからさまになっていった。男の子は、姫巫女に選ばれる女の子を好きになっていたのだ。

 嬉しさの反面で不安と恐怖が、姫巫女に選ばれる女の子を襲う。このままだと巫に選ばれる女の子に嫌われてしまう。

 そんなとき、〝神えらび〟の姫巫女と巫が決まったとの報せが村中に渡る。姫巫女、つまり生け贄に選ばれたのだと、女の子は知らされた。このとき、女の子は足下から崩れ落ちそうになる絶望と、安堵を抱いていた。

 姫巫女としての役目を全うすれば、巫の子に嫌われる前に村から去れる。夜の静けさで眠れなくても、残り少ない時間を大切な友達と共に過ごせるのだ。巫の女の子の前でだけでも、姫巫女の女の子は心から笑っていられた。

 そうして、姫巫女の女の子は、〝神えらび〟を迎えた。

 それはまるで結婚の儀式だ。

 髪を結い、顔も化粧で整えられていて、身に纏う服は巫女のそれを基調にしながらも一際煌びやかに金の細工や刺繍があしらわれている。山の神と結ばれる聖地までを、参列を成していく光景こそ、朝一が遭遇した〝神えらび〟の行進に酷似していた。


「荒ぶる緑の谷の底。住まう我らは緑の民。

 神の麓の厳しさを、骨を軋ませ耐えながら、緑の恵みを乞い給う。

 ここは我が帰る故郷。神が座する盟約の、我らが守る祈りの社。建てる柱は神の身と、神が選ぶ我らの身。

 歌も器も魂も、緑の神へ還る道。故にこれは別れにあらず、我らを導く花と成す。

 願わくば、末まで栄える営みと、飢えを忘れる豊かさを。神と花が指し示す、果ての世までの約束を、我らは今生守り行く。

 絶えず柱は建てましょう。絶えず祈りを捧げましょう。

 我らをここに住まわせ給う。

 どうか我らをゆるたまう。許し給う」


 姫巫女に選ばれた女の子は、これから山の神へ、村の豊穣のために生け贄として捧げられるのだ。

 一旦舞台の幕が切り替わる。

 どうやら儀式前日夜のようだ。ここで、姫巫女と男の子は最後の夜を一緒に過ごそうとしていた。しかし、男の子はよりによって巫に選ばれた女の子に、姫巫女への伝言を頼んでしまう。姫巫女に近寄れる人間が限られているとはいえ、巫の好意を知らないとはいえ、あまりに愚策だ。

 顛末は予想を哀しく裏切らない。

 巫は姫巫女に嘘の場所と時間を教えた。万が一にも姫巫女が男の子に出会ってしまわないための保険もかけていた。

 男の子は、来るはずのない相手を待ちながら、伝えたい想いで溢れた感情を独り言に溢す。


「彼女の生け贄を止められなかった。どうにもできなかった。でもそんなことを伝えても、あんまりだ。いまさら掛ける言葉でもない。僕の好きも一緒だ。こんなの伝えない方がいい。この先彼女に少しでも重みを与えてしまいたくない。だからせめて、友達になってくれてありがとうを伝えたい。出会ってくれて、ありがとう。君がいてくれて、ありがとう」


 異性への好意や彼女を生かすこともできない自分の悔しみも、すべて抱きしめて、彼は感謝の言葉で見送ることを決めていた。ありがとう、と言葉を重ねながら蹲る彼の胸中は、もはや語るのも無粋というもの。子どもの拙い台詞でも、少年の誰にも見せたくない酷い顔は想像に難しくなかった。

 一方、姫巫女は彼との最後の出会いをするべく神社から抜け出して、間違った約束の場所にいた。どんなにまっても男の子は来ない。来るはずもない。

 姫巫女は、ひとりその場を去るまで星空を見て、巫との思い出に浸っていた。最後、その場を去るとき、これでよかったのかもしれないと溢した。未練は哀しい。夏の夜、虫たちも眠らない丘の上で、女の子は寒そうに身を縮めた。

 物語の時系列が戻されて、姫巫女は山へと入っていった。村人が信じて崇める神様に嫁入りしたのだ。生け贄だ。

 一旦物語の幕が下ろされる。劇中数年が経ったようだ。

 というか、子どもがやっていい劇の課題なのも怪しくないかと個人感想を抱く。

 子どもたちの人形劇は続いている。

巫だった女の子は大人になり、お腹に子をなしていた。神社のひとり息子、姫巫女に想いを寄せていた男の子と結ばれていた。幸せそうな日常がある陰で、男が外に仕事へ出かけると、女はひとり家の片隅で罪の意識に苛まれる。旦那といる日常が輝くほど、彼女ひとりのときの闇が濃くなっていた。

 生まれてくる子どものためにも頑張っているのが無理しているように見えた。

 そんなある日。村は豪雨に遭った。山は崩れて、川の水は村を飲み込まんと氾濫した。山と空の怒りだと村人は怯え逃げる。

 女は逃げ遅れていた。身重でうまく走れず避難がうまくできていなかった。川の氾濫が夜だったのも要因していた。騒ぎになったときには、水位は村に届いていた。

 真夜中の深い闇を手探りで、女に男が寄り添ってふたりで山を登る。少しでも高いところを目指していた。

 逃げる最中で渓谷の村の大半は川の水に流されている。神社も例外に漏れず川の水に浸かっていた。いつまで続くかわからない豪雨から逃げるには、水の届かないところへ行く他なかった。

 ところが。山の道で土砂崩れが起きて女は巻き込まれてしまう。男ともはぐれてしまった。

 女は急な斜面を土砂で転げ落ちて、氾濫した川辺にいた。水に飲まれる寸前で気絶から目覚めたが、逃げ延びる道はなかった。子を身籠もった身体では滑りやすい岩肌の多い斜面を登れなかった。

 上流の土砂でせき止められた川の水が、鉄砲水が女を襲う。濁流に飲まれる。

 女は激しい流れの中でもなんとか水面に顔を出して耐えていた。だが、いつまでも持たない。このままだと水に沈んでしまう。

 そんなとき。女は、懐かしい声を聞くのだ。生け贄になったはずの姫巫女だった。

 声だけで姿はない。優しく囁く声は、しかし豪雨と濁流の音にもかき消されず女の耳に届いている。こっち、こっちだと、声のする方へ泳いでと言っている。流されるまま腕で水をかくだけでいいらしい。

 女は、これは死の誘いだと疑う。生け贄前夜のとき嘘をついて男の子と出会わせなかった。恨まれていると思っていた。声の誘う方向が、女が流されている岸側とは反対だったのもあった。

 激しくなる川の氾濫で、女は溺れそうになる。浮いているのも体力の限界だ。どこまで流されているのかもわからない。

 女は諦めた。どうせ死ぬのなら、姫巫女に殺されようと考えたのだ。子どもの姫巫女の声がする方へ泳いだ。流されながら反対の岸へ少しずつ近づいた。

 不思議な事が起きる。濁流の川を半分越えたとき、女を飲み込もうと激しかった流れが緩やかになった。川の窪み。大きい瘤のような、流れのたまり場にたどり着けた。

 しかも陸に上がれそうでもあった。女は既視感に眉を顰めながら川から這い上がる。どこか見た覚えがある。高台を望んで坂を登っていき、少しひらけたところに出た女は、膝から崩れ落ちた。

 女の頬に一筋がつたう。濡れた髪から垂れる水かもしれない。だが、女の顔が悲哀に歪められて物語る。

 まだ姫巫女の女の子と本当に仲が良かったころ、親友でいられたときにふたりで訪れていたお気に入りの花草原だった。また、姫巫女が、自分も恥ずかしそうに男の子が告白した場所でもあった。

 哀しみの叫びがあがる。言葉はない。声だけが、ただただ。

 どれだけ泣いていたかもわからない時間が過ぎて、空が晴れる。

 その年、女は立派な女の子を無事出産した。

 エピローグに入る。この子どもが数年後に山の神と意思を交わして、村に豊穣と安寧、そして生け贄のない未来を約束した。

 姫巫女と同じ衣装を纏った少女の人形が舞う。奉納の舞だ。後ろの黒子が謳う。

 それは〝神えらび〟の祝詞のりとではなく、少女の母が友を想っての、哀しい唄だ。


「頬を濡らすのは、どうか涙であってほしい。

 表情も化粧になれてしまいました。心も純朴についてきてしまいました。

 どうせならあのときに置き去りにできたら、どんなによかったでしょう。

 今日は雨が荒々しくて夜は寒く寂しい。嵐が静けさをくださいました。

 心の音に耳寄せよう。ここにあるのは命の音。命の熱。

 膝を抱えて内側だけを聞けていたのなら、きっと世界はただひとつなのでしょう。

 頬を濡らすのは、どうか涙であってほしい。

 とうに表情もわからなくなってしまいました。心だけは相も変わらず付き合いがいいです。

 耳を塞いでもどんなに無視をしても。飽きることなく。願い給う。

 嵐の夜は静けさをくださいました。

 あらゆる音が嵐で聞こえない。嵐だけが聞こえている。

 私の傍には心だけがある。願い給う。どうか願い給う。

 ごめんなさいは届かなくても。また笑い合えるいつかの遠くを。

 ただひとつの、太陽の下で笑い合えた純真を。あのときの草原が懐かしさで曇ってしまっても。

 心で奏でる音を折り重ねます。また笑顔でいてと、願い給うと響かせましょう」


 人形浄瑠璃の〝神えらび〟は幕を下ろした。

 リハーサルのため、子どもたちも動きが硬くて、声もたどたどしかった。簡潔にまとめるとまだまだ全体のぎこちなさが抜けていないのが目立った。とはいえ、それなりに形にはなっていて、物語の完成度や人形の精密さの後押しもあって感情移入もできた。

 僕以外も人形劇に感動していた人が他にもいたようで、拍手も自然と起きていた。ハンカチやティッシュを目元に当てている人もいる。僕の視線はちらりと有子を見ていた。彼女はとても穏やかに拍手を送っていた。見守る目をしていた。

 教師と生徒たちの挨拶も終えて、無事、人形浄瑠璃のリハーサルは終わった。彼らが藤棚から去って、今日で終わる祭り準備作業も解散になった。役場職員の締めの挨拶もそこそこにして、今晩の飲み会の案内に繋げられる。

 準備参加者の中には祭り運営には関わらない人もいるので、その人たちに向けての意味がある。祭り前の景気づけでもあるらしい。

 前もって数日前から知らされていたことで、僕は参加の名簿に記名していない。大勢の空間は苦手意識がある。だが、帰る前に確認しておきたいことがあった。


「静夫さん。〝神えらび〟は、あの人も日向神村の血縁だったりするのですか」

「いや。直接はないと思うぞ。そもそも、日向神村がダムに沈むときには伝統も廃れかけていたって聞かされてる。どこかの分家で話だけ聞かされてきたというのは珍しくない」

「そうですか」

「興味あるのなら聞いてみるといい。優しい人だからたぶん気をよくして教えてくれるぞ」


 このときの心境を、僕は表し方を知らない。

 ただ、その一歩が前進であれ無駄足であれ、恐れてしまっていた。


「いえ。いいです。静夫さんは、日向神村からの神を信じていますか」

「少なくとも信じている。だが、いないとの変わらないから、よくわからん」


 ですよね、と気の利かない返答をした。


「そういや。今日の晩飯はどうする。母がお前も誘えたらといっていた」

「…………え。あ、いえ。気を遣って頂いて、ありがとうございます。でも、今日は帰ります。疲れました」


 普段から引き籠もりだから、家に帰りたがるのはなんら不思議ではない。

 覚えがあった。ごく自然に持ちかけられてあぶなかったが、たぶんこの人の母親も同じだ。でも、いつから?

 途端、静夫さんの後ろから得たいの知れない何かを感じそうで怖くなった。恐ろしいのは静夫さんではない。僕の日常に這い入る何かだ。


「そうか。いつでもいいから、来たいときは声をかけてくれたらいい。母もお前に会いたがっている」

「具合、よくないのですか」

「悪いともいわないが。前よりかはな。もう歳だからあんまり動き回れないのもあってな」


 確か死因は老衰だった。

 特段の病気もなく静かに息を引き取ったらしい。


「身体に気をつけてと伝えてください」

「わかった。疲れているところ引き留めて悪かったな」


 始終、静夫さんが演技をしているように見えなかった。

 薄ら寒い何かから逃げたくて、僕の足は迷わず家に向かっていた。

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